ダルビッシュを守った恩師・若生監督「70年」の指導者人生
車いすに座りながらも指導を続けた名物監督の、波乱万丈、豪快で繊細な人柄を振り返る
監督生活33年。東北(宮城)、九州国際大付(福岡)などの名門校を率いて甲子園に出場すること11回。準優勝が2回。高校球界を代表する名将・若生正広さんが肝細胞がんのため、70歳で亡くなった。
ダルビッシュ有(サンディエゴ・パドレス)、雄平(ヤクルト)、嶋重宣(元西武など)ら名選手を育てた名伯楽の豪快かつ繊細な人柄を、親交のあったライター・楊順行氏が振り返る。
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「最低でも、15は勝つと思うよ」
2012年2月、若生正広さんはそう言った。この年、日本ハムからMLB・レンジャーズに移籍するダルビッシュ有についての予言である。
「体も大リーグ仕様にたくましくなっているし、股関節が柔らかい有なら、メジャーの硬いマウンドでも大丈夫。よく日米のボールの違いについても言われるけど、有はコンマ何ミリの誤差を瞬間的に修正するほど指先の感覚が鋭いから、問題はないと思うね。シーズン162試合を中4日で先発すると30〜35試合、そのうち半分勝てば最低でも15勝でしょう」
当時の若生さんは、九州国際大付の監督。その単身赴任先にお邪魔し、ダルビッシュの東北高校時代の話を聞いたときのことだ。事実、その年のダルビッシュは16勝を挙げるのだから、細かい洞察には恐れ入る。
かと思うと、いい意味で無邪気な人だ。このときは、黄色靭帯骨化症の治療の一環で温泉につき合い、行きつけのうどん屋で食事をしたあと、若生さんの自室での取材。話が佳境にさしかかったのに「眠くなった」と横になり、「出るときにカギをかけたら、新聞受けから入れておいて」とそのまま寝入ってしまうのだ。翌日も入浴のあとは、馴染みの居酒屋で取材の続き(ただし、本人はお酒を飲まないのだが)。話が一段落しても、夜更けまで店でバカ話を続けた。
その若生さんが亡くなった。70歳だった。
ほぼ未経験で名門校の指導者に
「波瀾万丈な指導者人生といわれるけど、たまたまですよ」
こう振り返ったことがある。東北高校3年時の1968年、夏の甲子園に四番・主将として出場。初戦で敗れたが、マウンドも経験した。法政大ではリーグ戦の登板がなく、子供服の会社・チャイルドで社会人野球を続けたが、わずか2年で休部。スポーツ用品問屋に移り、野球界の人脈を通じて売り上げを伸ばした。36歳のときだった。
「女房が肺炎で入院中、ラジオを聞いていると、“人間が生きているのは、世の中に貢献するためである”。オレは社会に貢献してきたか? なにひとつ、貢献していない。貢献できるとしたら野球だ。よし、若い世代に野球の素晴らしさを伝えていこう。で、指導者になろうと思ったのよ」
ツテをたどって、埼玉栄高のコーチになるのが1987年。とはいえ、指導といえば営業先の高校生をちょっと手ほどきした程度だから、ほとんど丸腰のなんとも大胆な転身だ。翌88年から監督になると、春の埼玉県で準優勝し、関東大会もベスト4という好成績を残した。これが母校・東北高校関係者の目に止まる。当時低迷していた野球部の立て直しを託され、母校に戻るのは1989年11月のことだった。
まずコーチとして、1990年春、1991年夏、1993年春夏と甲子園に導いた後、同年秋に監督に就任。いきなり1994年のセンバツに出場した。1995〜96年は一時監督を譲ったが、1997年に復帰すると、2003年は2年だったダルビッシュをエースに、夏の甲子園で準優勝をはたすことになる。
球界の宝は壊させない

現在のダルビッシュは、高校時代の若生監督抜きには語れない。入学当初から成長痛に悩むダルビッシュに、若生監督は決して無理をさせなかった。そのかわり入学直後からやかましく言ったのは、正しいフォームを身につけるための股関節のストレッチ。当初は硬かったダルビッシュの股関節はこれで柔軟性を増し、いまの理想的な体重移動の土台になっている。
球速が150キロに迫った高校3年のセンバツではノーヒット・ノーランを達成したが、まだ成長痛はおさまらない。この大会、優勝候補だった東北は、準々決勝で済美(愛媛)に逆転サヨナラ負け。実はその試合、ダルビッシュは登板していない。ダルビッシュを投げさせれば……という外野の声にも、「投げたいはずの有が“無理”と言っているのに投げさせれば、球界の宝が壊れる」と、目先の勝利にこだわらず、若生監督がやせ我慢を貫いたからだ。
その夏も甲子園に戻ってきた東北は、ダルビッシュの3試合連続完封目前から雨による不運に泣き、3回戦で敗退。若生さんも顧問に退き、請われて九州国際大付の監督になるのは、翌2005年秋のことだった。2007年には、胸椎黄色靭帯骨化症という難病に見舞われながら、2009年夏はチームを27年ぶりに甲子園に導いている。そこからも、杖、のちには車いすが欠かせない指導だったが、東日本大震災で地元・宮城が被災した2011年センバツでは、九州国際大付を率いてまたも準優勝。
「有が世界一と言われる日と、オレが優勝する日と、どっちが早いかな」
と笑っていたものだ。
豪胆さと繊細さ、そして憎めなさが同居する。東北高時代には、社会科の教員資格も取得し、在学中の荒川静香さんを教えたこともあるとか。「静香とはなんか波長が合って、よく他愛ない話をしていたんだよね」と聞いていたから、別の取材で荒川さんに会ったときに若生さんの名前を出すと、相好を崩していたっけ。最後にお目にかかったのは、2015年に古巣・埼玉栄の監督に復帰したのちの2018年。福岡時代に見いだした大器・米倉貫太(現Honda)の取材だった。
「おお、久しぶりだなぁ。この貫太、将来は1億円を稼ぐピッチャーになるよ」
だみ声が独特な若生節が懐かしい。監督を勇退した2019年4月のメールが律儀だった。
「監督生活が無事に終わりました。応援していただきありがとうございました」
米倉貫太は、いまやれっきとしたドラフト候補。ここでも、若生監督の予言が現実になるか。雲の上で、ゆっくりと温泉につかってください。
取材・文:楊順行PHOTO:共同