53年ぶり銅メダルをめざす森保監督「関連会社から始まった人生」 | FRIDAYデジタル

53年ぶり銅メダルをめざす森保監督「関連会社から始まった人生」

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3試合連続ゴールを含めて、今大会攻撃の中心を担う久保建英(右)をねぎらう森保一監督(写真:共同通信)

手取り4万5000円からはじまった社会人生活

「メダリストであるか、メダリストでないか、大きな違いがある」――。

森保監督はA代表、五輪と2つのサッカー日本代表チームを兼任する。痛烈な批判はつきものの職種だ。大会前にはその采配が疑問視されて多くのブーイングも浴びてきた。本人は「記者の皆さんにとってそれが仕事なんですから」とニヤリと微笑み返し。嫌味も、カリスマ性も、凄みもないソフト路線の監督に見えるが、選手たちの支持率は歴代代表監督の中でもトップクラスだ。

「森保監督は選手をリスペクトしてくれるし、腰が低い。でも言うことは言う監督です」(MF堂安律)。

五輪代表監督を率いる前に6年以上指揮したJリーグ広島時代から、監督業にかける熱さもかなり定評があった。ロッカールームでは「なんとなく戦っているんじゃない!もっと泥臭く戦えるだろ!」と怒鳴りつける場面が森保監督を追いかけたフジテレビのドキュメンタリー番組で流れた。本人に話すと「見ちゃいましたか(笑)恥ずかしい」と苦笑い。それでも「外国人監督と違い(通訳が入る)ワンクッションがない。得をしている感じはあります」と本人は分析する。

高卒たたき上げというキャリアも過去のサッカー日本代表監督ではいない。長崎日大高時代も全くの無名。県内では名門・国見高が全盛期だった。高校卒業後、マツダサッカー部(現J1広島)へ、のちに日本代表監督になるハンス・オフト氏に見出されて入団した。当時、マツダではサッカー選手のほとんど本社勤務になる。けれども森保監督だけ関連会社(マツダ運輸・現マロックス)の配属になった。6人入社した高卒選手の中で6番手という扱いだったからだ。その年、マツダ本社の高卒入社枠は「5」に減らしていた。

それでも「高卒から3年間したサラリーマン生活が監督になってもその基本になっています」と力を込める。

「当時は梱包を担当する部署で、練習が終わってからも残業はありました。今でも荷造りは得意です。当時の月給ですか?覚えています、手取り4万5000円でした」。

実直な性格は当時から変わらず、「サッカーだけじゃご飯を食えないだろ?」と、心配してくれた先輩や上司が社内での多くの別の仕事も紹介してくれた。マツダ体育館の管理人もしたこともある。

それでも、森保は入社3年目にJSL2部でデビュー。人柄を表すような攻守に献身的なプレーで、入社5年目にマツダとプロ契約を結ぶまで力をつけ、1992年にオフト氏が日本代表監督に就任すると、代表にも呼ばれる存在に急成長した。

1993年、日本サッカー界の歴史に刻まれる「ドーハの悲劇」の時にはピッチにいた。イランを相手に悲願のW杯初出場への条件は勝利のみ。森保は当時チーム最年少の25歳。後半ロスタイム、スコアは2−1。最後のワンプレーだった。右CKからのショートコーナーに不意を突かれた。カズ(三浦知良)がかわされた後、森保がボール保持者をマークする役目だった。しかし足が全く動かなかった。なんとかジャンプしてクロスボールを防ごうとした。

「自分の目の前でボールが通過していきました。一連の動きは全てスローモーションでした」

世界で2つしかない被爆地で人生の大半を過ごした

同点となりW杯初出場の夢が散った。その夜、一晩中、泣きはらした。

「あの時、考えたのは、これ以上サッカーで悲しい思いをすることはないだろうし、したくないということなんです。でも、あの時の思いは自分の体の中から一生消えない。「代表戦で必ず流れる「君が代」を聞くと涙をこらえるのが必死です」。ドーハの悲劇の際の時に身に着けていた背番号17のユニホームは今でも自宅のタンスの一番奥にしまっている。

2004年、35歳で現役を引退すると、小さな子供を指導した。競技を超えて言われているのは「子供に教えることが一番、難しい」。競技への興味を失わずに、いかに楽しく終えるか。それを考え続けなければいけないからだ。小さな子供たちの指導をしてコミュニケーション能力を磨いたキャリアを持つ、そんな日本代表監督も森保監督ただ一人だ。

現在に至るまで、選手と話す時には「必ず相手から質問を投げかけさせる」、そして「自分の考えを伝えてすり合わせる」ことをした上で「最後は笑顔で終わる」ことポイントにしている。どんなときも、最後は笑顔で終わろうとするから、選手たちにも後味の悪さは残りづらい。堂安や久保建英のように若くてギラギラしている選手もいれば、吉田麻也のように実績十分のベテランまで個性派が揃う中、まずは相手の話を聞こうとするポリシーが指揮官にあるからこそ、チームが大崩れしないのだろう。

「金メダルを取る!」と公約して挑んだ東京五輪は、3位決定戦に回る。相手はメキシコ代表。68年大会ではアウェーの日本がホームのメキシコを下して銅メダルを獲得した。同じ歴史を繰り返すわけにはいかない。準決勝でスペイン代表に敗れた直後には選手に対しては「結果は出てしまった。ここで(気持ちを)切ったら次はない。我々はメダルを取るために、もう一回反発力を発揮していこう」と話した。酷暑だろうが、コロナ渦だろうが、当たり前のことを普通にやる「ノーマルフットボール」こそ、このチームのスローガンなのだ。

試合が行われる8月6日は日本にとって、そして森保監督にとっても特別な日だ。原爆が投下された長崎で生まれた森保監督は、人生で一番多くの時間を広島ですごしてきた。J1広島の監督時代は原爆が投下された8月6日の午前8時15分にはクラブハウスで必ず黙祷をした。五輪代表監督に就任後、初めて編成された2019年11月17日の親善試合は広島で行われた。

「世界で2つしかない被爆地で人生の大半を過ごしてきました。本大会で何か伝えられたら」となんども話していた森保監督。広島市は国際オリンピック委員会(IOC)へ「選手たちに8月6日に黙祷を」要請していたがそれを拒否された。今年の広島の原爆記念日が奇しくも53年ぶりの銅メダルマッチになった。

「日本中で大変な思いをしてらっしゃる人に笑顔を届けたい。代表チームの活動は社会貢献と思ってやっている」

8月6日の3位決定戦は森保監督にとって是が非でも勝たなければいけない試合になった。

森保一監督にとっても特別な8月6日に、日本サッカー界に歴史を刻む勝利を呼び込めるか(写真:アフロ)

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