「政治家志望ではなかった」掛川市長が内閣府を辞めた本当の理由 | FRIDAYデジタル

「政治家志望ではなかった」掛川市長が内閣府を辞めた本当の理由

2度の”転職”で政治家の道を選んだ45歳、久保田崇・掛川市長に単独インタビュー

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8月18日から2日間とられたまん延防止措置、および同20日から発令された緊急事態宣言にむけて市長メッセージを市民に発信する久保田崇市長(写真提供:静岡県掛川市役所)

総勢8人もの候補者が立候補した「横浜市長選」が22日、終わった。各候補者から発信される政策の主張よりは秋の衆議院総選挙を見据えた「代理戦争」の色合いが強く出た。地方に目を向けると異色の市長が静岡県にいる。霞が関官僚を皮切りに2度の転職をし、今年4月、掛川市長選挙に初出馬・初当選した久保田崇(たかし)市長(45)がその人だ。

京大から内閣府に入府、その将来は約束されていたはずだが、2011年東日本大震災における被災地・陸前高田市での壮絶な経験がきっかけになり、「なろうとは、みじんも思わなかった」政治家になった。生まれ故郷の市長に就任して4か月、忖度やしがらみとは無縁の市政運営を行っている。

国民の不信が募る政治家への思い

新型コロナウイルスの感染拡大がおさまらない中、開催された東京五輪は8日に幕を閉じた。開催決定を後押ししたのは菅義偉内閣だが、首相のお膝元である横浜市長選で、自民党市議らが支援した前閣僚と現職市長が負け、新型コロナ対策の強化を訴えた野党推薦の元大学教授が勝った。コロナ禍による国民の不安を和らげる発信力が不足し、国民の政治への不信が日に日に高まっていても、今年4月に掛川市長になった久保田氏は意外なコメントを口にした。

「私は政治家に敬意を払っています。人前に立って、批判の矢面に立つ、こんな大変な仕事はありません。今は誰が首相をやっても難しい判断が必要な時代です。失点なくやることはできません。批判されることは確かにありますが、評価すべきこともある。例えば、日本は無料で希望者全員がワクチン接種をできる。1億人分以上を、国が調達してくれました。

海外では自国で調達できない国もあって、日本はその国にワクチンを無料で提供しました。私のところにもワクチンの予約ができない、電話がつながらないという苦情はいっぱい来ていますよ。でも希望者は必ず接種できる、ということは海外の現状を考えれば、ある意味すごいことでもあると思います」

内閣府の官僚時代、国会議員の仕事を現場で目に焼き付けてきた45歳の久保田市長にとって、大変さは十分にわかる。国民の政治不信が募っていたとしても、「政治家」とはリスペクトの対象である。

京大時代、目指したのは政治家ではなく、公務員だった。「地球温暖化の京都会議に参加できた」ことがきっかけに国家公務員の試験を受けて環境省の内定をもらったが、「公務員になるのならタテ割り打破するような仕事に関わりたい」と内閣府へ入府を決めた。この時、久保田市長の面接官が樋渡啓祐・元佐賀県武雄市長。この出会いがのちに自分の人生を変えていくことになるとは、この時は知る由もなかった。

転機は2011年の東日本大震災で訪れた。3月11日、久保田氏は霞が関にいた。国の動きが遅く、被災地支援のために打つ手は、後手後手に回った。官僚として見ていた久保田氏は、何か役に立てることはないか、と若手の首長を中心にした「被災地を勝手連的に支援する」とボランティア活動に参加。同年5月24日、壊滅的な被害を受けた岩手県陸前高田市に初めて向かった。現在まで同市の復興に身をささげてきた戸羽太・陸前高田市長は被災地に出向いた首長たちを前に当時、こうもらしたのだという。

「現地があまりにも混乱していて、市長の私ですら、何ができるか、わからないんですよ」

地元の人だけで復興を図るのは限界がある。国から人を招いたほうがいい。そう考えて、陸前高田市の戸羽市長に、内閣府の官僚だった久保田氏を強力に推したのが、樋渡氏だった。この時、樋渡氏も佐賀県武雄市長としてこのボランティア活動に参加していたのだ。

「防災災害対策のプロでもない、ましてや岩手県に縁もゆかりもない、私がお役に立てるのか」と当時、久保田氏は迷ったが、陸前高田市・戸羽市長は久保田氏の言動に惚れ込んだ。久保田氏も結局、「人の役に立ちたい」という気持ちがまさり、陸前高田市の副市長に就任。家族と共に移り住んだ。任期は3度も延長、官僚として4年間という異例の長期出向になった。

陸前高田副市長の任期が終わると、霞が関から離れる決断をした。

「普通は内閣府に戻ります。でもどこに配属されるかわからないので、(陸前高田にいた)4年間の経験が死んでしまう可能性もありました。

転職をするリスクなんて、たいしたことじゃない。被災地で出会った多くの方は家族を亡くしたことが日常でした。家が流されたり、仕事がなくなったくらいでは被災にはならない。住宅ローンが残っていても、生きていればそれだけで十分なんだから、と笑って話す…。冷静に考えるとありえない価値観の連続でした。いつ、人生の終わりを迎えるかわからない、ということを身をもって知っている人と一緒に過ごしていましたから、悔いがないように生きなきゃいけない、と強く思うようになりました」

東日本大震災は明治以降の地震被害としては関東大震災(1923年・大正12年)に次ぐ甚大なものだ。未だに2525人(2021年3月10日時点)もの行方不明者がいる。

「若くして亡くなった方もたくさんいる。生かされているんだ‥ということをより一層意識するようになりました」

7月3日、大規模な土砂災害が発生した直後、熱海市へ消防隊を送り出す久保田市長(左端、写真提供:静岡県掛川市役所)

政治家にとって一番大切なことは「人の命を守ること」

官僚を辞めた後、立命館大で3年間、大学教授として教壇にもたった。その大学教授時代に、掛川の現職市長だった松井三郎氏から「副市長のポストが空く、ゆくゆくは私の後を継いで欲しい」というオファーが来た。松井市長は久保田市長の実家の“ご近所さま”だった。

副市長になれば、周囲は「将来的には市長選に出馬するのだろう」と考える人が多い。ただ久保田市長は副市長のオファーを受けたとき、来るべき次期市長選に出馬する決断はまだしなかった。

「身内が政治家になると言ったら、大反対します。うちもそうでした。他人だから応援できるんですよ。もし、旦那さんや奥さんが政治家になると言ったら賛成できますか? 私自身、政策立案に関わりたくて公務員になりましたけど、政治家の道を歩むことはもともと望んではいなかったですから」

副市長の任期2年の間に、25年ぶりに戻った故郷についてどれぐらい愛着があるか、自問自答を重ねた。震災で壊滅的な被害を受けた東北の街並みを現場で見てきた4年間が脳裏に浮かんできた。近隣や内陸の街に移り住めば、もう少し、楽な生活が送れたにも関わらず、仮設住宅に10年住み続けた人を見てきた。その粘り強さ、何よりも地元への愛着心に触れ、掛川市民の姿が重なった。「少しでもそういう人たちの役に立ちたい」と思うようになった。

「政治家にはやりたいことと、やらなきゃいけないことがある。一番大切なことは人の命を守ること」という言葉にも力がある。掛川市は南海トラフ地震で最大クラス(レベル2)の津波が来る想定がある。東北以上にいつ震災がきてもおかしくない。掛川市は山にも囲まれ同じ静岡県では今年7月、熱海で土石流の災害も起きた。防災については4年間、被災地の現場にいた経験が生きるだろう。

「大地震が来たらまずは逃げることを習慣にしたいんです。市では全長9キロの防潮堤を造っています。でもこれが逃げない理由になっては絶対にいけない。3・11の経験を生かさないと、震災で亡くなられた方が浮かばれない。日本の他の場所でまた同じような震災があった時、同じ過ちがおきてしまうことをきっとのぞんでいらっしゃらない。『東北で経験があったから失われずにすんだ命があった、軽い被害で済んだ』ということにならないといけません」

ここまで話を聞くと、久保田市長はいずれ国政に進出することも考えているのではないか、と勝手に考えてしまうが、国政より地方の方が面白いという。

「市長が決断すれば形になるのが早い、国はルールが多くて、自由に動けないところがありますから。ただ、政治の道に行ったらまともな(一般の)世界には戻ってこられません、当選するにせよ、落選するにせよ、やめたくてもやめられない。そうなってしまったかもしれませんね」

自分がのぞむことを形にできる醍醐味と同時に、もう後戻りできない道に足を踏み入れたという覚悟をにじませる久保田市長はまず、掛川市を改革できるところから変えていき、より愛着の持てる街にする。「人の役に立ちたい」というブレない信条のもと、人生の節目節目で大きな決断をしてきた久保田市長は、将来的に、国政にも影響を与えるような地方都市のリーダーになるかもしれない。

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