因縁のスペイン戦 久保建英が過去にないビッグマウスになった理由 | FRIDAYデジタル

因縁のスペイン戦 久保建英が過去にないビッグマウスになった理由

10歳から久保を追い続ける川端暁彦氏による緊急寄稿

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7月31日のニュージーランド戦でも相手ゴールを何度も脅かしたが、4試合連続ゴールは奪えなかった(©写真 JMPA)
7月31日のニュージーランド戦でも相手ゴールを何度も脅かしたが、4試合連続ゴールは奪えなかった(©写真 JMPA)

久保建英のプレーを初めて観たのはPCのモニター越しだった。2011年のことだから、久保は当時10歳。「バルセロナに買われた小学生がいる」という話は聞いていたものの、映像で観たプレーぶりには素直に驚いた。現地の選手に混じって余りにも「普通に」プレーしているので、「まだ行ったばかりなんですよね?」という間抜けな質問をしてしまった記憶がある。そのくらい、堂々としていたのだ。

「ピッチに入れば年齢は関係ない」

メダルまであと一歩となった東京五輪の男子サッカー。主軸を張る久保建英はグループステージの3試合連続で先制弾を決めるなど十二分の存在感を見せている。テレビの前に立っての言動もすっかり慣れたもので、この大会で初めて、あるいは久しぶりに久保のインタビューを聴いた人は少し驚いたかもしれない。

年上のチームメイトに対しても臆することなく意見を言うし、言われるのも歓迎する。こうした態度は外野から「生意気な若者」として解釈されがちなので、場合によっては攻撃の対象にもなりかねない。ただ、久保の出会った先輩たちも指導者たちも、こうした姿勢をむしろ歓迎してきた経緯がある。

U-15〜U-17年代の日本代表チームで久保を指導した森山佳郎監督(当時)は「初めて会って話したときから、日本の14歳がこうなれるのかと驚いた。日本語を話していても日本の中学生と話している感覚ではなかった」と評した。これは悪い意味で言っているのではない。サッカー的な感覚で言うと、日本の悪い意味での上下関係を引きずったり、自分の意見を言わないというのはマイナスでしかないからだ。

一学年上の代表チームに入った久保が、初対面の“先輩”にも臆せず話し掛け、自分の意見を主張し、遠慮なしに行動する。「上の学年に混ざっているのだから活躍できても仕方ないという意識はまったくなくて、やれないときは本気で悔しがるし、『上手くなりたい』という気持ちを誰よりも出してくる」(森山監督)。そうした久保の姿勢は「年齢が上の選手たちの意識も変えてくれた」(同監督)。こうした姿勢は現在の五輪チームにおいても変わらない。「ピッチに入れば年齢なんて関係ない」(久保)というのを言葉だけでなく、行動でも思考でも実践している。

それにしても、久保はなぜ久保になったのか。

このテーマは森山監督とも話したことがあるものの、結論の出ない話ではある。日本にいても久保は久保らしいメンタリティを発揮し続けたのか、それとも出る杭は打たれる文化の中で過ごすうちに、主張は控え目で、先輩には遠慮する男になったのだろうか。

その答えはもちろん出ないのだが、そもそも10歳で海を渡って遠く異国の地でプレーすることを選ぶ時点で並大抵のことではない。この時点で凡庸ではないハートを持っていたのは確かだろう。

2013年8月、味の素スタジアム西競技場で行われたU-12ジュニアサッカーワールドチャレンジ決勝のリバプール戦に挑んだ久保。チームは優勝した(右から2人目、撮影:川端暁彦)
2013年8月、味の素スタジアム西競技場で行われたU-12ジュニアサッカーワールドチャレンジ決勝のリバプール戦に挑んだ久保。チームは優勝した(右から2人目、撮影:川端暁彦)

バルサで味わった苦労

トップ選手が集められ、常に競争にさらされながら選手が入れ替わりつつ、プロを目指すバルセロナの下部組織。「俺が俺がという選手ばかりだった」(久保)という中で、遠く異国からやって来た少年が経験する荒波は、どう考えても激しいものだろう。

当時のことを「最初は言葉もまったくわからなかったし、つらいことも色々あったので」と語っていたことがあるが、多少の想像力があれば、並みの困難さでなかったことはわかるというものだ。そして、そこで逃げ出すことなく歯を食いしばって戦った経験こそ、いまの久保を形作る重要なファクターと言える。

加えて日本から注がれる「天才少年」への視線も、確かな重荷となっていた。小学6年生でバルセロナのU-12チームの一員として日本で行われたジュニアサッカーワールドチャレンジという国際大会では、グラウンドに熱心なファンも多数来場。メディアの視線も集まる大盛況の中でプレーしたが、本人の感じたプレッシャーは並大抵のものではなかった。

それでも初戦から結果を出し続けて優勝したあたりは現在に通じる要素だが、陰では食べたものを戻してしまうようなこともあったと聞く。この年にしてプレッシャーとの戦いを強いられていたわけだが、その向き合い方をこの当時から作っていったという言い方もできるかもしれない。

年代別日本代表チームでは抜きん出た注目度があったため、森山監督が期待を煽る報道の裏返しとして生じるネット上での心ない批判を受け、久保が潰れてしまわないか心配した時期もあった。実際、そうした声を気にしてしまった時期もあったそうだが、この年にして(善くも悪くも、だが)そうした声への対処法も体得してしまった感がある。

大会に入る前からの様子を観ていると、大きなプレッシャーを感じている様子は当然あったが、同時に20歳にしてプレッシャーとの戦いに関して年季の入った風格も感じさせる選手である。メディア対応も堂に入ったもので、記者を煙に巻くこともあれば、笑いを取ることもあり、強い言葉で押し切ることもある。「人の意見は気にしないので」。そう言い切るようにもなった。

8月3日に行われる東京五輪男子サッカー準決勝。向こうに回す相手は、思い出深いスペインである。バルセロナ時代の友人もいれば、同じリーグでライバルとしてしのぎを削ってきた選手たちもいる特別な相手だ。

「この大会の組分けが決まった瞬間から、『順当にいけば準決勝はスペインだろうな』というのを、どこかで頭の片隅には置いていた」(久保)

意識するなというのが無理な話だけに、久保は吹っ切ってその言葉に乗せて、勇を鼓して臨む。

「自分が一番いい準備をして、一番いい入りでスペイン戦に臨みたい。この試合に関しては『俺が俺が』という強い気持ちでいきます。自己中になるということではなく、俺が引っ張る、俺がチームを勝たせるという気持ちでいく。今までこういう話を言ったことなかったですけど、ちょっとビッグマウスになろうかなと思います」(久保)

10歳で海を渡る決断を下し、10年が経って迎えた東京五輪。久保がすべてをぶつける試合になることは間違いない。日本とスペインで磨いてきた心技体。特に「心」の部分が強く出るゲームとなるだろう。

  • 取材・文川端暁彦

    1979年生まれ。2002年から育成年代を中心とした取材活動を始める。古巣の『エル・ゴラッソ』を始め、『サッカーキング』『Footballista』『サッカーマガジン』『ゲキサカ』『ギズモード』など各種媒体にライターとして寄稿するほか、フリーの編集者としての活動も行っている。近著に『2050年W杯優勝プラン』(ソルメディア)

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