新横綱・照ノ富士 父親の会社倒産で奮起「知られざる苦悩時代」
「横綱としての初めての場所。自分の姿をしっかり見てもらいたい」
9月12日に初日を迎えた大相撲秋場所。7月に横綱に昇進し、8月には日本国籍を取得した照ノ富士(29)は、周囲にこう語り気を引きしめていた。
所属する宮城野部屋で新型コロナウイルスが感染拡大し、先場所で全勝優勝した白鵬は休場。照ノ富士は、いきなり「一人横綱」として秋場所に臨んでいる。気合が入るのも当然だろう。
「照ノ富士は以前、場所入りする時の送迎車ナンバーは『72』を希望していました。72代横綱になることを目指していたからです。しかし、稀勢の里に先を越されてしまった。以後、送迎車ナンバーは『73』に変えています。今場所は目的を達成し、晴れがましい気持ちで場所入りできるでしょう」(相撲協会関係者)
第73代横綱・照ノ富士。たび重なるケガや病気のため大関から序二段まで降格し、引退危機の地獄を見たのは有名な話だ。どん底からトップにのぼりつめた男の、知られざる苦難の若手時代を紹介したい。
17歳まで運動経験ナシ
「照ノ富士は、17歳になるまで特別な運動経験はなかったそうです。両親にも、スポーツ歴はナシ。小学生のころから相撲に取り組んでいる力士が多いなかで、異例の経歴でしょう。当時から身体の大きかった照ノ富士を見いだしたのは、白鵬の父親であるジグジドゥ・ムンフバトさんです。ムンフバトさんは、レスリングのメキシコ五輪銀メダリストでモンゴルの英雄。照ノ富士は、ムンフバトさんのアドバイスで、格闘技を始めました。
転機となったのは07年。母親と一緒に日本を旅行した際に、偶然、相撲部屋で稽古を見学したんです。大きな男同士が裸で頭からぶつかり合う迫力に感動し、照ノ富士はスグ相撲ファンに。09年に再来日すると、鳥取城北高に入学しました。ただ当初は、パワーはあっても技術がなかった。他の部員の相手にならなかったんです。まったく歯が立たず、毎日のように悔し涙を流していたといわれます」(スポーツ紙担当記者)
厳しい稽古に耐え、1年後には鳥取城北高のレギュラーになった照ノ富士。卒業を前にして、間垣部屋へ入門する。だが、突然の苦境に立たされる。
「入門翌年のことです。父親が勤めていたモンゴルの採掘会社が、倒産してしまったんですよ。その後、父親自身が会社をおこしたものの失敗。車や住んでいたマンションを、売り払う事態に追い込まれました。3人兄弟で唯一の男性だった照ノ富士は、『自分が家計を支えなければ家族は路頭に迷ってしまう』と奮起します。以後はより稽古に身を入れ、定期的に実家へ仕送りをしているとか。序二段に降格した時も、月に20万円近く送金していたそうです。
若い衆にも気前は良いですよ。ポケットマネーで、よく食事をご馳走しています。買い物をお願いしても、多めのカネを渡しお釣りは受け取りません。本人は『番付が上がってもカネが貯まらないよ』と笑っています」(同前)
土俵上での厳しい攻めと違い、普段はおおらかだという照ノ富士。若手力士から人気が高いというのも、うなずける。彼なら相撲界にまた新たなファンを連れてきてくれるかもしれない。
写真:共同通信社