「勝つって言ったのに負けたのか…」8月15日、玉音放送の記憶
8月が来るたびに。「玉音放送をどこで聞きましたか」戦争の記憶を聞き歩く
1945年8月15日正午、日本国民のほぼ全員が、ラジオに耳を傾けていた。「玉音放送」だ。
「先生は泣いていたけれど、私は、『勝つって言っていたのに負けたのか』なんてボンヤリ考えるくらいで、その時は、とにかくうれしかったことしか覚えてないですね」(樺太出身 近藤孝子さん)

長く、苦しかった戦争の終わりを「国民全員が聞いた」。その放送ひとつで、これまで流れていた時間がパタッと途切れ、新しい時代が始まったのだ。
戦争に敗けたあの夏から76年。「あの日の記憶」をもつ人も少なくなった。ドラマや小説で知る玉音放送は、緊張の糸がほどけたように戦後が始まった「起爆剤」のような存在だ。ほんとうは、どうだったのか。
「玉音放送を聴いた体験談を教えてください」といって取材を始めたのは4年前だ。実際にお話を聞いてみると、現実は必ずしもドラマチックではなかったようだ。共通しているのは「何を言っているのかわらかなかった」こと。その他は、聞いた場所も考え方も、実にさまざまだ。
「戦争が終わったと聞いてからは『もう飛行機に乗れないかもしれないな』という気持ちが強かった」(元予科練学生 盛田正明さん)
「負けたんではない。停戦だ」(元陸軍士官学校学生 佐藤次郎さん)
「周りからは泣き声がいっぱい聞こえてきていたけれど、僕は『ああ戦争が終わったんだな。万歳』と軽い気持ちで考えていました」(元海軍兵学校学生 林四郎さん)
「玉音放送の内容は、戦後何度も耳にしたので、最初に聴いたときの印象はよく覚えていないんです」(薬剤師 比留間榮子さん)
「ああ、やっと空襲がなくなる、よかったな、と心から思いました」(風船爆弾工場で働いていた前田久子さん)
「担任の先生が悲憤慷慨して『日本は負けた』と。『仇討ちをしなくちゃいかん』なんて言ってました」(元テニス選手 宮城淳さん)
「負けた? 戦争をやめた? そら大変だ!」(茶道裏千家前家元 千玄室さん)
「天皇陛下は野太い声でしっかり話をする方と勝手に思い込んでいたので『なんやら格好悪いな』とがっかりしました」(日本ボクシング連盟元会長 山根明さん)
海軍兵学校や陸軍士官学校などの軍関係の学校へ行っていた人たちは、玉音放送によって生活が激変した。終戦を機に学校が解体されたからだ。急遽学校生活を引き上げて、「どこかへ」一人で帰らなければならなくなった。実家がある人は実家へ。家族が疎開していれば疎開先へ。家族が満州にいる人は、思いつく国内の親戚の家へ。北関東から九州へ向かった人や広島から長野へ帰った人もいた。
一方で、玉音放送は「なんの転換にもならなかった」という人たちも意外と多かった。
満州や樺太といった、ソ連との隣接地にいた人たちだ。玉音放送に先んじて8月9日にソ連参戦、11日から侵攻が始まり、激しい戦闘があった。これは15日を境にして終わることがなかった。それまでほとんど空襲も受けたことのなかった樺太の人たちは、この年の8月に、激しい戦いを経験したのだ。
学校から、満州から、疎開先からそれぞれが移動して安住の地を決めると、今度は嵐のような復興が始まった。「その後」の話も、たくさん伺った。
盛田正明さんは東京通信工業(現ソニー)に入社し、世界のソニーへと発展させていく。貧困のため学校も満足に通えなかった少女は、進駐軍の家族が住むワシントンハイツでハウスメイドになった。佐藤次郎さんは公職追放され働けなくなった父親の代わりに炭鉱で学費を稼いだ。カオリ・ナラ・ターナーさんは得意のタップを売り物にして、戦後の日本芸能界を支えた少女もいた。なにもなくなった焼け野原から、みるみるうちにカラフルなネオンがともっていく。
敗戦を体験し、何もかもなくなったからこそ、怒濤の勢いで復興するしかなかった。戦後と、今のコロナ禍を比較して話す方が多かったのも印象的だ。
18人の「戦争・戦後体験」を聞いて、『わたしたちもみんな子どもだった 戦争が日常だった私たちの体験記』という本にまとめた。絶望の中から日本人はどのように立ち直ったのか。さまざまな立場の思いを伝えたいと思う。
戦後76年。当時10代、20代だった人たちも、年齢を重ねた。彼ら、彼女らの話を直接聞ける時間は、もうあまり長くはない。取材中、この聞き書きのきっかけにもなった恩師、テニスプレイヤーの宮城淳さんが亡くなった。話を聞くことは「間に合った」けれども、完成を見てもらうことはできなかった。
76年前にこの国で起きたことを、多くの人に伝えたい。コロナ禍に国が右往左往するなか、ここから学ぶことはけっして少なくないはずだ。


*『わたしたちもみんな子どもだった 戦争が日常だった私たちの体験記』(和久井香菜子/ハガツサブックス刊)発売中
取材・文:和久井香菜子