暴漢に刺された男・溝口敦が明かす「私の壮絶山口組体験」 | FRIDAYデジタル

暴漢に刺された男・溝口敦が明かす「私の壮絶山口組体験」

「全裸監督」の本橋信宏が迫る

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溝口敦(みぞぐち・あつし) 1942年東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。ノンフィクション作家、ジャーナリスト。『食肉の帝王』で第25回講談社ノンフィクション賞を受賞。近刊に『職業としてのヤクザ』※鈴木智彦氏との共著。

<5月に発売された『喰うか喰われるか 私の山口組体験』が圧倒的な面白さだ。50年もの間、決して怯むことなく山口組取材を続けてきた著者・溝口敦による戦いの記録がこの一冊にまとまっている。本書で描かれている溝口の壮絶山口組体験に、『全裸監督』原作者の本橋信宏が迫った。>

1億、2億でも受け取らない

「刺されたのは高田馬場の児童公園のすぐ横のマンションです。そこの一室を事務所にしていて、そこから出たところ」

ノンフィクション作家・溝口敦が訥々と回想する。

1942(昭和17)年生まれ。

戦前生まれの書き手が激減したいま、現役で活躍する数少ない手練れのノンフィクション作家である。

なかでもヤクザ取材、とりわけ山口組に関する著書の多さは当代一、その分、軋轢もあった。

平和ボケと呼ばれて久しい我が日本において、ジャーナリストが第三者から刺されたり撃たれたりすることは、めったにない。

溝口敦はその例外中の例外になった。

同じく高田馬場に仕事場がある私にとって、目の前の人物は仕事も大学も学部も学科も同じ先達である。

1990年、スポーツ紙に連載していた記事を土台に『五代目山口組 – 山口組ドキュメント』(三一書房)をまとめ、刊行した。

日の目を見る前に、内容に問題があると、山口組最高幹部から内密に出版取り止めを打診された。

溝口敦の筆致が山口組五代目を襲名した渡辺芳則に厳しく、問題になっていた。

出版取り止めをのめば、初版相当分の印税を補償するという提案もあったが、溝口敦は蹴った。

ヤクザのアメとムチは取材過程において、時折直面する。

恐くなって出版取り止めにする場合もあれば、カネを積まれて、それを受け入れるケースもある。どちらもジャーナリズムの敗北である。

当の溝口敦はーー。

「100万、200万出されても受け取る気にならない。1億、2億でもイヤだ。僕がやっているのはそういうカネをもらう商売じゃない。出版社から原稿料をもらうのが仕事だから。カネで転ばない自信はこれまでの物書きの中でずっとありますよ」

――この仕事をしていると、よくお車代を渡そうとする相手がいますよね?

「一度も受け取ったことがない。宗教関係の取材で出されたことがあったけど」

私は以前、読んだ記事を思い起こした。

ヤクザは面子で生きる稼業である。

封筒に入った金を拒否すると、拒否された側は示しが付かなくなる。

この場合、いったん受け取って数日内に同じ金額の商品券を相手に贈り、貸し借りなしにする、というのをたしか溝口敦の記事で読んだ記憶がある。

なるほど、見事な差配である。

「僕にしては当たり前ですが。でもきれいとも言えないんですよ。その前に、築地・銀座3軒で飯をご馳走されてるんです。それに対するお返しをしてないから」

すべて相手側のもてなしを蹴ってしまっても、いい情報は得られない。

取材においてどこまで相手側と距離感を保つかは、常に頭を悩ませる問題である。

つかえるのはヤクザではない

半世紀にわたる山口組取材の舞台裏と苛烈な戦いを綴った溝口敦の新刊、『喰うか喰われるか 私の山口組体験』は、今年上半期出版物のなか、私のベスト1である。

自らを刺傷され、編集部に暴漢が押し寄せ、息子までが狙われる――三度の襲撃に見舞われながら、日本最大の組織暴力と真っ向から立ち向かい続けた著者による、半世紀にわたった山口組との戦いの記録が記されている。

本書には、1990年の刺されたときの記録が生々しく綴られている。

〈一瞬、熱いと感じたが、殴られた程度の痛みしかなかった。たぶん私はきょとんとした間抜け顔だっただろう。刺されたとはまだ思っていない。男はどうだと言わんばかりの目の色をしたが、続けて刺そうとはしなかった〉

だが次第に出血がひどくなる。

早稲田通りの小さな文具店に寄り、そこから傷の確認と救急車を手配した。

その文具店は私もよく通う店であり、主人から直にその話を聞いたことがあったから、よけい刺傷事件がリアルに伝わってくる。

〈病院ではシャツとパンツをハサミで切られ、麻酔を打たれて傷を縫われた後、集中治療室に入れられた。傷口は幅五センチ、深さ一〇センチ。刃先が腎臓の上端をかすめていたが、運がいいことに内臓に損傷はなかった。ただ出血量が多く、全身に疲労感を覚えた〉

下手すれば腎臓を損傷し、命がなかった。

事件から16年後。

山口組をめぐる報道の矛先を緩めないことで、今度は溝口敦ではなく長男が何者かに太股を刺され傷を負う。犯行現場に犯人が携帯電話とライターを落としたことがきっかけで、犯人逮捕。

犯行は山健組関係者だった。

溝口敦と長男は、元組員と山健組組長を相手に7200万円の損害賠償を求める訴訟を東京地方裁判所に起こし、2008年に和解が成立。組側が解決金を支払うことで決着した。

ーー親子が刺されてもペンの矛先を緩めない。溝口さんの背中を押すものは何なのでしょうか?

「僕の性格がそういうとこがある。性格的なもの」

ーーお若いころから?

「そうでしょうね」

デビュー作、『血と抗争』(三一書房・1968年)に載っている25歳の著者(若い!)が執筆中にカメラを一瞥している姿は、やはりふてぶてしかった。

「私がつかえるのは読者であって、ヤクザではない。信用を得なくてならないのはあくまでも読者にですから。読者の目となる。はした金で転ぶわけにはいかないじゃない。考えてもみてください。中近東では取材中に記者が逮捕されたり、殺されたりするんですよ。そういう戦場記者に比べれば、(恐れていては)平和ボケしてるんじゃないの」

刺されるきっかけのひとつになったのが、山口組五代目渡辺芳則組長への低い評価だったという。

「僕は渡辺芳則と一番親しかった記者と言っていいと思うけど。最初の印象は悪くはなかった。けれどつまらんところにこだわる。新幹線が故障して僕が遅刻したとき、なんで遅れた? と2、3度繰り返す。謝っているのに、些末なことにこだわる。それに話に自慢がつく。(五代目山口組若頭)宅見勝も司忍(六代目山口組組長)も会ったことはあるけど、一般企業の中堅幹部という感じの人たち」

ーーでは溝口さんが高い評価をくだしているヤクザは?

「一番迫力を感じたのは竹中武(二代目竹中組組長)。喋り方も迫力があったし、言うことももっとも理屈が合っていましたね」

山口組から分裂した一和会が放ったヒットマンによって四代目山口組組長竹中正久が暗殺され、山一抗争が勃発した。

多くの犠牲者を出して1989年3月、一和会山本広会長が竹中組長の霊前にわびを入れ一和会解散で終結した。

ところが実弟の竹中武は敵討ちを果たしていないと、山本広を狙い続ける。その結果、撃ち方止めとなった山口組から脱退、今度は山口組から狙われることになる。

兄・正久を有名にしたのは、警察が家宅捜査に踏み込んだとき、前に出て大声で警察を怒鳴り散らしたニュース映像だろう。

兄弟そろって筋を通す、血の気が多い印象がある。

それでも『山口組四代目 荒ぶる獅子』(徳間書店・現在講談社+α文庫)という書があるように、溝口敦の竹中兄弟への評価は高い。

山口組分裂騒動について

一つ謎なのは、六代目山口組が分裂し、神戸山口組が誕生したときだ。

溝口敦は神戸山口組に塩を送る書き方が感じられた。神戸山口組の中核は溝口敦と対立した山健組である。

この辺はどう折り合いをつけたのか。

「それはですね、第一番に神戸山口組が発足する10カ月も前に中心メンバーが訪ねてきて、僕に事前に情報が入ってきたのが大きいですね。六代目を批判して組を出たんだから、批判する側にそのときは正義がある。ニュースバリューがある。批判する側は自分たちが正しいという補強材料をバンバン外に出す。批判される側は受け一方で材料が出ない。材料が出たほうが面白い」

(左)本橋信宏 1956年埼玉県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。Netflix世界190カ国配信、山田孝之主演「全裸監督』原作者。最新刊『新・AV時代 全裸監督後の世界』。近刊に『出禁の男 テリー伊藤伝』。

ところが今度は神戸山口組が分裂し、任侠山口組(現在、絆會)が誕生した。

「六代目山口組と同じ過ちを繰り返して、井上邦雄組長は(下部組織から高い)お金を集めた。それで神戸山口組の大義名分が失われて、織田のほうに移った」

山健組副組長だった織田絆誠は神戸山口組の若手を引っ張るリーダーだったが、カネを優先させることに嫌気がさして脱退、新たに任侠山口組(現在、絆會)を結成した。

「織田絆誠については、何よりも彼の弁舌が論理的で、組員全員への指導性を評価してます」

六代目山口組髙山清司若頭が6年間の服役後出所してから、山口組の勢いが増している。

「ヤクザの器量とは、胆力と頭の良さ。髙山清司にはそれがある。当代一です。みんな怖がってるのは彼の戦術で、カマシを入れ、ビビらせ、言うことを聞かせる」

『喰うか喰われるか 私の山口組体験』では、同じノンフィクション作家でヤクザ関連の原稿も多い朝倉喬司(2010年11月死去)との大喧嘩という記述も載っていて興味が尽きない。

1990年11月。溝口敦の快気祝いも兼ねて学生時代在籍していた早稲田大学新聞会の旧友たちと高田馬場で飲み会があった。

「朝倉喬司とは早稲田大学新聞で一緒だったけど、印象があまりないんだな。週刊現代でも一時期、在籍が重なったのか、重なっていないのか、はっきり知らない」

飲み会の席で、朝倉喬司が溝口敦の『五代目山口組』を批判してきた。

〈私はハッキリ言った。
「あんたの作品は一冊も読んだことがない。読む気がしないのだ」
と。これで朝倉が狂いだし、
「お前が刺されるのは当たり前だ」
「ヤクザについては俺のほうが取材している」
などと口走った。
仕舞いにはお互いに「このダボがっ!」「バカが!」と罵り合い、朝倉はスリッパのように後ろを踏み潰した靴を脱いで、私の頭を殴った。私はお返しに拳固で彼の頭に一発見舞ってやった〉

ゴールデン街名物の乱闘を高田馬場でやったようなものだ。

熱い。どこまでも熱い。

山口組にも同業者にも容赦ない。

溝口無双!

そんな溝口敦の幼いころの古い記憶はーー。

川崎市高津区の家の前の道路に、ろう石で飛行機や戦車を描いていた。

ーーフリーランスの大先輩に聞きますが、長い人生のなか、経済的に落ち込んだ時期はありましたか?

「不思議なことにないんです。(経済的に)やばいなと思っても、自作が映画化になったり漫画化されたり、ビデオの話が来たり、この漫画、韓国でも出しましょうとか話が入ったり。僕は(ヤクザ記事以外の)他の分野もやっていたから、(山口組の圧力を)蹴っ飛ばすことができた。それに山口組は一枚岩じゃなかった。僕に協力してくれる部分もあるのが意外でした」

読者を面白がらせようと、読者の知らない事実を原稿にしていく。

「お袋と同じで、面白がり屋なんです」

ここ高田馬場で先達の文運を知り、大いに刺激を受けた、還暦越えの私であった。

(実話BUNKAタブー8月刊より)

  • 取材・構成/本橋信宏本橋信宏撮影岡崎隆生

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