代表歴19年のブラインドサッカーエース黒田智成が語った決意
明日29日、悲願のパラリンピックの舞台に立つ42歳に単独インタビュー
「私はパラリンピックが開催されるっていうことを信じて、メダルを取るという目標を実現するために出来る限りの準備をしてきました。ブラインドサッカーの代表であると同時に、日本選手団の一員でもありますので『パラリンピックが開催されてよかった』と多くの人たちに思っていただけるようにならなければいけない。
日本が結果を残すことによって、大会の成功に貢献できると思いますので、そういう意味でも結果にこだわってメダルをとれるよう、今までやってきたことは全てをかけて挑みたいです」
2004年のアテネ大会からはじまった全盲の人がプレーするブラインドサッカー。5大会目にして初めてパラリンピックの舞台に立つ、日本代表の黒田智成も胸の高ぶりを抑えるように、冷静に言葉を選んだ。
42歳の黒田は、生後3カ月で網膜芽細胞腫を患い、左目を摘出。小学校1年生で右目にも腫瘍が見つかり全盲となった。保育園児のときに食い入るように見た「キャプテン翼」が忘れられず、筑波大大学院進学後にブラインドサッカーをはじめた。
2002年、ブラインドサッカーが日本に導入され、同年5月にはじめて日本代表が結成されて韓国に遠征した当時は24歳。その頃から日本代表だった黒田智成にとって、19年間目指し続けた檜舞台だった。
「何もないところからスタートしたときから競技に触れさせてもらってる私としては当時から一緒にやってきた他の選手やスタッフ、サポートしてくださった人たちの努力、関わってくださった人の思いなども知っているので、全ての人たちの思いを、この大会で形として結実させたいんです。そういう方の中にはすでに亡くなられた方もいらっしゃいますので…」
天に召された方は1人や2人ではない。2019年10月、黒田がタイで開かれたアジア選手権中、電車の事故で亡くなった石井宏幸さん(享年47)もその一人だ。黒田が石井さんと一緒に行った2002年の韓国遠征は、必要経費は自分たちでお金を貯めて賄った。試合で必ず設置されるサイドフェンスも当時はなく、代表合宿などで練習するときは、本来、サイドフェンスがある位置にボランティアの人などが一列に並び、「人壁」を作った。ドリブルなどで選手が近づくと、人壁が「壁、壁」と声を出すことで選手に知らせたのだ。お金も道具もない草創期に、競技普及や協会発足にも尽力した石井さんのような、熱い気持ちを持っていた人の思いも背負い、黒田はピッチに立つ。
2004年のアテネ五輪から正式種目になったが、過去4大会のうち、3大会目となった2012年のロンドンパラリンピックの予選が行われた2011年、競技人生の転機に立たされた。予選直前のリーグ戦で右ひざ前十字靭帯を負傷。当時33歳。「もうそろそろいいかな、厳しいかな」と引退も頭をよぎった。負傷後、全くボールを蹴らなかったが、2週間ぐらいたつと歩きながら相手のかわし方、フェイントをどうすればいいか、ということを無意識に考えている自分に気づいた。
チームドクターから「(サッカーを)続けるなら手術しないといけない」と言われて手術に踏み切り、見事に再起した。ロンドン大会を終えた1年後の2013年、東京五輪パラリンピックの開催が決定。「東京を目指そう」。今日まで戦い続けるモチベーションになった。

黒田はピッチを離れると、八王子盲学校で中学生に社会科を教える教師だ。視覚障がい者は晴眼者に比べ、どうしても入ってくる情報の絶対量は少ない。そのハンデを補うために、視覚障がい者には自分で情報を取りに行く習慣を身につけてほしいと考え、黒田先生は授業の最初に生徒を指名し、気になったニュースを発表してもらう「ニュース紹介」を続けている。
「ある生徒はオリンピック&パラリンピックの開催について反対する意見がたくさん出ていることについて話してくれたことがありました。その生徒は、『感染が広がる可能性があることを考えると開催しない方がいいと思うけれど、オリンピックパラリンピックを目指して努力している人たちからすると、やってほしいという気持ちもあるので、感染対策をしっかりした上でどのようにしたら本当に開催できるかを相談して考えていった方がいいんじゃないか』と話しました。
生徒たちは私がパラリンピックを目指していることを知っていますので、報道されている『やるべきではない』という意見、一方で私のようにオリパラを目指す立場の人の気持ちを両方知っています。私がパラリンピックを目指していたからこそ、生徒にはすごく大事なことに気づいてもらえたんじゃないかと思っています。
どちらが正しい、どちらが間違いということではなく、立場が違うだけで、両方とも正しい意見です。だからこそ、コロナ禍で立場の違いによって様々な思惑が渦巻く中、『どうすれば実現できるかを模索していく、というところが一番大事なんじゃないか』ということに生徒自ら気づいてくれたことがすごく嬉しかったんです」
パラリンピアンは、競技を問わず、病気や事故などで負った肉体的なハンデによって、多少なりとも生活で制限を受けてきたかもしれないが、制限を受けていない部分の感覚や可能性を広げる努力を続け、一般の人から見たら「難しい」と思えることを実現してきた人の集まりだ。
5大会目にして初めてパラリンピックの舞台に立つ黒田は8月29日から、過去4大会すべてで金メダルのブラジル、実力でブラジルに肉薄する中国と予選リーグで対戦するが、「メダルをとりたい」とむしろ自分たちの可能性を信じている。
大会後、教え子から「先生が出場したブラインドサッカー日本代表が、金メダルをとりました」とニュース紹介で取り上げてもらえれば、これほど教師冥利に尽きることはないだろう。