打倒大阪桐蔭も雨天コールド負け…東海大菅生・元プロ監督の無念 | FRIDAYデジタル

打倒大阪桐蔭も雨天コールド負け…東海大菅生・元プロ監督の無念

試合終盤、絶好のチャンスで起きたまさかの事態、5年ぶりのリベンジは雨とともに消えた

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無情のゲームセットが告げられる

一時は1点差と詰め寄った。ふたたび大阪桐蔭に3点差とされても、8回の東海大菅生は1死一、二塁のチャンス。試合はここからが勝負だ。だが、「バットが(滑って)飛んだり、ゴロが止まったりと野球にならない」(大阪桐蔭・西谷浩一監督)”緊急事態”だった——。

かくして32分の中断を経たのち、10時38分に8回途中コールドゲームが宣せられ、大阪桐蔭の7-4。これは1998年夏、如水館(広島)と専大北上(岩手)が6-6で7回引き分けとなって以来、23年ぶりのことだ。

雨は試合前から降っていたのだ。しかも、さあここから、という場面での降雨コールド。さぞやりきれなかろう、という質問に東海大菅生・若林弘泰監督は、

「ルールなので、しょうがないですよね。これだけ順延しているので、1試合でもやりたかった事情もわかります。ただ、いい天気のなかでやらせたかったですね」

と、あえてなのか、淡々と振り返った。

力投する東海大菅生・本田。グラウンドはほとんど泥沼だ

5年前感じた「大阪桐蔭との格の違い」

若林監督が監督として初めて甲子園に出場したのは2015年のセンバツ。当時49歳になろうとしていたから、山びこ打線の池田を率いた名物監督・蔦文也さんが、初出場(1971年夏)したときの48歳とほぼ同じだ。そして初戦で当たったのが、今大会と同じ大阪桐蔭だった。前年の夏を制していた横綱だ。若林監督は、当時を振り返る。

「格の違いを感じました。こちらは、甲子園に出ることが大目標。対して桐蔭は、出場するのは当然で、日本一にはここからが本当の勝負という自信にあふれ、甲子園がまるで自分の庭のように振る舞っている。結果、0対8の完敗です」

 37歳、一念発起して監督を目指す

 監督に就任したのは2009年、43歳だ。中日で6年のプロ生活を通算1勝1敗で終え、運送会社に勤務していたときだった。高校生を指導する先輩の姿に一念発起して、教員を志したのは37歳のとき。母校・東海大相模での教育実習では「社会科教諭の門馬敬治監督にお世話になり」、菅生への赴任が免許取得から2年を経た2007年。当時、プロ野球経験者に求められた2年の教員生活を経て、監督となった。

ところが当時の東海大菅生は、過去に春夏2回ずつの甲子園経験はあるものの「東京で一番弱い私学」と言われていた。初采配だった2009年夏、初戦は都国分寺を延長14回でやっと振り切ったと思ったら、次戦は都調布南に延長14回サヨナラ負けである。一番弱い、はオーバーにしても、都立勢といい勝負だった。そこから少しずつ力を蓄え、ようやく初めて甲子園の土を踏むのが、就任丸6年の2015年センバツだ。

実はその前年、2014年夏も、高橋優貴(現巨人)がエースの菅生は西東京のV候補だった。準決勝では日大三に逆転勝ちし、若林監督にとって初めての甲子園が見えかけていた。だが、下馬評では絶対有利だった決勝で日大鶴ヶ丘に敗退。

「日大三や早稲田実に勝つことを目標にしていては、ダメなんですね。そして翌年のセンバツで大阪桐蔭の姿を見て、甲子園に出ることではなく、日本一になることを目標にしなくては、とあらためて肝に銘じました」(若林監督)

それ以後も、清宮幸太郎(現日本ハム)が1年だった15年には、早稲田実との決勝で5点リードを8回にひっくり返されたり、3年連続西東京の決勝で敗退と辛酸をなめるが、17年の夏にはようやく、夏の甲子園初出場。今年のドラフト候補・松本健吾(現・亜細亜大)がエースのチームは、ベスト4まで勝ち進んだ。そしてこの春もベスト8に進出。「東京で一番弱い私学」は、10年かかって全国的な強豪に成長したわけだ。

5年ぶりの再戦「手ごたえはあった」

そして、この夏。5年前、初めての甲子園ではね返された大阪桐蔭と、初戦でまた対戦することが決まった。

「いきなり大きくて厚い壁がきたなという感じです。一番注目されるカードだと思うとやりがいがある。前回は全く歯が立たなかったけど、今回のチームには手応えがありますね」

と力こぶの若林監督。試合は先発左腕の櫻井海理が初回、いきなり花田旭に2ラン、3回には藤原夏暉、前田健伸にも被弾して追う展開に。だが、救援した本田峻也が「ボールがつねに濡れていて、足もとも気になり投げづらかったんですが、気持ちで腕が振れた」と踏ん張る間、7回には1点差と追いすがる。さらに2死二、三塁と逆転のチャンスで、打席には四番の小池祐吏。だが、フルカウントから三振……。

「あそこですね。同点、もしくは逆転まで期待しましたが、あの場面で渾身のストレートを投げられる松浦(慶斗)君は素晴らしい。逆にウチはその裏、松浦君の代打で出た田近(介人)君に、2死から2点二塁打を打たれている。力を出すべきときに出せなかったのは、悔しいとは思います。ただ、中学時代の日本代表をそろえたような相手に対し、コツコツと鍛えてきた選手たちでも勝負になる、という手応えは感じました」

“雨天への心構え”が勝敗を分けた

 勝利した桐蔭・西谷監督は「最後までやりたかった……」と菅生に配慮しながら、「雨をいやがったほうが負け、と試合前から話していました。ウチでは雨に備えてピッチング、ノックなどの練習はしますし、練習試合も少々の雨なら続けます」と、雨に備えた心とスキルの準備を強調した。

一方菅生は、「初回、ゴロを処理した桐蔭の野手が”滑るから気をつけろ”というゼスチャーをしたのを見て、ウチの野手にも指示しました」(若林監督)。むろん、菅生でも雨対策の練習はあるだろう。ただ、準備の周到さという面では桐蔭が一枚上だったかもしれない。

社会科教師である若林監督とは、こんな雑談をしたことがある。

「本能寺の変で織田信長が自害すると、羽柴秀吉が、岡山あたりから200キロ以上を驚異的なスピードで京へとって返し、明智光秀を討ったでしょう。中国大返し、ね。あれ、日本史の奇跡みたいに言われるけど、実はそのころの秀吉は、毛利方との戦いに信長の援軍を請うため、道路の拡張や御座所の整備をしていたんですよ。兵糧などの備蓄も、ぬかりなかったでしょう。そういう準備があったからこそ、想定外のできごとにも機敏に動けたんです」

いま思えば、なんとも示唆に富む。両端が、大坂桐蔭戦の黒星になっている若林監督の甲子園星取り表。このままでは、終われない。

東海大菅生・若林監督の挑戦は続く

 

  • 取材・文楊順行PHOTO小池義弘、松橋隆樹(若林監督)

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