”100年に一度の大雨”から立ち上がった熊本「泣ける話」 | FRIDAYデジタル

”100年に一度の大雨”から立ち上がった熊本「泣ける話」

熊本県人吉市で「がんばっている人たち」に会いに行った

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<豪雨。昨年に続き、今年も各地で被害が相次いだ。一瞬にして「生活」を破壊され、「日常」を奪われた人たち。災害発生直後は被害の様子が報道されるが、その後は…。昨年7月、豪雨災害に見舞われた熊本県人吉市で人々が経験したこと、今の暮らしぶりを訪ね歩いた。>

昨年7月の豪雨で球磨川が氾濫。一帯に大きな被害があった。被害にあった人たちの「今」を訪ねて歩いた 撮影:亀山早苗

被災した自分が支援者になって「温かい食べ物を」

「朝6時から8時くらいまでがいちばん水が出ていた時間帯だったと思います。自宅の前の道路が水浸しだったので、水が引くのを待って店に出向きました。いつもは15分で着くんですが迂回しながら行ったので1時間半、かかりました」

郷土の家庭料理店「ひまわり亭」の本田節さん(66)。泥が膝上まであり、車を国道に止めて店まで歩いた。

「長靴の中にも泥が入ってきますから、しかたがない、素足で歩きました。店は、水は引いていたけど、2mは浸水した状態。業務用の冷蔵庫、冷凍庫、食器などすべてがひっくり返っていました。もう再開できない、店を閉めるしかないと覚悟しましたね」

30年以上も前から、子連れで地域作りの研修に参加したり、他団体との交流を重ねてきた。37歳のとき、がんになったのを機に一度しかない人生を後悔せずに生きたいと地域作り団体「ひまわりグループ」を作った。ひとり暮らしの高齢者への声かけをかねての弁当宅配のボランティアを始め、それが進化したのが、球磨(くま)川沿いにあるレストラン「ひまわり亭」なのだ。

仲間たちと集い、地元の人々に愛された店が泥に覆われていたときの本田さんの気持ちは察してあまりある。

「ところがその日夕方から、地元の仲間たちがどんどん来てくれて。停電しているからみんな車のライトをつけて薄明かりの中、泥かきをしてくれたんです。泣きました。もう店をやめるなんて言えないと思ったんです」

泥は湿っているうちに掻き出さなければならない。乾くと固まってしまい、砕くと粉塵となって処理できなくなるからだ。熊本地震のとき、いち早く活動を始めた本田さん。キッチンカーは高台に置いてあったため無事だった。仲間が何を考えているのか本田さんにはすぐわかった。

「キッチンカーで、4日目から炊き出しを始めました。人吉市内の被害がひどかったところに1軒1軒、温かい食べ物を届けたんです」

自身も被災者なのに、数日後には支援者になっていた。その強さはどこから来るのか。

「自然と体が動いちゃった(笑)。私がやらなきゃ誰がやる、命に関わらない限りすべてやる、が信念でしたから。こういうときに行動に移せなかったら、地域作りなんてやっている意味がありません」

こちらの心身に染みこんでくるような穏やかな口調と明るい声。本田さんの笑顔に出会うと、誰もが元気づけられる。被災から3ヵ月で、人吉・球磨地域に1万3000食をふるまった。地域振興のアドバイザーとして全国を回っていた経験が人脈を作り、資金や食材も集まってきた。

ところが半年ほどがすぎ、被災者たちが避難所から仮設住宅に移って少しホッとしたとき、どうにもならない胸の痛みで病院に駆け込んだ。肺に水がたまって肋骨が砕けていたのだという。そんなにひどいことになっているとは本人も気づかなかった。それほど夢中で活動していたのだ。手術と療養を経て、今は少しずつ活動を再開している。

「誰かが困っていると放っておけないんですよ。私も苦しいことや悲しいことがたくさんあったから、そういう人の気持ちが自分のことみたいに思えて。だからとにかく食べて元気になってほしい。私も若いころからずっと誰かに助けられてきた。その恩を他の人たちに返す『恩送り』をしたいんです」

ひまわり亭にはもうひとつ興味深い話がある。被災前、店の入り口に大きな郷土玩具「キジ馬」が飾られていた。重さ800キロ、長さ4〜5m、樹齢300年の杉の木で作られたといわれている。そのキジ馬が球磨川の氾濫とともに流されて行方不明になった。それが、被災から1週間後に見つかったのだ。

およそ60キロ先の八代湾をさまよっていたという。さまざまな人たちの尽力があって、キジ馬は無事にひまわり亭に戻ってきた。傷の残るキジ馬は、何があってもあきらめるなと言いたげに、今も球磨川のほとりにどっしり構えている。

流されて行方不明になった「キジ馬」は多くの人の尽力で帰ってきた

コロナ禍に「100年に1度」の大雨が襲った

令和2年7月豪雨によって、熊本県南部は球磨川流域を中心に大きな被害に見舞われた。球磨川は人吉盆地を通り八代海に注ぐ、熊本県最大の一級河川だ。7月3日から4日にかけて「100年に1度」と言われる大雨がこの地域を襲い、球磨川はあちこちで氾濫した。

熊本県内では67名が亡くなり、家屋の全壊が1493棟と甚大な被害をこうむった。人吉で乗ったタクシーの運転手も「うちは球磨川からも支流からも離れているのに、倒木などで堰き止められた小さな川が発端で泥水が一気に家に流れ込んできた」と自宅が半壊したことを話してくれた。コロナ禍で県外からのボランティアも入れず、この1年、大変な思いをしてきたのだ。

4万リットルの焼酎が流された

人吉といえば、温泉に鮎に球磨焼酎。観光で成り立つ町だが、今はまだ復興半ばである。再建できた建物もあるが、工事中、さらに手つかずの場所が混在している。

球磨焼酎は、500年の歴史を誇る米焼酎で、現在、27の蔵元が伝統を受け継いでいる。そのうちのひとつが人吉市内の「大和一酒造元」。室町時代から明治時代まで続いた製法を再現した、球磨焼酎の原点となる「明治波濤歌」、蔵にわく温泉水で仕込んだ「温泉焼酎夢」や、地元の新鮮な牛乳を使った「牛乳焼酎牧場の夢」などユニークな焼酎にファンが多い。代表の下田文仁さん(54)が言う。

「あの日は、午前3時か4時からずっと避難を呼びかける放送が鳴っていました。でもそこまではよくあることなんですよ」

下田さんは製造所に置いてあるタンクから焼酎を数千リットル、高いところにあるタンクへと移し替えていた。7時過ぎまでかかった。

「7時過ぎに、いきなり水がドンと製造所に入ってきたんです。これはダメだとあわてて向かいにある自宅の2階に避難しましたが、自宅の1階まで泥水に飲まれて、冷蔵庫がぶつかって壁が割れる音とかテレビが倒れる音とか、轟音が鳴り響いている。その音を聞きながら、2階から製造所をぼーっと見ていることしかできなかった」

9時半ころがピークで10時ころからは水が引き始めた。水が引くのもまたあっという間だったと下田さんは言う。

2000リットル入るタンクは、重さが数百キロあるんです。それが道路を流されていくのが見えたので、腰まで水につかりながら引っ張って戻りました。水が全部引いたら、あんな重いタンクは運べないから」

夕方になって製造所に入ってみると、4万リットルもの焼酎が流失、タンクがひっくり返っているだけではなく、さまざまな資材や器材が重なったり散乱したり。蔵元仲間にそんな話を電話でしていたら、翌朝8時には10数名の蔵元仲間がやってきてくれた。

「みんなで製造所や家の中の大きなもの、流し台とか家具とか、すべて出してくれたんですよ。そこまでやってくれたので、私も片付ける気になれた。ただ、会社がこれからどうなるのか想像もできませんでした」

それからもたくさんの仲間が、毎日駆けつけた。中学、高校時代の同級生は仕事が休みの毎週末、4ヵ月にわたって手伝いに通ってくれた。知り合いのパン屋さんは「どうせ今、パンは売れないから」と店を休んで1ヶ月、毎日やってきた。

「そういう人たちを見ていたら、私ががんばらないわけにはいかないでしょ(笑)」

幸い、泥をかぶっていてもいいから焼酎を売ってほしいというお客さんが全国にたくさんいた。すでに瓶詰めしていたものはきれいに洗ってラベルを貼り替えた。8月に出荷をすると、3000本がまたたく間に売れた。

「届いた焼酎を抱きしめました、と連絡をくれたお客さんがいて、こちらが泣けました」

周囲の協力でクラウドファンディングにも挑戦、700人以上から支援を得た。もっていた原酒の8割は使えなくなったため、製造設備を早く復旧させなければならなかったのだ。麹室を解体撤去、新たに建設したり製造所を整備したりとめまぐるしい日々が続き、11月末に仕込みができるまでになった。

「球磨川は恵みの川。球磨川がなければ人吉・球磨の生活は成り立たない。どんなに設備が破損しようと、命さえあればなんとかなる」

そう言ったあと、下田さんは少し目を伏せた。

「実は今回の豪雨で、球磨川の真上に家があった高校時代の親友を亡くしたんです。いろいろなものを失ったけど、いちばんつらかったのは彼を失ったこと」

だから共存していきたい球磨川に対して複雑な思いもある。万感の思いをこめて、これから下田さんが出そうとしている新商品が、その名も「球磨川」。

「球磨川にやられっぱなしでは悔しいから」

言葉にできないつらさと、周りからもらった温かさを胸に秘めて、下田さんでなければできない焼酎を、これからも造っていく。

大和一酒造元代表の下田文仁さん。今年も、焼酎を仕込む

球磨川は暴れ川ではない。「誰も球磨川を責めません」

2メートル近く浸水、店の1階が泥水で埋まったのは、創業明治10(1887)年、お茶の老舗「立山商店」。

「朝6時に、近所の目の不自由な方とか103歳と80代の母娘さんとか、ドアをドンドン叩いて起こして歩いたんですよ。『早くせんと水がきて死ぬよ』って。それで避難所に送っていって店に戻ったら、7時半くらいに携帯がつながらなくなった。あっという間に水がきたから、私たちは自宅の2階に避難しました」

立山まき子さん(64)は当時の様子をそう語る。幸い、お茶の6割は倉庫にあって無事だった。ただ、泥かきは本当に大変だったという。

「あんなヘドロみたいな細かくてねっとりした泥は初めてでしたね。どんなにかいてもなくならないんじゃないかと絶望的になるほど大量で。地元の高校生たちが2週間ほど、毎日来て手伝ってくれたんです。それでようやく見通しが立った。でも去年の今頃、ここは本当にひどい臭いに満ちていました(笑)」

穏やかな口調からは想像がつかないが、泥とその臭いは凄絶だったようだ。消臭作業と拭き掃除に追われたという。立山商店はギャラリーを併設し、着物の着付けや生け花体験など、人吉の観光に大きく寄与していた。だがすぐ先の中心地域がまだ復興とはいかず、老舗旅館も通常営業ができていない現在、観光客は落ち込んでいる。

「町の復興に貢献するためにも、営業できている私たちががんばっていかないと」

立山さんはにこやかにそう言う。豪雨から1年。7月末の人吉は猛暑で、いれてくれた冷たいお茶が体に染み渡っていく。立山さんは2年前から、旧友である田畑奈津さん(54)と「球磨川アーティザンズ」による新たな仕事にも取り組んでいる。球磨川アーティザンズでは、球磨川流域で育まれた農産資源を生産農家とともに製品にしている。青梅ピュレや栗バター、ショウガシロップなど豊かな恵みを扱う。

「私は25年間、アメリカで会計士の仕事をしていたんです。50代になって、これからは自分のためではなく人のために生きていきたいと思って故郷に戻ってきました。外国にいたからこそ故郷のよさを外からの目線で痛感しました。この地域は本当に農産物が豊富。だったら添加物を入れずにおいしいものを作ってみたいと会社を立ち上げたんです」(球磨川アーティザンズ代表・田畑さん)

生まれ育った場所なのに、若いうちに外国へ行ったので故郷のよさがわからなかったと田畑さんは明るい笑顔を見せる。

「それにこの地域の人たちは本当に優しくていい人が多いんです。…信号のない交差点に行くと、車同士が譲り合っていて誰も前に進めなかったり(笑)」

数日間しか滞在できなかったが、確かに人吉の人たちは温かい。コンビニでもビジネスホテルでも、町を行き交う人でさえ何か尋ねると丁寧に教えてくれた。率直で穏やかで、芯が強くて根が明るい。そんな気がしてならなかった。だからこそこの大災害を乗り越えて、きっとよりよい町へと変えていけるのではないだろうか。もちろん、今後の治水対策も考えると、簡単なことではないけれど。

「ただね」

立山さんが真剣な口調になる。

「去年の災害のとき、一部メディアが球磨川を『暴れ川』と報じたんです。でも私たち地元の人間は誰も球磨川をそんなふうには思っていない。誰も球磨川を責めてはいません。恵みの川ですから」

その日も球磨川は悠々と流れていた。

まだ列車が通らない駅「人吉」に人が集まった

人吉はJR肥薩線とくま川鉄道が運行されているが、今はどちらも一部運休となり、人吉駅は通らない。球磨川と並行して走る区間が人気だった肥薩線は、橋梁流失、土砂流入など450カ所で被害が確認され、運行のめどはたっていないという。

肥薩線の人吉駅長である西尾圭司さんは、雨が強まってきたので前日から駅に泊まり込んでいた。一睡もしないまま福岡のJR九州本社と連絡をとりあっていたが、朝になって一気にレールが見えなくなり、ホームの高さまで水がきた。支流の山田川のバックウォーターの影響だ。駅正面側は球磨川の水がひたひたと迫ってはきたが、駅構内には入ってこなかった。

「近所の人たちが30人くらいやってきた。みなさんを駅の2階にご案内して避難してもらいました」

その後、被害がわかるにつれ、これは長期戦になると西尾さんは覚悟した。そして列車が動かないなら…と

「町の復興をお手伝いしたい。今まで町のみなさんにお世話になったから、ここは恩返しと思って、職員一丸となって旅館のお掃除などをさせてもらいました」

ただ、駅が「人の集まる場所」になっていないのは寂しい。さまざまな模索を重ね、3月には商工会議所と球磨焼酎蔵ツーリズム協議会との共催で、駅のホームで球磨焼酎のイベントをおこなった。

「列車が通らなくても、人吉を盛り上げ、元気づけたい」

熊本県にも同じ思いがあった。今年7月、人吉市でイベントが行われたのだ。題して『くまモンのみんなサンくまプロジェクト~人吉・球磨は元気だモン♪~』である。4日間にわたり、熊本県営業部長兼しあわせ部長のくまモンが、人吉市街のあちこちに出没、最終日にはJR人吉駅で「くまモン・ミュージックフェスティバル」が開かれた。くまモンは、地元小学生の合唱を指揮したり、中学生、高校生の吹奏楽部とコラボしてドラムを始め、さまざまな楽器に挑戦したりした。向き合う2本のホームを使って、片方をステージにし、片方を客席に。これなら新型コロナウイルスの感染対策も万全だ。

イベントで楽器演奏を披露する「藍色くまモン」©︎2010 熊本県くまモン

駅前広場には地元の焼き鮎、焼き鳥、サンドイッチなどのブースが並び、家族連れであちこちに行列ができた。どこもかしこも笑顔だ。じっとその様子を見つめ続けていた西尾さんは、にこやかな表情でつぶやいた。

「駅に人が集うって、本当にうれしいですね」

ステージと化した駅のホームの向こうには緑が広がり、蝉が音楽に負けない勢いで鳴き、真っ白な鷺が飛び交っていた。人吉は、美しい町である。

泥に埋まり、一時は閉店も覚悟したというひまわり亭
大和一酒造元の店舗と事務所だった場所
ここも、1階が泥に埋まった。「壮絶な臭いでした」
「球磨川の豊かな恵みを全国に発信したい」立山まき子さん(右)と、田畑奈津さん
列車はまだ通らないけれど、駅長さんは今日も駅に立つ

球磨川アーティザンズ:

https://kumagawaartisans.com/products/)

  • 取材・文亀山早苗

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