二度の戦争を経験した男・山根明「今も覚えているあの苦しみ」 | FRIDAYデジタル

二度の戦争を経験した男・山根明「今も覚えているあの苦しみ」

子どものころ、日本で戦争があったー

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「私は、日本生まれの父と朝鮮生まれで神戸の女学校出身の母に育てられました。両親は日本名を名乗り、日本語を話し、私のことも『アキラ』と呼んでいたから、私も当然のように自分を日本人だと思っていました」

「男・山根」こと日本ボクシング連盟第12代目会長の山根明さんはこう言う。

強面で知られる「男・山根明」は、少年のころ2つの戦争を経験した。「私は生き延びた。けど犠牲になった方がたくさんおられる。そのことを忘れない」

1945年8月15日。天皇の「大東亜戦争終結の詔書」、いわゆる「玉音放送」がラジオで流れ、日本は戦争に敗けた。焼け野原になった各地で、多くの国民が呆然と天皇の声を聞いた。

終戦時、日本は周辺各国に領土を広げ支配していた。敗戦したことにより、それらの場所から日本人が帰国することになる。中国・満州に280万人、東南アジアに100万人。終戦時に海外にいた日本人は600万人以上といわれている。彼らが一斉に日本を目指したのだ。

一方で、日本から離れる人たちもいた。「日本に行けば稼げる」と夢を見て日本へ渡った者もいれば、終戦間際には戦時動員された労働者もいた。年々膨れ上がった朝鮮出身者は、終戦時には200万人いたといわれている。日本で生まれた2世もいた。山根明さんもその一人だ。

「父は大阪府堺市で米屋を営むかたわら、陸軍憲兵隊の秘密情報員のような仕事をしていてね。泣く子も黙るといわれていた憲兵隊が、父にはとても礼儀正しく接していたのが、子どもながら印象に残っているんです」

自宅の屋上には200羽もの伝書鳩を飼っていて、この鳩が一斉に鳩舎に戻ってくると、決まって憲兵が訪ねてきたという。子どもだった山根さんには詳細はわからないが、なにか重要な地位を得ていたようだった。その後、家族は山口県岩国市へ疎開。山根さんは6歳、5歳の妹と2歳の弟、生まれたばかりの妹がいた。バラック小屋のような家で、家族そろって8月15日を迎えた。

「これから天皇陛下のお話があるから、きちんと正座して聞くように、と父に言われてね。緊張して正座してた。そしたら、ラジオから間延びしたような声が流れてきて、『なんやら格好悪いな』とがっかりした記憶があります。それまで天皇陛下の声なんて、聞いたことがなかった。だから勝手に野太い声でしっかり話をする方だと思い込んでいたんですよね」

父親は、床に頭をつけて、大声で泣き始めた。あとにも先にも、父の涙を見たのはそのときだけだったという。

「父は軍人ではなかったけれど、心は『日本の軍人』だったから、よほど悔しかったのでしょうね」

終戦から数日後、父から「お前たちは朝鮮に帰れ」と言われる。母は4人の子どもたちを連れて、父方の祖父がいる今の韓国、慶尚南道の三千浦に引き揚げることになった。

父は憲兵隊の仕事をしていたため、朝鮮では「売国奴」扱いだ。戻りたくても日本に残らざるを得なかったのかもしれない。母子5人は、朝鮮に「帰る」ため博多港に向かった。港には、朝鮮半島から日本に戻ってきた引き揚げ者と、逆に釜山に渡る朝鮮人で殺気立っていた。

博多港は、外地からの引き揚げが完了するまでに、満州や中国、朝鮮から約139.2万人を受け入れた。政府に指定された引揚港10港で最も人数が多い。2番目に多いのは佐世保の139.1万人、「岸壁の母」で有名な舞鶴は66.4万人だ。

山根さん一家のように、戦後、朝鮮に戻った人たちは150万人ほどといわれる。焼け野原になり物資に困窮した日本とは違い、戦禍を被らなかった朝鮮は安住の地に見えたのだろう。

しかし不穏な空気は年々増していた。1948年に大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国が成立したが、国内は荒れていた。済州島のゲリラを軍隊が鎮圧し、その過程で大勢の島民が犠牲になった「済州島四・三事件」や、軍隊で部隊ごとゲリラに寝返った「麗水・順天反乱事件」が立て続けに起こった。国内にはいたるところに共産主義者のゲリラが潜んでいた。

「8歳か9歳のとき、朝鮮戦争の直前に共産主義者のゲリラが三千浦に入ってきたんです。街中を回って2030人を家から引きずり出しました。『助けて』と命乞いする家族を蹴飛ばし、彼らにスコップを持たせて連れ去るんですよ。

私は『たいへんなことが起こる』と思って、その後をついて行きました。ゲリラたちは山奥に入り、連れてきた者を列に並べて地面に穴を掘らせたんです。大きな穴が掘られると、ゲリラが自動小銃をブババババ!とぶっ放して。連行者たちは、吸い込まれるように穴の中へ倒れていきました」

近所にはゲリラが潜んでいて、聞き耳を立て、密告しあっている。同じ朝鮮人同士が、思想の違いから告発し合い、殺し合う。日本で長い戦争を終え、朝鮮に帰ってみると、今度はその地で戦争が始まっていた。山根さんは三千浦に来たとき、看板の字が読めず「外国に来てしまった」と思ったという。父に会いたい。日本へ帰りたい。堺に戻りたい…。

しかし日本は、日本国籍の者を受け入れるだけで精一杯だ。正式に日本へ渡る術はなかった。戦後、朝鮮から日本へ戻ろうと密航した人たちは20万人以上と言われる。

「1度目の密航は失敗しました。2度目、10歳の時にひとりで密航。日本へ戻ってくることができた。でも、一度朝鮮へ戻っていた密航者の私は、日本国籍を失っていたんです」

1952年、サンフランシスコ講和条約により、日本は朝鮮半島の独立を承認、朝鮮人に対する主権も放棄した。これまで日本に住み、日本国籍を持っていた在日朝鮮人たちは日本国籍を失うことになる。かといって朝鮮半島に帰ろうとしても、今度は当時貧しかった韓国側が受け入れない。このため日本は「かつて日本国籍を有していた外国人」に限って永住権を認めた。これがいわゆる在日朝鮮・韓国人と呼ばれる人々だ。

27歳のときに在留資格を得て、無国籍から『在日韓国人』になりました。日本で生まれ育って、朝鮮には年しか住んでいなかったけれども、日本人という扱いではなかったんです。ようやく日本国籍を取得したのは40歳のときでした」

そして山根さんは、そのときから持ち続ける「思い」をこう語る。

「私は日本に誇りを持ち、日の丸を背負って世界一を目指しました。法務局に帰化の申請に行ったとき、30〜40人ほど、同じ申請者がいたでしょうか、その中から選ばれて、10項目くらいある『宣誓書』を読み上げました。その大半は日本国のために貢献するという文言だった。私は宣誓した以上、ずっとそれを守って社会貢献してきたつもりです。

韓国にルーツがあることは恥じることではないし、隠してもいない。だからルーツだけを取り上げて私を非難されることには大きな悲しみを感じます。私は日本を愛しています。だから日本に帰化したのです。

しかし私のルーツは変わらない。日本と韓国で政治的に揉め事があったり、衝突したときが一番辛いんです。政治家は、どうか過去を責めて殴り合いをするのではなく、隣国として協力し合える未来を造っていってほしいと、心から思います」

コロナ禍、取材応じてくれた山根さん。当時のいくつかのできごとは「胸に焼き付いている」という

 

幼いうちに2つの戦争を経験し「国の都合」に振り回されてきた。山根さんは、76年目の8月15日、こう話してくれた。

「2回も戦争に遭ったことは不幸せだったと、今になっては思う。でもそういう体験をしたことで、人間として強くなった。私は生き延びたけれど、戦争で犠牲になった方が、たくさんおられる。そういうことを思うと、胸がいっぱいになります。朝鮮戦争のことは、今でも鮮明に覚えています。その悲しみは、今でも焼き付いていますよ」

81歳になった男・山根。70年以上経った今も、「覚えている」という苦しみ。私たちは、ここからなにを学べばいいだろうか。

  • 取材・文和久井香菜子

    ライター。戦争の記憶を取材している。茶道裏千家前家元の千玄室氏、日本ボクシング連盟元会長の山根明氏など、18人の戦争体験を聞いた『わたしたちもみんな子どもだった~戦争が日常だった私たちの体験記』(ハガツサブックス)が発売中

  • 写真本人提供

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