4年連続得点王でもW杯落選…なでしこ田中美南が乗り越えた地獄 | FRIDAYデジタル

4年連続得点王でもW杯落選…なでしこ田中美南が乗り越えた地獄

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21日のチリ戦。後半までスコアレスの息詰まる展開の中、田中(左から2人目)が決勝ゴールを決め、なでしこジャパンを決勝トーナメント進出に導いた(©写真 JMPA)
21日のチリ戦。後半までスコアレスの息詰まる展開の中、田中(左から2人目)が決勝ゴールを決め、なでしこジャパンを決勝トーナメント進出に導いた(©写真 JMPA)

1次リーグ第3戦、他グループの状況次第で引き分けでも突破が決まる日本に対し、勝たなくてはならないチリの対戦。日本は支配こそすれ攻めきれず、0−0のもどかしい時間が続いた。待望の先制点を決めたのが田中美南だった。77分、エリア内で岩渕真奈が相手を背負いながらのポストプレーでボールをゴール方向に流すと、走り込んだ田中は落ち着いてステップを合わせ、飛び出した相手GKの右腕下を抜くシュートでネットを揺らした。1−1で引き分けた初戦カナダ戦ではPKを外していたが「みんなのおかげで取り返せた。感謝したい」と安堵した。

田中には東京五輪への並々ならぬ思いがあった。理由は明確、2019年のフランスW杯メンバー落選だ。落選の悔しさが五輪への思いを何倍にも増幅させたのだ。

田中は当時所属していた日テレ・ベレーザで2016年から2019年まで4シーズン連続で得点王を獲得。2018年と2019年はリーグMVPにも輝き、ベストイレブンに2015年から2020年の6シーズン連続で選出されていた。それでもW杯に連れて行ってもらうことはできなかった。五輪はメンバー18人(今回はイレギュラーで22人)に対してW杯メンバーは23人と5人ほど多いがそれでも指揮官からは必要とされなかった。

もちろんチームや指揮官との相性というものもある。代表に縁のない名選手というのもいる。だが当時25歳、選手としても充実した時期にあった田中は、まずは懸命にこの落選を受け入れた。

「これだけ結果を出しているのに……と思いましたし、自分が外されて追加招集で選ばれた選手も初招集の選手だったりして。頭で理解することは難しかったです。でも腐ったら負けだと思いました。そこで腐ってしまって『やっぱダメだね』と言われるより、腐らずに『なんでメンバーに入れなかったんだ』って周りに言ってもらうほうが気持ち良いから。

代表落選直後、カップ戦がありましたけど、自分は点を取り続けたし、自分が優勝させたって言えるぐらいの自信もあります(2019年ベレーザはリーグ戦、皇后杯、リーグ杯の三冠を獲得)」

胸を張りつつ、2年前の自分をこう言ってはにかむ。

「その時乗り越えたものは大きいと言うか、頑張ったなって自分では思います」

それくらいの辛さがあった、ということは想像に難くない。

ただ、この2019年の落選までの自分を振り返ると、ある種、意識の甘さもあったことも認める。

「2011年のW杯優勝とか、2012年ロンドン五輪銀メダルは見ていましたけどどこか漠然としていて。将来的にはああいう立場でやりたいなって思っていましたし、優勝してすごいかっこいいとは思いました。でも正直、W杯で外れるまでは、やるべきことをやっていれば、代表に選ばれるだろうという感じでした。自分から”代表に入りたいからこう行動する”などと発言することもなかったです」

落選により、あらためて気づかされることもあった。

「実際に外れてみると周りの応援してくれる気持ちとか声とか、直に届きました。応援してくれる人たちのためにもでかい舞台でやらなきゃ、そこで感謝の気持ちを伝えたいなっていう気持ちが強くなりました」

7月21日の初戦、カナダ戦。後半、田中は自らの突破でPKを獲得。自ら蹴ったが相手GKに阻まれ、同点機を逃した(©写真 JMPA)
7月21日の初戦、カナダ戦。後半、田中は自らの突破でPKを獲得。自ら蹴ったが相手GKに阻まれ、同点機を逃した(©写真 JMPA)

以前よりも応援が身に染みるようになった。ではそれに応えるためには何ができるか。プレーをさらに研ぎ澄ますこと以外にできることを考えた。

「だからこそ、自分はその時からオリンピックのために、代表のためにと口にするようになりましたし、それ以来ずっと言い続けてきたました」

結果さえ出していれば道は自ずと開くであろうという考え方から、有言実行型へと自分を変えた。大きな変化だった。

口に出すことは、思いや考えを周囲に伝えるだけでなく自分をも奮い立たせた。W杯翌年の2020年1月に、INAC神戸に移籍した。ベレーザは、中学時代に下部組織である日テレ・メニーナに入団して以来12年間過ごした言わば”ホーム”だった。だが、そのホームを離れ勝負に出ることにした。いくつかあった移籍理由のうち最大だったのは、東京五輪に直結したものだった。

「東京オリンピックのために成長したいという気持ちがあった。代表やオリンピックという大きな舞台で結果を出すことを考えた時、今のままじゃダメだと思った」

こう話したのは2020年の1月下旬。本来の五輪まであと半年の時点で、巻き返しを誓ったわけだ。移籍とこの宣言が功を奏したかはわからないが、本来の五輪前最後の海外遠征である3月のアメリカ遠征メンバーとして招集されている。

五輪が1年間延期され、2021年夏の開催となった。だが、日本国内最高峰のリーグであるなでしこリーグは2020年いっぱいで一旦終わり、2021年秋から始まるWeリーグに移行することが決まっていた。つまり2020年上半期、五輪までの半年間は国内にいてはトップレベルの公式戦ができなくなる。そこで、田中はドイツ・レバークーゼンへの期限付き移籍を決断した。この時も、胸の内にあったのはただ一つの思いだった。

「100%(五輪のため)です。自分は五輪のためにこの2年間、特に2019年のW杯が終わってから意識していました。五輪に選ばれるかつ、活躍するために考えて行動してきましたし、全ては五輪のために移籍してきました」

潔いほどはっきりと、五輪への強い思いを口にした。

落選の悔しさを乗り越え、辛さと向き合い、自分を変えて掴んだ夢舞台。決勝トーナメントを目前にして田中はさらなる活躍を誓っているはずだ。

  • 取材・文了戒美子

    1975年、埼玉県生まれ。日本女子大学文学部史学科卒。01年よりサッカーの取材を開始し、03年ワールドユース(現・U-20W杯)UAE大会取材をきっかけにライターに転身。サッカーW杯4大会、夏季オリンピック3大会を現地取材。11年3月11日からドイツ・デュッセルドルフ在住

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