64年五輪金 ジョー・フレージャーが語っていた「東京への愛」 | FRIDAYデジタル

64年五輪金 ジョー・フレージャーが語っていた「東京への愛」

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後に「伝説」と呼ばれた男

コロナ禍において強行された東京五輪だが、文字通り、人生を懸けて闘う選手たちの姿は否応なしに胸を打つ。

ただ、宴が終われば、今回の開催の是非を巡る討論が起こるのは目に見えている。

1964年に催された前回の東京五輪は、戦後の復興を遂げようとする日本の底力を見せた。東海道新幹線、モノレール、首都高速道路もこのオリンピックの開会式に間に合わせるように築かれた。同五輪で日本は16の金メダルを獲得し、敗戦の傷跡から立ち上がった様を示した。

最も国民を熱狂させたのは、この大会から正式種目となった女子バレーボールで、「東洋の魔女」と謳われた日本代表チームは、睡眠時間3時間での猛特訓に耐え、頂点に立った。

ボクシングのバンタム級でも、桜井孝雄が金メダリストとなる。日本人選手が次にボクシングで表彰台の最上段に上がるのは、この日からロンドン五輪ミドル級の村田諒太まで、実に48年もの時間を要した。

後に桜井は三迫ジムからプロに転向し、東洋太平洋タイトルを獲得したが、世界王座には手が届かなかった。

1964年東京五輪ボクシングの金メダリストからは、後に伝説と敬われる名チャンピオンが誕生している。

その名はヘビー級のジョー・フレージャー。

「スモーキン」ジョー・フレージャー(写真・AFLO)

フレージャーは1944年1月12日、アメリカ合衆国サウスキャロライナ州ビューフォートで生を享けた。13人きょうだいの下から2番目。先祖はアフリカから連れてこられた黒人奴隷であり、フレージャー家は、南北戦争後に解放された多くの黒人たちが従事したように、農園経営者から土地、住まい、農業器具を借り受け、収穫物の半分を収める「シェアクロッパー」として生きた。黒人にまともな人権が与えられていなかった時代である。米国南部における有色人種への偏見は強く、サウスキャロライナ州でも白人至上主義がまかり通っていた。

農園の脇に建てられた4部屋の小屋で、15人の家族は肌を寄せ合って暮らした。フレージャー少年は何者かになりたかった。

「苦しいだけの日々だった。俺の心にはやり場のない怒りがあった。姉たちは学校で教養を身につけたいと話していたが、俺は物心がついた時から、父と一緒に働いた」

フレージャーは世界チャンプとなった後に、そう振り返っている。父親はフレージャーが生まれる1年前に酔っぱらいに左腕を撃たれ、右手一本で農作業を続けていた。12子は、その姿を目にしながら育った。

フレージャーの回想。

「本物の男は、まずリーダーとして家族を守ることを考える。人は己に忠実でなければならない。自分を偽る人間は、他者に対しても素の姿は見せられない」

フレージャー少年は、自分と同じ肌の色とファーストネームを持つ世界ヘビー級チャンピオン、ジョー・ルイスに憧れ、手製のサンドバッグを農園の木に吊るし、時間の許す限り、それに向かってパンチを放った。獲物に向かってひたすら前進し、3分間に54から58発のパンチを出すスタイルの原型が、この時に作られたという説もある。

15歳になったフレージャーは収入を見込めない故郷を離れ、都会に出る。兄、トミー夫妻が住むニューヨークのハーレムで職を探したが、思うようにいかない。当時、フレージャーのガールフレンドは、彼の子を身籠っていた。

ボクシングジムがあって、労働にもありつける場所としてフレージャーが選んだのが、近代アメリカ合衆国最初の首都・ペンシルバニア州フィラデルフィアだった。毎朝5時に起床し、ロードワークに出る。その後、食肉処理工場で生活費を稼ぎ、夕方からジムで汗を流した。

「牛の体から流れる血を溝に送り、作業場をきれいに保つのが主な仕事だった。時々、勤務時間よりも早く職場に行って、吊るされて並べられている牛肉をサンドバックのように殴ったもんだよ。シルベスター・スタローンが『ロッキー』で活用しただろう? あれは俺がモデルさ。スタローンは、あのアイデア料を払ってくれなかったけれどな」

1964年、アマチュアボクシングの大会であるゴールデングローブで優勝を飾ったフレージャーは、5月18日から3日間のスケジュールで行われた東京五輪アメリカ代表選考会に出場し、決勝で敗れる。失意の彼にアメリカ代表ボクシングチームは、ヘビー級代表選手のバスター・マシスのスパーリングパートナーとして、東京行きを命じた。

食肉処理工場の給与を上回ったスパーリングパートナーだが、思わぬ幸運が舞い込む。東京五輪を見据えたトレーニングキャンプ中、マシスが右の中指を粉砕骨折してしまうのだ。スパーリングでフレージャーが、マシスの右を頭で受けた折の事故であった。このケガによって、マシスは五輪出場が叶わなくなり、フレージャーが代役として星条旗を背負うこととなる。

「オリンピックは最高だったぜ。選手村で、様々な国の違う競技のトップアスリートと交流した。言葉、国籍、肌の色なんて何の関係もなかった。とにかく、東京は楽しかった」

初戦、フレージャーはウガンダ代表選手をファーストラウンド1分35秒で、第2戦もオーストラリア代表選手を初回40秒で、準決勝ではソビエト連邦代表選手から2ラウンドに2度のダウンを奪って圧勝する。そして、決勝では左親指の骨折を隠しながらリングに上がり、ドイツ代表選手に判定勝ちを収めて金メダルを獲得した。

「10名のアメリカ代表ボクサーのなかで、決勝に進んだのは俺だけだった。仲間は俺が試合に集中しやすいようにしてくれたよ。『孤独な男』なんて呼ばれたな。でも、ケガが不安だった。金メダリストになれば、支援者が現れプロデビューできる。でも、銀メダルじゃ何も残らない。栄光でも何でもない……そんな気持ちだった」

金メダル後の孤独

フレージャーが意識していたのは4年前のローマ五輪で金メダルを獲得した、モハメド・アリことカシアス・クレイである。アリは将来性を高く評価され、スポンサードされながらボクシングだけに集中できる環境を手に入れた。1964年10月に東京五輪が開催された際、アリは20戦全勝で世界ヘビー級王座を獲得していた。

東京五輪終了後、フレージャーは金メダルを首から下げ、意気揚々とフィラデルフィアに戻ったが、アリのような好条件を提示しプロ転向を後押ししてくれるスポンサーなど無に等しかった。身長182センチの彼は、ヘビー級では小さ過ぎる。とてもプロでの大成など見込めない、と評された。

左親指の傷が癒えるのにも時間が掛かった。結局、妻が働きに出て糊口を凌ぎ、1965年8月16日に125ドルのファイトマネーでプロデビューする。1ラウンド1分42秒でのKO勝ちだった。

フレージャーの拳から、怒りが消えることは無かった。スタローンの目に留まった食肉となる直前の牛を叩き続けるシーンには、フレージャーの哀しみも描かれるべきだった。

1970年2月16日、フレージャーは25戦全勝で世界ヘビー級チャンピオンとなる。プロデビュー以来、ノックアウトを逃したのは2試合のみ。ベトナム戦争への徴兵を拒否してタイトルを剥奪され、リングから遠ざかっていたアリの次の実力者として注目を集めることとなった。

ボクシングファンの記憶だけでなく、スポーツの歴史に刻まれている「フレージャーvsアリ戦」のポスター(AFLO)

そして1971年3月8日、2度目の防衛戦として、最高裁で無罪判決を勝ち取ったアリを挑戦者に迎える。Smokin’(蒸気機関車)というニックネームのまま、フレージャーは決して下がらずに、アリにプレッシャーを掛け続ける。最終ラウンド、自身の代名詞とされる左フックでダウンを奪い、ボクシング史上最も鮮やかに輝いた”ザ・グレイティスト”を文句なしの判定で下した。

フレージャーはアリと3度拳を交え、1勝2敗。今日のヘビー級ファイターとは比較にならない死闘を演じた。2011年11月7日に67歳で鬼籍に入ったフレージャーの足跡は、ボクシングファンの心に深く刻まれている。

彼は日本を愛していた

先日、フレージャーの実娘、ジャッキー・フレージャー・ライドと電話で話す機会があった。現在、フィラデルフィア市の裁判官として働く彼女は言った。

「私の父は東京五輪に出たでしょう。いくつか日本語を覚えて来て、しょっちゅう私たちに話していたわ。具体的にどんな単語だったかは、覚えていないけれど。とっても日本を愛していたのよ」

東京には、伝説の一部分が眠っていたのである。

  • 取材・文林壮一写真AFLO

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