志村けんと由利徹の類似性は「いかがわしいおかしさ」にあった | FRIDAYデジタル

志村けんと由利徹の類似性は「いかがわしいおかしさ」にあった

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コメディアン史に名を残す巨人たちの接点

今年3月、TBSとフジテレビの局の垣根を超えた特番『春だ!ドリフだ!みんなあつまれ全員集合!』(フジテレビ系)が放送され高視聴率を記録するなど、志村けんさん(※以下、すべて敬称略)の人気はいまだに衰えることを知らない。 

そんな国民的コメディアンの志村が、最初に弟子入りを志願したのが由利徹である。高校時代、お笑いの世界へ飛び込もうと門を叩いたが、すでに4人の弟子がいたことで断られた。志村は、これを受けてコント55号とザ・ドリフターズのどちらの付き人になるか悩んだ末、1968年2月にいかりや長介の自宅を訪れている。 

師弟関係でこそないが、由利と志村はコメディアンとしての姿勢が実によく似ている。それぞれのエピソードを振り返りながら、彼らが表現した笑いの類似性について考えてみたい。

(写真:共同通信)

「だっふんだ」と「オシャマンベ」

 最初に取り上げたいのが、2人の代表的なギャグについてだ。どちらも意味がないようで、しっかりとしたバックボーンがあるというところで共通している。

たとえば志村がもっとも多く演じたキャラクター“変なおじさん”の「だっふんだ」。毎回セクハラまがいの行為を繰り返すも、すぐに見つかって妙なダンスを踊り出す。その最後のオチで放たれるフレーズである。

この「だっふんだ」は、落語家の二代目・桂枝雀が得意とした演目「ちしゃ医者」をヒントにしている。医者の先生の咳払いの声が「だっふんだぁ」というユニークなフレーズに聞こえたことから、志村は変なおじさんのオチで使っていたのだ。

一方の由利には、「オシャマンベ」という有名なギャグがある。「オシャ」で腰を落として下半身に力を入れ、「マンべ」で股を開く。これは、1965年に公開された高倉健主演の映画『網走番外地』にちなんだギャグである。北海道の長万部へ撮影に出向いた際、現地に住む人や郷土料理を気に入り、「ちょっと宣伝してあげなきゃ」というサービス精神から生まれたギャグなのだ。(高平哲郎著『由利徹が行く』(白水社)より)

ちょっとエッチな雰囲気が漂うところも共通している。変なおじさんは説明不要だろうが、「オシャマンベ」については、「マンベ」を強調することで卑猥さを表現していた(前同。意味はお察しいただきたい)。由利は役者を目指してムーラン・ルージュに入団したが、笑いを学んだのはストリップ劇場の新宿(および横浜)セントラルだった。つまり、“いかがわしいおかしさ”こそ、由利の真骨頂なのである。

志村もまた、『8時だョ!全員集合』(TBS系)の若手時代から、白鳥の首がフリフリするバレリーナの格好で笑いをとっていた。ギャグの奥に潜む芸風が極めて近いのだ。

東北訛りの笑い 

東北弁で笑わせたのも似ている。由利は宮城県石巻市の生まれで、たとえば「チンチロリンのカックン」を「ツンツロリイのカックン」と表現する。歌舞伎の効果音“つけ”のリズムにヒントを得た「チンチロリン」に、軽い失望の「カックン」を足したものだ。

このギャグは、1958年に封切られた由利の主演映画『新日本珍道中』で大流行することになった。

志村もまた東北弁をよく使った。代表的なギャグ「だいじょうぶだぁ」は福島弁がネタの大元だ。志村の兄の妻が福島県出身で、その実家に志村も一緒に遊びに行ったところ、義姉の父親が、「だいじょうぶだぁ」と連呼していたことが起点となっている(志村けん著『変なおじさん【完全版】』(新潮文庫)より)。

また、「お爺さん、お婆さん」を「爺様(じさま)、婆様(ばさま)」と表現し、変なおじさんのコントで「そうです、私が変なおじさんです」と名乗る場面でも東北訛りが使われている。

伴淳三郎も東北訛りが抜けなかったコメディアンとして知られているが、山形弁からくる「アジャパー」が流行したのは1950年代で、1960年代に入るとシリアスな演技でも評価を受け始めている。この点を踏まえても、志村が多感な時期に影響を受けたのは由利だったと考えて間違いないだろう。

「動き」で笑わせたコメディアン 

志村と言えば、言葉ではなく「動き」で笑わせるコメディアンとして知られている。

「酔っ払いコント」では、前傾姿勢のまま千鳥足になり、階段を一段ずつ躓きながら上がったりする。「ひとみばあさん」では、腰をかがめてヨタヨタと歩いたり、声を微妙に震わせながらしゃべったりと芸が細かい。こうした巧みな動きは、由利徹にも通じるところがあった。

先述した『由利徹が行く』の中で、由利自身こう語っている。

「やっぱり体で覚えたギャグね――跳んでコロんでっていう、それを喜劇役者の特技としなくっちゃ。あれね、鍛錬でね。日頃の鍛錬だよ、あれは。完全に動けなくなったら、やめりゃいいんですよ。授かったものが動くうちは、動かしてりゃいんですよ。大先生ぶって、おさまってちゃ駄目ですよ」

由利は亡くなる3年前の1996年まで舞台に立ち、志村は前年の2019年まで舞台「志村魂」の座長を務めた。いずれも、「体の動きこそ表現」と言わんばかりの生き様である。

ちなみに志村は、『志村けんのだいじょうぶだぁ』(フジテレビ系)のコント「ご存知!じいさんばあさん」の中で由利が得意とする“裁縫のパントマイム”をオマージュして笑わせている。彼らの笑いはパッと見の目新しさではなく、リアルな動きに裏打ちされた奥深いものだった。

舞台を軸に活動 

もう一つ着目したいのが、舞台を軸に活動していたことだ。

志村は中学生の頃にテレビで「雲の上団五郎一座」の舞台中継を見て、コメディアンへのあこがれを強めた。雲の上団五郎一座とは、1960年に東京宝塚劇場の東宝ミュージカルで初演された芝居だ。貧乏な旅回りの一座が劇中劇で歌舞伎の演目など著名な芝居を演じるという趣向で、爆発的な人気となった。

このヒットを受けて、翌61年に「続」、62年に「吉例雲の上団五郎一座・御手本忠臣蔵」といった形でシリーズ化され、何度かテレビでも放送された。ちなみに由利は、77年に日本劇場で行われた同公演で座長に就任し、以降79年の暮れまで4回に渡って座長を務めている。映画の世界でも活躍したが、体の動きを得意とした由利の軸は舞台にあったと言えるだろう。

一方の志村は、ドリフターズとして『8時だョ!全員集合』の公開生放送を長らく経験し、89年から92年まで『志村けんのだいじょうぶだぁ』のレギュラー出演者とともに年1回の舞台公演を行っている。少し空けて、2003年に沢田研二との舞台「沢田・志村の『さあ、殺せ!』」に出演し、2006年から晩年まで舞台「志村魂」の座長を務めた。やはり舞台の人なのである。

素は苦手。晩年は人情喜劇へ

普段はシャイだが、役やキャラクターに入ると大胆になるという性格もよく似ていた。志村自身、先述の『変なおじさん【完全版】』の中で「素顔のままでおもしろいことをするのは、ちょっと苦手」と書いている通り、自分やドリフ以外のバラエティ番組にバカ殿様の格好で出演した時期もあった。由利もまた本の中でこんなことを語っている。

「役者は照れ屋のほうがいい。思いきったようにやれるんだよ。ヅラつけたり化粧したりすりゃなんでもできる。スッピンじゃ俺は絶対にダメなの。鼻の頭に、ちょっと黒いのつけると『あっどーも、どうも』(おどける)っていけるけど、スッピンだと初めから真面目なこと言っちゃう」(先述の『由利徹が行く』より)

年齢を重ねるにつれ、泣き笑いの人情喜劇の世界を好んだのも同じだ。志村は「志村魂」で藤山寛美の芝居を必ず演じた。由利も古典落語の人情噺(「文七元結」「芝浜」など)を芝居にした作品が好きで、晩年になって酒を飲むたびに「客は笑いたいけど泣きたくて芝居を見に来るんだからな。俺のな、そういう芝居が受けるんだよ」と口にしていたという(高田文夫著/笑芸人編著「ありがとう笑名人 第1巻」(白夜書房)より)。

音楽コントのルーツを持つドリフで活躍した志村だが、それに負けず劣らずコメディアン・由利徹の影響も大きかったのではないだろうか。とくに2000年以降、志村が芝居に挑戦した一つのきっかけになっただろうことが想像される。

『志村けん論』鈴木旭(朝日新聞出版)

 

  • 鈴木旭

    フリーランスの編集/ライター。元バンドマン、放送作家くずれ。エンタメ全般が好き。特にお笑い芸人をリスペクトしている。4月20日に『志村けん論』(朝日新聞出版)が発売された。個人サイト「不滅のライティング・ブルース」更新中。http://s-akira.jp/

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