飢えから這い上がったボクサー・パッキャオが見せた夢と栄光 | FRIDAYデジタル

飢えから這い上がったボクサー・パッキャオが見せた夢と栄光

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©Ryan Hafey/Premier Boxing Champions

パックマンことマニー・パッキャオ(42)がWBAウエルター級王座に挑み、0-3の判定でヨルデニス・ウガス(35)に敗れた翌日、フィリピンのボクシングジャーナリストであるテディ・レイノソから私のもとにメールが届いた。

「パッキャオがリングを去る日が訪れたね。彼は引退すべきだ。20年に亘ってベストファイターだったが、スキル、スピード、反射神経と、多くのものを失ってしまった。まだ、ウエルター級のファイターとして、そこそこの相手には勝てるだろう。でも、加齢による衰えを見せている。

個人的には、計量をパスした後、多くの選手が2階級ほどアップした状態でマニーと戦うことについてアンフェア―だと感じていた。今回の対戦相手であったヨルデニス・ウガスも然りだ。ウガスはミドル級といっていい体だった。

(©Scott Kirkland/FOX Sports)

不利な状況に置かれても、勝ち上がってきたのがマニー・パッキャオだ。2008年12月6日のオスカー・デラホーヤ戦を覚えているかい? その前の試合でライト級だったパッキャオをウエルター級に増量させてリングに上げた。しかも、デラホーヤはミドル級で世界タイトルを獲った経験があった。そんな恥ずべき試合を行っておきながら、デラホーヤは何もできなかった。パッキャオは、どんな扱い方をされても、勝利を重ねて8階級制覇を成し遂げた男さ」

レイノソは、そう記していた。

確かに、アジア人であるパッキャオがマッチメイクで優遇されたことはない。彼が米国で初めて世界のベルトを巻いたのは2001年6月23日。IBFスーパーバンタム級タイトルだった。試合の2週間前、予定されていた挑戦者がケガでリングに上がれなくなり、代役としてお鉢が回ってきた。ファイトマネー4万ドルの世界タイトルマッチで、パックマンは6ラウンドにチャンピオンを3度キャンバスに沈め、自身の存在をアピールした。

この日のメインイベンターは、レイノソが引き合いに出したオスカー・デラホーヤだった。デラホーヤはバルセロナ五輪の金メダリストとして鳴り物入りでプロに転向し、6階級を制したスターだが、大プロモーターであるボブ・アラムの庇護の下、巧みなマッチメイクで記録を樹立した部分も否めない。キャリア初期の頃に対戦したビッグネームは、ピークを過ぎた元チャンピオンが多く、ハードな試合の後には必ずイージーな敵との試合が組まれた。

2001年6月23日のデラホーヤは、ウエルター級の世界戦で2敗し、下のクラスで人気を得ていた元世界王者をKOして再起したばかりだった。そして、ボクシング界では無名に近いチャンピオンに挑み、5階級目のベルトを奪取した。

パッキャオもアメリカ進出を果たしてから伝説のチャンピオンとなるまで、ボブ・アラムとプロモート契約を結んでいた。だが、フィリピンの実力者に楽な相手が選ばれることはなかった。激しい乱打戦で自らもダメージを負いながら勝利すると、同じ強豪とのリターンマッチが組まれた。パックマンには、デラホーヤのようなチューンナップ試合が無かった。

パッキャオにとってデラホーヤは、身長、リーチで10センチ以上も上回る、本来闘う筈のなかった重いクラスの選手である。1500万ドルのファイトマネーが保証されたとはいえ、そんな相手とのオファーでもパッキャオは快く承諾した。そして、完膚なきまでに叩きのめし、引導を渡したのである。

常に最強の敵と闘い、彼らをTVゲームのパックマンのように飲み込むことで時代を築いたのがマニー・パッキャオである。

2015年5月2日に催されたフロイド・メイウェザー・ジュニア戦は、ボクシングファンのみならず、日本社会から大きな注目を集めた。同ファイトでフィリピンの英雄は、1億6000万ドルを稼いだとされるが、メイウェザーとパックマンの体躯も同じ階級とは思えなかった。

パッキャオがボクシングの本場、アメリカ合衆国に乗り込んでから、トレーナーとして寄り添ってきたフレディ・ローチは語る。

「私は40名以上の世界チャンピオンを指導しましたが、マニー・パッキャオほどのファイターには出会っていません。誰一人、比較にならないですね」

ローチの言う40名の王者の中には、マイク・タイソンやオスカー・デラホーヤが含まれる。8月21日の試合前、ローチはパックマンの勝利を確信していた。

「マニーのトレーニングに対する考え方は、20年前と変わりません。今回のトレーニングキャンプでは、信じられないほど密なメニューをこなしました。スパーリングパートナーを倒し、モチベーションの高さを見せています。必ずKOでするでしょう」

パッキャオは日々30ラウンドのジムワークで42歳の体を追い込んだ。ローチは、天賦の才にも恵まれたが、その闘志こそが他の選手との違いを生んだと見ている。

「2006年だったかな。マニーが育った場所、フィリピンのジェネラルサントスに招待されたことがあります。非常に危険な地でしたね。マニーは24時間、30人くらいのボディガードに守られていました。幼き日の彼は、野良犬を食べていた時期もあったと聞きました。

『あんな暮らしには2度と戻りたくない』という危機感が、激しい練習に向かわせ、リングでも決して折れないハートを造ったのでしょう」

今回のパッキャオは、試合12日前に急遽、対戦相手の変更を告げられた。本来、拳を交える筈だった選手の左目網膜剥離が判明し、セミファイナルに出場予定だったWBA王者と対峙したのだ。

ケガで流れた相手はサウスポー、グローブを交えたウガスはオーソドックス(右利き)だった。

© Ryan Hafey/Premier Boxing Champions

あるいは対戦相手が代わったことで、誤算が生じたのかもしれない。とはいえ、目の前の敵をバタバタとなぎ倒してきた恐るべきスピードの踏み込みも、速過ぎて見えない連打も消え失せていた。

それ以上に衰えを伝えたのはディフェンスである。

©Ryan Hafey/Premier Boxing Champions

パッキャオは数々の敵を沈めてきた左ストレートを再三放ったが、ことごとく躱され、そこにウガスの右を喰った。何度も同じパンチをもらっては、ポイントを失った。ウガス陣営が綿密に作戦を立て、周到に準備していた右だった。

「マニーはウガスを捕らえられなかった……」

これが、敗戦後のローチの弁だ。

パッキャオ本人も「足が重く、動かなかった」と振り返っている。また「将来、リングで私の姿を見ることは無いかもしれないね。今後のことはまだ分からない。まずは休んで、現役を続けるかどうか決める」と話した。

©Ryan Hafey/Premier Boxing Champions

パッキャオは、大統領選への出馬が噂される上院議員でもある。試合後に語った「私はリングの中でも外でもファイターだ。フィリピンに戻り、パンデミック下で苦しむ国民を救いたい」という言葉は、決意表明とも受け取れた。

8月21日の試合会場となった、ラスベガス、T-Mobileアリーナは1万7438人の観衆で埋まった。入場者数だけなら、パッキャオが1試合で最も高額の収入を得たフロイド・メイウェザー・ジュニア戦の1万6219人を上回った。コロナ渦において、これだけのファンを集めることができるのは、パックマンだからである。

アリーナ内は56箇所に区切られていたが、各ゲートにセキュリティーを配置し、会場の扉が開いた瞬間から徹底してファンにマスクの着用を促した。少しでも顔からズレている客を見付けると、「マスクを下げないでください」というプラカードを翳して注意した。

セキュリティーの働きぶりには、エンターテインメントが無くてはビジネスにならない地で、どうしてもイベントを成功させる、という気概を感じた。それもその筈、同アリーナでは今後、ロデオの国際大会や、NHLの公式戦を控えているため、完全管理こそが最優先事項なのだ。

飢えから這い上がり、アジア人ながらボクシング界の巨星として君臨したスーパースターがリングを去ろうとしている。その足跡は、あのモハメド・アリの輝きと比べても遜色ないほどに鮮やかだった。

試合後の記者会見でパッキャオが最後に発した「世界中の皆さんに言う。このパンデミック禍において、人類は助け合い、愛し合うことが大事だ。プレス、メディア、ファン、プロモーター…全ての方々に対して、そしてボクシングに心からお礼を申し上げる」という言葉が、アリーナに木霊した。

一つの時代が終わりを告げた。

©Ryan Hafey/Premier Boxing Champions
  • 取材・文林壮一

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