小沢一郎氏が激白「がん」「大量吐血」「心筋梗塞」との我が闘争 | FRIDAYデジタル

小沢一郎氏が激白「がん」「大量吐血」「心筋梗塞」との我が闘争

剛腕、壊し屋と小沢一郎の異名はパワフルなものばかり。だが、豪快で強壮なイメージの裏で彼は病魔と何度も壮絶な戦いを繰り広げていた。

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小沢氏近影。今年で政治活動51年目を迎えるベテランは政権交代を目指す

昨年、政治家人生50周年を迎えた小沢一郎氏(79)。1993年に非自民の細川連立政権を誕生させ、自民党を野党に転じさせたのは”剛腕”小沢氏の真骨頂だった。その16年後、2009年の民主党政権樹立も小沢氏なくして実現はなかっただろう。傘寿を控えた現在も、自らの政治理念の実現に向けて闘い続ける小沢氏だが、実はここまで3度の大病を乗り越えている。

最初は1969年12月27日の初当選後だった。選挙活動の間、とくに体調不良は感じなかったのだが、ふとしたときに首にしこりを見つけた。

「たまたま首の右側を触ったとき、コロコロとしたものがあることに気付いた。近くの医者に行ってみると『扁桃腺だろう』と言われたので、様子を見ていました。しかし、いつまでもコロコロが消えないため『変だな』と思って、当時、東北大学病院で医者をしていた従兄弟に診てもらいました」

東北大学病院で”コロコロした組織”を取り出して生体検査を行ったところ、悪性の甲状腺がんであることが判明した。

「従兄弟から『がんだ』とはっきりと告げられました。従兄弟に『どうすべきか』と聞くと『手術するしかない』と言われ、すぐに入院しました。ショックを感じているヒマもなかったですね。頸部外科のエキスパートに執刀してもらうことができました」

一般に全身麻酔での甲状腺切除手術は首の片側の場合、約1.5時間程度かかると言われているが、小沢氏の手術は6時間以上にもおよび、関係者に緊張が走った。

「コロコロしたものは首の右側にあったので、当然、執刀医も甲状腺がんは首の右側にあると思い、右から切り始めたんです。ところが、右の甲状腺は異常なしだった! 『そこから左側まで首をグルッと切って左の甲状腺がんを取った』と全身麻酔から目覚めた後に聞かされ、『俺の首を半分も切ったのか』と苦笑いしました」

転移もなく、術後の経過も良好だったが、実は人知れず「政治家の道を諦めるべきかと悩んでいた」と小沢氏は言う。

「手術が終わって、休養している間、声が出なかったんですよ。はっきりと覚えていますが、1970年の1月11日に地元・岩手県の花巻市長選挙があり、応援に駆けつけなければならない状況になって地元入りしました。内心、『このまま声が出なければ、政治家としての将来は諦めるしかない』と覚悟していました」

甲状腺がんのことも、術後間もないことも、親族とごく近しい人間以外には他言していなかった。師弟関係にあった故・田中角栄氏にも報告しなかった。

「政治家は病気のことを他人に言うべきではない。いくら『(身体は)なんともない』と説明しても、攻撃材料にされてしまいますからね。だから公表はしませんでした。いつも通りに振る舞い、応援演説で思い切って『ワッ』と声を出してみたところ……出たんです。自分でも驚きましたが、同時にホッとしました。甲状腺がんについて人に話したのは、だいぶ後になってからでしたね」

わずかな弱みも見せられないのは、政治家の宿命なのだろう。父の急死に伴い、地元岩手の基盤と志を継ぐために出馬した当時のプレッシャーは計り知れないが、小沢氏は「至って冷静だった」と振り返る。

「幼いころは自分が政治家になるとは思っていませんでした。小学生のときなんて、湯川秀樹博士がノーベル賞を受賞して日本中が歓喜していたのを見て『科学者になりたい』と思っていましたからね。政治家を志したのはハイティーンになって、歴史を学び始めてからでした。日本の歴史上、最もダイナミックで面白いのは幕末、明治維新です。

当時は官僚出身の総理が続いていましたから、既成の仕組み、制度に対する反発が強かった。それは父も同じでした。貧しくて苦労しましたから、官僚、財閥に対しての反感がありました。そういった父の思いを受け継いだ面はありますが、とりたてて大きなプレッシャーはありませんでした」

初当選とほぼ同時に発覚した甲状腺がんを乗り越え、着々と政治家としての地歩を固めていた38歳の小沢氏を再び病魔が襲った。膝詰めの交流を重んじる小沢氏が連日の宴席を重ねていたある夜のことだ。

「当時は、よく飲んでいましたから。あの日もたくさん酒を飲み、寿司を食べたことを覚えています。帰宅して、そろそろ寝ようかという段になって、なんとなく具合が悪いなとは思いつつ、床に就いたんですが、夜中に吐血しました。血の塊がドボドボとものすごい量で出てきて……マロリーワイス症候群という病気で、暴飲暴食が原因でした」

小沢氏が寝ている間にすでに出血は始まっており、大量の血が塊となっていたのだ。血の塊が喉に詰まって窒息したり、大量出血でショック死する危険もあった。

「出血量の多さに驚きはしましたが、大事には至らなかった。本当に運が良かったと思います。マロリーワイス症候群は、食道と胃の中間付近の粘膜が破けてしまう症状なのでしばらくの間、薬を飲み完治しました」

3度目の大病に襲われたのは49歳のとき。心筋梗塞だった。一般に心筋梗塞の痛みは「ハンマーで殴られたよう」と比喩されるが、小沢氏は「言葉でたとえようのない激痛だった」と振り返る。

「あれほどの痛みは、人生で味わったことがありませんでした。しかも一時ではなく、ずっと痛みが続く。とにかく苦しい。すぐに『これはただごとではない』とわかりました。さきほど『政治家にとって病気は人に知られてはいけないもの。公表したくはないもの』だと言いましたが、あのときばかりは、迷わず救急車を呼びました。

思い返せば、あれは倒れる半年か1年だったか――ずいぶん前に呼吸困難になったり、言葉に詰まるようなことがしばしばあったのです。心筋梗塞の兆候だったのでしょうが、症状はすぐおさまっていたので、とくに気に止めることもなく、見過ごしてしまっていた」

救急車で日医大病院へ運ばれた小沢氏は、すぐさまカテーテル治療を受けた。

「カテーテル治療は全身麻酔ではないので、治療を受けながらモニターを見ることができました。冠動脈が詰まっていましたが、細い血管がバイパスのようになって冠動脈の代わりをしていました。その細いバイパスのおかがでかろうじて心臓が動いていた。ところがその細い血管も耐えきれなくなってしまったのです。心臓へ血の塊を溶かす薬を注入すると、サーッと塊が溶けていきました。

驚いたのが、冠動脈が機能し始めると細い血管がスウっと消えていったこと。治療の一部始終を見ながら、手術台の上で生命の不思議を感じていました。3度も大病を経験しましたが、毎回『こんなことで死ぬわけにはいかない』と思っていました。しかし、3度目の心筋梗塞のときに『これが10年後だったら助からなかったかもしれません』と医師に忠告され、健康に気を使うようになりました。何事も早期発見、早期治療が大切だと思います」

心筋梗塞に倒れたのは自民党幹事長を辞任した年で「それまでの激務の疲れが一気に出たのだろう」と小沢氏は反省。以後、毎月の検診は欠かさず、タバコも止め、健康管理に気を付けている。

「僕ももう年ですから、若い人に道を譲りたいと思っています。ただ、もう一度、政権を取ってから譲りたいと思っています。どういうわけか、最近の政治家は政権を取ろうという意欲が薄い。野党ボケしているのかなと感じることが多いです。

このままでは日本に民主主義が根付かない。政権は国民が選挙で選ぶんですよ。それを皆さんに再認識していただくためにも、もう一度、政権を取りたいと思います。3回目の政権をとってから、次の世代へバトンを引き継ぎたいと思っています」

ウソと不正と傲慢と国民軽視――”モリカケ桜”に新型コロナの対応ですっかり見放された自民党政権を打倒すべく、”剛腕”は身体のケアをかかさず、その日に備えている。

  • 取材・文吉澤恵理

    薬剤師/医療ジャーナリスト

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