Mr.マトリが語る「山口組と闘った男・溝口敦の凄み」 | FRIDAYデジタル

Mr.マトリが語る「山口組と闘った男・溝口敦の凄み」

  • Facebook シェアボタン
  • Twitter シェアボタン
  • LINE シェアボタン
  • はてなブックマーク シェアボタン
元関東甲信厚生局麻薬取締部部長で「Mr.マトリ」と呼ばれた瀬戸晴海氏

<昨年1月に出版された著書『マトリ』が話題になった、関東甲信厚生局麻薬取締部部長で「Mr.マトリ」と呼ばれた瀬戸晴海氏。暴力団や闇組織との攻防の中で、ジャーナリスト・溝口敦氏の著作を参考にしていた部分もあるという。捜査のプロが語る、溝口氏の「凄み」とは――>

私は1980年、当時の厚生省(現・厚生労働省)に採用され、近畿地区麻薬取締官事務所(現・麻薬取締部)に配属された。以来、大阪、東京を中心に暴力団や外国人犯罪組織を相手とする捜査活動、薬物密輸を防ぐための国際的な情報収集活動に携わってきた。横浜分室長、沖縄支所長、中国・四国部長、九州部長、そして2014年に関東信越厚生局麻薬取締部部長を拝命し、18年3月に退官した。

私がマトリとして大阪に配属された当時、薬物犯罪、それと密接に関わる暴力団の動向は、まさに激動期にあった。山口組では田岡一雄三代目組長がまだ健在であったが、1975年から78年にかけての松田組との大阪戦争、78年7月には京都のクラブべラミで田岡組長が松田組系大日本正義団の鳴海清によって狙撃され、鳴海の遺体が六甲山中で発見(9月)された。

また、私の主な捜査フィールドは大阪・西成地区だったのだが、79年1月にはその西成にほど近い三菱銀行北畠支店で4人が射殺される人質事件が発生した。犯人の梅川昭美(あきよし)はべラミ事件の鳴海清とも接触を持っていた。

81年には田岡一雄組長が亡くなり、続いて絶縁されていた元若頭補佐・菅谷政雄(ボンノ)、四代目を本命視されていた山本健一若頭も死去。84年には竹中正久が山口組四代目を受諾し、反対派は一和会を結成。山一抗争が勃発する。85年に竹中正久組長ら3人が一和会に狙撃され、死亡。同じく85年には、「山口組ハワイ事件」で、竹中組長の実弟の正ら山口組幹部が、一和会への報復のためのロケット砲など密輸、麻薬不正取引などの容疑でDEA(米麻薬取締局)に逮捕されるという驚愕の事件が起きた。

一方薬物犯罪では、81年に深川通り魔事件が発生、3人が死亡、4人が重軽傷を負った。翌82年には、まさに西成で4人が刺殺、3人が重軽傷という幻覚殺人事件が勃発する。

薬物犯罪においては、「大企業」である山口組やその直系団体がダイレクトに密輸・密売するなどありえない。必ず、三次、あるいは四次団体が「一本独鈷」で当たる。しかし末端組織といえど、トップの組長や大幹部に異変があると、必ず影響する。したがってマトリとしては、常に山口組の動向には目くばせをしなくてはならいし、そもそも山口組とはどういう組織なのか、そこから勉強する必要があった。

そんな私の参考書となったのが溝口敦の「血と抗争」(『血と抗争 山口組三代目』)であった。

溝口敦氏の「死闘」が描かれた自伝的ノンフィクション『喰うか喰われるか』

そしてハワイ事件と前後して、溝口は『山口組VS.一和会』『荒らぶる獅子 山口組四代目竹中正久の生涯』を刊行し、私にとってはまた、貴重なる道標となった。当時は山健組が最大勢力を誇示しており、地元の大阪では地上げから日常の商取引についてまで、隅々にその影響力は及んでいた。西成あたりの覚醒剤路上密売では、区画ごとに縄張りは地割で明確に決められている。狭い地域に60団体ほどがひしめいていた。しかしそこでも山健系の下部団体は明らかに力が違った。

竹中正久暗殺については忘れられない体験がある。ちょうどそのとき、私は西成の密売所で張り込みをしていた。するとポケットべルが鳴り、ただちに電話をしたところ「竹中組長が狙撃された。たいへんなことになるぞ」と伝えられた。

抗争が起きると、我々捜査員も危なくなる。捜査のため、ヤクザと見紛うような格好で目立たないようにウロウロしているわけだが、そうすると間違われて狙撃されるかもしれない。

そこでいったん撤収しようと引き上げたのだが、途中、竹中組長が運び込まれた天王寺の大阪警察病院に寄った、すると、我々どころではない「丸出し」の組員が駐車場を埋め尽くして、岸本才三本部長が拡声器で、でかい声で怒鳴っている。私はこのとき、山口組の巨大さ、組織力を初めて目の当たりにした気がする。

同年、山口組ハワイ事件が起きた。DEAやNCIS(米海軍犯罪捜査局)らと我々は緊密に連携していた。私もDEAやNCISに長期にわたって学び、本部やアカデミーで訓練を受けていた。DEAは世界60数か国に情報網を張り巡らせており、大型の国際薬物犯罪組織に対しては5年、10年とかけて捜査にあたる。それもとことん秘密主義でやる。

ハワイ事件で山口組がロケット砲を求めたことは、そのDEAにも衝撃を与えた。そのころ、海外の捜査機関は日本のヤクザに強い関心を抱いていた。暴力団というのは行政用語で、ヤクザ自体は自分たちを暴力団とは呼ばない。私たちが海外の捜査機関に説明するのに、ヤクザや侠客というのは、訳しづらい言葉だった。

海外の捜査官は、幻想もあったのだろうが、ヤクザに興味津々だった。南米の麻薬カルテルなど、犯罪組織は「反政府勢力」というのが相場だ。ところがヤクザは、警察権力に迷惑をおかけしないだの弱いものは助けるだの、道の真ん中は歩かない、譲るとか、さらには名刺を持っているとも聞いた、なんなんだこれはと、理解不能なようだった。侍や戦中の特攻隊につながるのだろうか、指を詰める、手掘りで入れ墨を掘る。だれかに指を落とされるのではなく、不義理をした、謝るためにと自ら詰める。「腹切り」につながるのだろう。入れ墨も機械彫りではなく手掘りで、神話的な存在に映る。

海外の捜査官が私に「指を10本詰めたらどうなるんだ、足の指も詰めるのか?」と真顔で訊いてきたこともある。ところがハワイ事件のロケット砲で、そんな見方も吹っ飛んでしまった。これではテロ組織だ。山口組は田岡時代から続く拡大路線のなかで、ヤクザという存在を自ら超えてしまったということだろう。

少し下った90年、山波抗争(波谷組)でも私は衝撃を受けた、大阪戦争の大日本正義団の残党が、もともとは菅谷組だった波谷組に吸収されていたが、山健出身の渡辺芳則が五代目となった山口組は執拗に攻撃を繰り返す。大阪、高槻の淀川の河原に、正義団の副長をしていた平澤勇吉が率いる平澤組幹部が手足を撃たれて放置されるという事件が起きたときには、私も、なぜこの集団はここまでやるんだろうと、不思議、かつ空恐ろしさを感じたものだった。

溝口敦が渡辺芳則の実像を描いた『五代目山口組』を刊行し、山口組から刺されたのはまさにこの年のことである。92年には暴力団対策法(暴対法)が施行、同年には伊丹十三監督襲撃事件とこれも溝口の記事が発端のFRIDAY編集部襲撃事件が起きた。それでも溝口は筆を緩めることはなかった。

海外から日本への覚醒剤密輸というのは、80年代までは韓国産が主流だった。それが80年代後半から、台湾にシフトしていく。87年、我々麻薬取締官が台湾ルートの覚醒剤80キログラムを押収し台湾人等計6人を逮捕した。当時では想像を絶する規模だ。台湾では薬物のことを「毒品(ドゥーピン)」と総称し、覚醒剤の法律名は「安非他命(アンフェタミン)」という。

価格は概ね日本の5分の1で、安、安仔(アンツー)、冰塊(ペンカイ)、冰糖(ペントン)等のスラングで呼ばれている。密輸(運び屋)と密造師は別で、覚醒剤の密造師を「毒師傳(ドゥースーフー)」と呼び、彼らは一子相伝の世襲制である。台湾からの覚醒剤は質が良く、量も潤沢にあった。88年に台湾当局が「掃黒」、黒社会(ヘイサイホー)への徹底的な摘発を始めた。台湾法務部調査局には薬物専門の部局、毒品防制処(MJIB)が存在し、台湾へ興味を抱いた私はこことの関係を深めて行った。

90年代に入ると東京・新宿に台湾のチャイナ・マフィアが入ってきて、事件を起こす。台湾のホステスがいて、そこに台湾の指名手配犯が入ってくる。すると溝口は小学館の「SAPIO」でチャイナ・マフィアのレポートを始めた。

私は驚いた。山口組もそうだったが、この人は捜査機関の先を行っていると。93年には5人を殺害し、四谷で逮捕された国際手配中の竹聨幇の幹部 劉煥榮(リョウホワンロン)の葬儀が台北で営まれた。溝口によれば、世界に散らばるチャイニーズ系組織に山口組系、香港マフィア14Kなど、5000人が参加したとあった。

私はまたも驚かされた。組織で情報収集する我々の先を、一人で行っている。

私は溝口に暴力団のこと、チャイニーズマフィアのことを聞きたいと思った、いや、溝口敦という個人に強い関心があった。あらゆる伝手を辿って、溝口に会うことができた。94年、『チャイナ・マフィア』の単行本が刊行されたころのことだった。溝口は穏やかな佇まいで、淡々とした語り口でありながら、時折鋭い目をした。そのとき何を話したか、じつはあまり覚えていない。お恥ずかしい話だが、憧れと緊張に支配されていたようである。

以来、頻繁に会って杯を交わすということはないが、時折意見を交換したり、もちろん溝口の仕事は注視し続けてきた。2018年、私が「新潮45」で『マトリ』(新潮新書)のもととなる連載をしていたとき、溝口から「おもしろい」と声をかけていただいた。その際、「もしこれからも書き続けるなら、わかっていることとは思うが、怖れるな、ペンを滑らせるな」と。改めて溝口のジャーナリストとしての覚悟を感じた。

溝口氏からも激賞された瀬戸氏の『マトリ』

『喰うか喰われるか』は、人間溝口敦が変貌する時代、変貌する山口組を追い続けた結果生まれた、私的な山口組通史である。溝口は「山口組は歴史に組み込まれつつある」と書くが、時代の趨勢は暴排条例の中、暴力団に厳しすぎる逆風であるとはいえ、まだまだ山口組も、溝口敦も歴史に組み込まれるのは早い。

また、暴力団の弱体化に伴い、薬物犯罪は個人がネットで売買するような、秩序のない海外型に移行しつつあり、治安悪化は予断を許さない。一般人の未成年がネットで呼びかけて売人を呼びつけ、集団で暴行し金銭を奪うという殺人未遂事件も相次いでいる。これでは昔のチンピラヤクザと変わらない。

これまでは暴力団の仕切りで薬物の価格も高値で維持されてきたが、これからは自由化、価格崩壊、それによる一般社会への薬物蔓延にもつながるリスクがある。捜査側にとっても、よりわかりにくい時代に突入したと警戒を強めているはずである。そうした混迷の時代において、溝口敦の仕事には、まだ続きがあると、さらなる期待を私はしている。

Photo Gallary3

Photo Selection

あなたへのおすすめ記事を写真から

関連記事