「東京五輪は考えていなかった」吉田麻也が翻意した本当の理由 | FRIDAYデジタル

「東京五輪は考えていなかった」吉田麻也が翻意した本当の理由

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準々決勝・ニュージーランド戦でPK戦の末、勝利を決めた直後。兄貴分の吉田麻也のところに若い選手たちが集結した(写真:共同通信)

「次勝つしかないですね。ここまで来たら気持ちの問題だと思うんで…。あまり精神面の話をすることは好きではないんですけど、ここからはメダルをとりたい、という気持ちが強い方が勝つと思うので。2日間、いいリカバリーをして最後はメダリストになりたいです」

8月3日、準決勝でスペインに敗れた直後、サッカーU-24代表を率いる吉田麻也主将はテレビのインタビューでしたたる汗をぬぐうことなく、素直な気持ちを吐露した。

0-0のまま延長戦までもつれ込み、後半も残すところ5分ほどだった。世界的名門・レアルマドリードに所属するアセンシオに決められ、金メダル獲得の夢は消えた。しかしこの試合の3日後には3位決定戦が控える。2012年のロンドン五輪でも準決勝でメキシコに1-3で敗れ、3位決定戦で韓国に敗れた苦い経験をピッチ上で味わった。

「ロンドンのときは、メキシコに負けて燃え尽きてしまった感があった」

そんな苦い思い出があるからこそ、スペイン戦でもゴールを決められた後、小走りでボールを取りに行き、残り5分の反撃に備えるよう、鼓舞する姿勢を見せた。何より気持ちが「キレて」しまうことを恐れているのだ。

吉田は、ピッチ上では最終ラインでチームに落ち着きと自信をもたらし、持ち前のユーモアも生かされているのだろう、適度な距離感で若い選手たちとも交流している様子だ。ピッチ内外でこのチームをワンランクレベルアップさせ、オーバーエイジの助っ人としての招集にふさわしい活躍を見せている。また、大会前には無観客をどうにか考え直せないかとテレビインタビューを通して直訴するなど、自分の言葉で意見を発信できる稀有な存在でもある。

今やなくてはならないどころかチームの顔ですらある吉田が各メディアで明らかにしているのが、「本来は今回の東京五輪でオーバーエイジでの参加は考えていなかった」いうことだ。仮に要請があっても参加するつもりはなかったという。

それが一変したのが昨年から続くコロナ禍だった。無観客試合や移動制限など不安定で不自由な時間の中で、キャリア観などに変化が起きた。1988年生まれの32歳の吉田は、もう決して長くはないであろうトップ選手としての時間で日本サッカーに何かを残したいと思うようになった。それが東京五輪だった、という主旨の発言をしている。

ではなぜ、コロナ以前の吉田は東京五輪に参加するつもりがなかったのか。吉田は過去、2008年の北京五輪に自分の世代で、2012年ロンドン五輪でのオーバーエイジとして五輪に参加している。それだけに五輪の価値をよくわかっているのだ。

ロンドン五輪当時、吉田はオランダ1部リーグのフェンロに所属していた。フェンロはオランダの片田舎にある小規模なクラブで、欧州でも決して知られたクラブではない。1994/95シーズンから2006/07シーズンまでの13シーズンは2部にいたクラブで、吉田が加入する直前の2008/09シーズンにも2部に降格している。

フェンロはドイツとの国境にある街だったため、親友・内田篤人さんが当時所属していたシャルケの本拠地ゲルゼンキルヘンへ試合観戦に出かけることもあった。欧州チャンピオンズリーグなどの試合で、その規模やサッカーのレベルに度肝を抜かれたと言う。もちろん給料にも格差があり食事にいけば支払いは内田さんが行った。「うっちー(内田さん)は(高額年俸を)もらってたから、もう彼が僕の財布のような」と笑うくらいレベルが違った。欧州でサッカーをプレーする選手を「欧州組」と一括りにしてしまいがちだが、ドイツやその他の5大リーグと呼ばれるスペイン、イングランド、イタリア、フランスとオランダの弱小クラブではだいぶ違ったわけだ。

その吉田は12年のロンドン五輪を機にイングランド・プレミアリーグのサウサンプトンに移籍を果たす。オランダの名門PSVやアヤックスからプレミアリーグならともかく、欧州の常識からすれば、一足飛び、二足飛びの移籍だった。吉田はイングランドで再会したフェンロ時代の知人にも「フェンロのあとどこか経由してサウサンプトンに来たんだろ」と聞かれたのだと言う。フェンロから直接、サウサンプトンに加入したのだと言うと、「それは嘘だ」と信じてもらえないほどのステップアップだった。

準決勝のスペイン戦後。吉田は延長後半にスペインにゴールを奪われた直後、真っ先にボールをとり、センターサークルへ走っていった(🄫写真 JMPA)

吉田が言うにはこの移籍を可能にしたのがロンドン五輪だった。吉田はロンドン五輪でも主将として日本を牽引。初戦でスペインに勝利し注目を浴びると、準決勝まで進出した。結局メダル獲得はならなかったが、移籍を引き寄せるには十分だった。五輪の期間中に話は進み、吉田が移籍を発表したのはウインドウが閉じる直前の8月30日だった。

だからこそ、吉田は言っていたことがある。

「若手のチャンスを奪っちゃいけないよね」

今回も、フランスやドイツのトップ選手は五輪には出場しない。つまりこの時期、欧州の多くのクラブは新シーズンに向けて準備を進めており、編成もほとんど決まっている段階だ。だが、吉田のロンドン五輪での経験からいえば、移籍ウインドウ(移籍が可能な期間)が開いている限りは、関係者は間違いなく見ているのだ。移籍チャンスにつながる可能性はあるのだ。

また、吉田のように3度も五輪に出場する選手もいるが原則的には五輪は23歳以下(今回はコロナでの延期により24歳以下)の選手で構成され、W杯などよりも少ない18人しかメンバー入りできない(今回は特例で22人)。オーバーエイジで3枠埋めてしまえば当該世代は15人しか五輪を経験できないことになる。五輪の経験値も移籍のチャンスも先輩が奪うわけにはいかない、そんな風に吉田は話していた。

そんな気持ちが根底にあるからこそ、結果で示すしかない、という思いは募った。東京五輪のチームが6月に始動した後、こんなことがあった。

海外組を中心に暑熱対策で昼間に全体練習があった時、吉田は別メニューでやらせてほしい、と首脳陣と相談し、了解を得た。なぜなら、例年8~9月にはじまる欧州のシーズンに備え、6月下旬は、吉田は毎年、ボールには一切触れず、11年間指導を仰ぐ杉本龍勇氏とともに走りの動きの確認などに時間を割く。いいパフォーマンスを発揮し続けるための大事な作業を外したくなかったのだ。

吉田は首脳陣の許可をとると、杉本氏を招き、さらに堂安律や板倉滉など、杉本氏に普段から指導を仰ぐ選手も吉田の個別練習に加わり、全体練習の群れから離れて、吉田たちはひたすらステップの確認などを繰り返した。今大会は、吉田だけでなく、堂安は攻撃陣の中心として活躍、板倉もピンチの芽をつむ守備が光る。吉田が結果を出すために必要な自己管理の大切さを身をもって示したことは、チームへのメッセージになっているに違いない。

「この世代、本当に良いチームだと思うので、何としても最後、勝たせて終わらせてあげたいと思う」

「勝ちたい」ではなく「勝たせて終わらせてあげたい」。吉田のこの言葉は、心の奥底から出た本音なのだ。

  • 取材・文了戒美子

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