34歳長男が激白「林眞須美死刑囚の家族として生きること」 | FRIDAYデジタル

34歳長男が激白「林眞須美死刑囚の家族として生きること」

和歌山カレー事件発生から23年がすぎて 「思い出せば出すほど、事件前は幸せな家庭でした」 「僕ら家族は、心が一回死んでしまった」 友人を失い、職場を追われ、フィアンセも去った

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コウジさんは現在運送系の仕事についている。休日は、1人で過ごすことがほとんどだという
コウジさんは現在運送系の仕事についている。休日は、1人で過ごすことがほとんどだという

「両親が逮捕されたのは、小学校の運動会当日の朝でした。直後に僕らは児童養護施設に行くことになりました。慌ただしく家を出るときに台所を覗くと、母の作りかけのお弁当が残されていたことを今も覚えています。あのとき母の手料理を食べておけばよかった……」

そう話すのは、林眞須美死刑囚(60)の長男・コウジさん(34・仮名)。当時小学5年生、運動会のリレーで活躍する姿を母に見せるのを楽しみにしていた。

’98年7月25日、和歌山市の夏祭りで、猛毒のヒ素により4人が死亡、63人が急性中毒となった和歌山カレー事件。同年12月に林眞須美死刑囚は殺人と殺人未遂の容疑で逮捕された。事件発生から23年になる今年6月9日には37歳になる長女が、4歳の娘とともに関西空港の連絡橋から身を投げた。

和歌山市の住宅街で夜の川を見つめながら、コウジさんは静かに語り始めた。

「7月25日の事件発生直後は、まだ穏やかな日々を過ごしていました。周辺の家に聞き込みにきた記者さんを家にあげて食卓を囲んだり、記者さんにも『宿題やってるか』なんて声をかけられたり。父も気さくに対応していました。

おかしくなったのは、事件から1ヵ月後、新聞社に両親の保険金詐欺疑惑を報じられてからです。これで容赦なく追及していいと思われたんだと思います。ハシゴに上って家の中を覗き込んできたり、ゴミを出すとすぐにあけて中身を見たり、ポストの中の手紙を勝手に見られることもありました。連日200人ほどのマスコミが昼夜問わず家の前に居座っている状態です。

夏休みが明けると、友達が遊んでくれなくなり、姉や父が母を問い詰めて口論をするようになったり、仲良しのご近所さんも『あの家は前からおかしかった』とマスコミに漏(も)らしたりするようになっていきました」

疑惑の渦中にあった両親が保険金詐欺などの容疑で逮捕された’98年10月4日の朝、コウジさんは姉が自分の名前を叫ぶ声で目が覚めた。すでに両親は警察に連行されており、コウジさんたちも警察官から荷物をまとめるように言われた。

「何もわからず、大好きだった釣り竿を持っていこうとしたら、女性警察官に『そんなん持っていくな。釣りなんかもう一生でけへんで』と言われました。 児童養護施設に預けられたその日から先にいた子供たちに囲まれて1時間ほど殴ったり蹴られたりの毎日が続きました。顔をエアガンで撃たれたり、鉄アレイで頭を殴られたりもしました。学校も彼らと一緒でしたから、逃げ場がなかった。

中学生になると施設の女性職員から性的暴力を受けました。思い出したくもない記憶です。高校生になると少し遠くの学校へ。最初は楽しく過ごしましたが、すぐに正体がバレて、居場所を失いました。就職してからも身元がバレると職場にいづらくなって、転職を繰り返しました。 子供の頃は、いつかまた皆であの家に暮らせると思っていましたが、実家は’00年に放火されて焼失してしまった。

社会人になってから結婚も考えましたが、死刑囚の息子だと相手の両親に伝える度に破談になるんです。今まで優しかった親御さんから、打ち明けた途端『死刑囚の息子なんかに娘はやれない』と怒鳴りながら、塩を投げられたこともあります」

楽しかった家族団欒(らん)の記憶

こうした辛い経験の中でも、コウジさんは両親を憎む気持ちになれなかった。それは、逮捕前までの11年間に彼の幸せな記憶が詰まっているためだ。

「家族でご飯を食べるのが楽しかった。逮捕前日も、『明日の運動会、超豪華弁当作っちゃるから、頑張れよ』と、母は親指を立てて笑っていました。とても優しい人でした。今も面会に行くと『彼女はできたの?』『コロナ気をつけなさい』と気遣(きづか)ってくれます。

結局、そんなことを言ってくれる人は母の他にはいません。 養護施設の生活で、姉二人も妹もひどい目に遭(あ)わされていたのを薄々感じていましたが、父や母には皆楽しく暮らしていると手紙を送ったり、きょうだいで近況を報告しあって耐えていました。今ではそれぞれが別の人生を歩んでいますが、仲が悪いわけではありません」

6月に自殺した長女は家族の誰にも告げずに改名までしていた。彼女が普通の人として生きるためには、林家の人間だということを隠さなければならなかった。

「母の死刑確定が姉には相当ショックな出来事だったと思います。自分たちが『お母さんはやっていない』と言ったところで世間はそう思ってくれないというのが決定的になったというか。裁判所も私たちの証言を採用してくれず、嘘つき扱いしました。でも、親と縁を切らないと、普通の人生を歩めない。姉は、母を救いたい気持ちと母から離れたい気持ちの間でもがき苦しんでいたんだと思います」

コウジさんは23年もの間、人目を気にして生きてきた現在の心境をこう語る。

「僕は、もうこの人生を受け入れるしかないと思っています。道の真ん中を歩けるような人生じゃない。弁(わきま)えながら生きていかなきゃいけない。僕ら家族は、心が一回死んでしまったんだと思います。ただ、僕はこうして記者さんに向けて自分のことを話すと気が楽になる。自分の身分を隠すために嘘をついたりしなくて良いのは心が休まります。

知らない番号から電話が来たら死刑が執行されたかなとドキッとしたり、東京五輪が中止になったら国が目を逸(そ)らさせるために死刑が執行されるかもと怯(おび)えたりしました。23年経っても、こんな不安がずっと続いています。毎年夏になるとネットで話題になって人々は僕たち家族のことを思い出す。早く終わらせたいと思いますがまだまだ先は長いです」

他県へ移らず、社会人になってもつらい記憶が残る和歌山に住み続けるのは、父・健治さん(76)がいるからだと言う。

「介護のこともありますけど、僕、お父さんが大好きなんですよ。昭和の人間やし、アホですけど。出所後スーパーに行って、トマトが300円。『高いな』って棚に戻すんです。『おいおい、8億円も保険金詐欺した人間が、300円のトマトを戻すんか』と。

昔は金遣いが荒かった。金銭感覚がちゃんと元に戻っているんです。 僕は母の最期を見届けたい。親と縁を切ったら僕は自由に暮らせるかもしれない。でも縁を切る道は選びません。知らんぷりして結婚して家庭を持った時、母の死刑執行のニュース速報が流れたら、絶対に後悔すると思うんです」

母のいる大阪拘置所へ足繁く通うコウジさん。犯人なら死刑になっても仕方ないと思う一方、今も変わらず母を信じ続けている。今年5月に受理された2度目の再審請求、姉の自殺、多くの傷と一筋の希望を抱え、彼の人生は進んでいく。

落書きされた自宅の塀。ここに家族6人、時に居候含め7人で暮らしていた。火事で焼失し現在は更地に
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コウジさんの父である健治氏。出所後、’09年に脳出血で半身不随に。現在は生活保護を受け暮らしている
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三女を抱きかかえ外出する林死刑囚。コウジさんらは、登下校の際も多くの記者に囲まれ苦労したという
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『FRIDAY』2021年9月3日号より

  • 撮影加藤 慶、朝井 豊

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