全国大会で最下位…体操・橋本大輝がどん底から這い上がれたワケ | FRIDAYデジタル

全国大会で最下位…体操・橋本大輝がどん底から這い上がれたワケ

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8月生まれの橋本。夏の太陽のように輝いて欲しいとの願いを込めて両親は「大輝」と名づけたという(写真:JMPA)
8月生まれの橋本。夏の太陽のように輝いて欲しいとの願いを込めて両親は「大輝」と名づけたという(写真:JMPA)

「最後の演技者として、ボクが決めたい思いだった。メダルの色は気にせず、自分のできる演技をしようと思った」

7月26日、男子体操団体はリオ五輪に続き2大会連続の金は逃したものの、見事銀メダルを獲得した。圧巻の演技で日本を表彰台に導いた橋本大輝(19)は、報道陣に向け自信に満ちてこう語った。一躍ヒーローになった橋本だが、意外にも中学時代までは結果が残せず長期低迷。恩師が明かす、体操界のエースの知られざる幼少期だ――。

「大輝は男3兄弟の末っ子。お兄さん2人が体操をやっていたので、自然な流れで始めたんです。いつ来てもいいよと、のんびりした雰囲気で指導していました」

こう語るのは、千葉県四街道市にある「佐倉ジュニア体操クラブ」代表の山岸信行氏だ。同県成田市出身の橋本が、体操を始めたのは6歳の時。体育の教師をしている母親の勧めで、兄2人とともに「佐倉ジュニア」へ通い始めたのだ。山岸氏が続ける(以下、発言は同氏)。

「手のかからない子でした。言ったことを素直に聞いてね。どんなに難度の高い技でも、ヒザが曲がれば減点されます。大輝にも特別な指導はしなかった。『ヒザとつま先を伸ばせ』と、基本を伝え続けただけです。ただ体操を始めた当初は、それほど熱心な生徒ではありませんでした」

人生を変えた握手

転機となったのが、小学生低学年の時。アテネ五輪の体操団体金メダリストで、順天堂大学に所属していた冨田洋之氏に触発されたのだ。

「順大にはウチのOBが何人かいるので、時々、練習を見学していました。ある時、たまたま冨田がいたので『子どもたちと握手してくれないか』とお願いしたんです。冨田は快諾して大輝と握手。事前に彼がどれだけ偉大な選手か教えていなかったので、大輝が感激していたのかはわかりません。後になって、冨田の経歴を知ったのかもしれない。ただ結果として、以後、大輝の練習に熱が入りました」

冨田氏と会ってから、メキメキと実力をつけた橋本。だが結果がともなわない。中学3年の時には全国大会に出場するが、最下位というどん底……。原因は明白だった。

「気持ちが前のめりというか、空回りしていたというか……。会場入りすると、試合前にケガをしてしまうんです。気合が入りすぎて、床から飛び出し骨折したこともあります。ただ故障しても棄権はしなかった。必ず演技を最後までやりとげる。喜怒哀楽を表に出すタイプではありませんが、気持ちは強かったですね。

子どものころに成績が悪かったのは、結果的に良かったと思います。自分なりに、悪い点を考えるクセがつきましたから。気持ちだけではダメなんだ、試合で結果を残すためには逆算してどうしたら良いのだろうとね。高校(市立船橋)に入学してからは、大会前にケガすることもなく、コンディションを調整し、クレバーな演技を見せられるようになりました」

橋本は「二刀流選手」でもある。トップアスリートとして練習にはげむ一方、実家で農作業をしているのだ。

「ご実家は、代々続く農家です。体操クラブへの送り迎えはお祖父さんさんがして、食事などの家事はお祖母さんが担当していました。ご両親は学校の先生で、クラブ活動などのため土日も忙しいんです。お兄さんたちも含め、3世代の援助があったのは大輝にとって幸運でしょう。体操に専念できるんですから。大輝が時間を見つけて農作業をするのは、家族への感謝の気持ちの表れではないでしょうか」

好物は実家でとれた野菜の入った、祖母手作りのカレーだという橋本。支え続けた家族に、メダル獲得という最高の恩返しをした。

  • 撮影JMPA

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