同い年の紀子妃と小室さん母…2人の生き方が眞子さまに与えたもの | FRIDAYデジタル

同い年の紀子妃と小室さん母…2人の生き方が眞子さまに与えたもの

なに不自由なく育ったプリンセスが求めた「最低限の自由」を守りたい

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「即位の礼」儀式に参列の秋篠宮ご夫妻、眞子さま、佳子さま。若い日の初恋を実らせた母・紀子さまの生き方は、2人の娘たちにどう映っているのか 写真:共同通信
「即位の礼」儀式に参列の秋篠宮ご夫妻、眞子さま、佳子さま。若い日の初恋を実らせた母・紀子さまの生き方は、2人の娘たちにどう映っているのか 写真:共同通信

秋篠宮眞子内親王と小室圭さんが年内に結婚、という話が飛び交ってからほぼ10日。ともに29歳。婚約内定から4年、ついに結婚かと思われたが、もともと宮内省が発表したわけでもなく、世間をにぎわせただけで真実は不明のままだ。

この間、相変わらず世間は「結婚させていいわけがない」「そもそも親が……」と両家への大バッシングに終始している。眞子内親王が儀式も一時金もいらないと表明しているという話もあるのだが、それでも一億総小姑状態の今、「国民の祝福」は得られそうにない。

「大恋愛を貫いた情熱のプリンセス」伝説に

実際に会うこともかなわず、それでも4年間耐え忍んでついに結婚となれば、おそらく50年後には「大恋愛を貫き通したプリンセス」として歴史に残る。20代での遠距離恋愛4年でお互いの思いが消えなかったのはすごいことではないだろうか。彼女が小室氏に固執せざるを得ない事情も多々あるとは思うが、少なくとも去年の11月に発表された決意表明には目を見張るものがあった。

「私たちにとっては、お互いこそが幸せな時も不幸せな時も寄り添い合えるかけがえのない存在であり、結婚は、私たちにとって自分たちの心を大切に守りながら生きていくために必要な選択です」

これだけの名文を書ける20代女性がいるだろうか。尽きることのない情熱が冷静な文章からほとばしっている。

個人的には、どういう立場であれ大事なのは「その人の心情」であり、人はおしなべて自由であるべきだと思う。首相が責務を放り出して辞めても許されるこの国で、なぜ内親王の結婚がこれほど世間からバッシングを浴びるのか今ひとつ理解できない。マスクひとつに260億円もかけるこの国で、なぜ内親王への1億数千万円がそれほど非難されるのかもわからない。

眞子内親王を「皇室の一員とはいえ一個人」とみるか、「一個人であるとはいえ皇室の人間」と見るかで感想は異なるのではないだろうか。皇室への思いの重さにも個人差があるだろうが、皇室組織そのものが、現代にも脈々と続き、多くの人たちに生きづらさをもたらしている家父長制度の象徴、名残とみることもできる。

中途半端な自由

人は誰も生まれる場所や親、環境を選ぶことはできない。眞子内親王だって生まれたくて皇室に生まれたわけではない。育っていく中で、他者と自分の立場の違いを自然と理解していくのかもしれないが、現代においては情報を遮断することは不可能だし、皇室の人間であっても大学を選ぶ自由くらいはある。だがその中途半端な自由が、さらなる自由を渇望する原因となっても不思議はない。

好きな男性ができて一緒に電車に乗ったとする。恋心でいっぱいになって楽しく会話を弾ませているのに、ふと見ると少し離れたところから警備の人間の目が光っているのがわかる。自分は常に見張られる立場にあるのだと我に返る。そんな“不自由な”日常を送っているのが皇室の「中の人たち」なのではないだろうか。

「税金で暮らしているくせに」とクレームをつける人もいるが、彼ら個人がそれを望んだわけでもない。システムの問題である。アバウトな言い方ではあるが、税金で暮らしている立場の人は他にいくらでもいる。そして、皇室の人以外には、「最低限の自由」は保証されているはずだ。

どこか人を食ったような小室圭さん

何不自由なく育ったプリンセスは、もっとも不自由な生活を強いられていると感じていたかもしれない。

彼女が小室氏に魅力を感じたのは彼女の内心の自由である。小室氏自身が犯罪をおかしたわけでも、母親が起訴されたわけでもない。今年4月、小室氏は母親にかけられたさまざまな疑惑を払拭すべく、28ページにわたる文書を発表した。少なくとも本人は真摯に書いたつもりだったのであろうが、内容以前にそのページ数の多さに人は面食らった。

借金ではないと言いながら、その数日後に支払う用意はあると追加発表するなど、用意周到に見えて実は一貫性がなかったことが不評を買った。トータルで彼の人生を見ると、どこか人を食ったような感が否めないのだが、20代の若者だから大目に見ようという風潮は皆無だった。

この文書で、世間の「納得いかない」雰囲気が少しでも緩和されるのではないかと、眞子内親王は踏んでいたのではないだろうか。自分たちが真摯に説明すればきっとわかってもらえる、と。そこが世間知らずのプリンセスなのだろうが、世俗にまみれていない証でもあるだろう。そして彼女には、世間の非難を海外にいる恋人ではなく、一心に背負う覚悟はあったということだ。

こうなると、小室氏が海外のロースクールに行ったのは自らの意志ではなく、眞子内親王の意志だったのかもしれないと飛躍的憶測もしたくなってくる。

同い年の紀子さまと小室ママ、対極の人生に

眞子内親王は小室ママにも心を寄せていると巷間、伝えられている。彼女からみれば、自分の母と同い年でありながら、夫亡き後、女手ひとつで「愛する人」を育ててきた女性である。誕生日が2週間ちがい、まったく同じ時代に育った2人の女性。

民間から「籠の鳥」へ、望んで転身を果たした母·紀子親王妃と、世間で揉まれて生きてきた小室佳代さん。どちらがいいとか悪いとかではなく、眞子内親王にとっては初めて直接触れた「民間代表のような女性」が小室ママだったのではないだろうか。そこにある種の敬意を抱いたとしても不思議はない。小室母子には、彼女が今まで接したことのない「向上心」があったのかもしれない。世間ではそれを野心と言うのかもしれないが、眞子内親王から見れば、自分が持ってこなかった、あるいは持つ必要のなかった種類の「向上心」であったにちがいない。

それにしても、大変だなあ、眞子ちゃん。

生まれたときから報道でその姿を見てきた一般市民としては、それが本音である。ただ、彼女の静謐にして激しい情熱には、心打たれるものがある。プリンセスならではの一途な、ある意味で頑ななまでにまっすぐな恋なのだ。だからこそ20代を賭けた恋が実ればいいなと思う。結婚して一般人となった暁には、「離婚」という自由もあるのだから。

「駆け落ち婚」などと縁起でもない言葉が跋扈しているが、軽やかにバッシングを乗り越えての「道行き」を決め込んでしまえばいいのではないか。こうやってじわじわと既成事実的な報道がなされるということは、その方向に進んでいくのだろう。一個人の思いは重い。

江戸時代の昔から、「人の恋路を邪魔するやつは馬に蹴られて死んじまえ」という都々逸がある。野暮はいけない。人の恋路を邪魔するのは無粋なことなのである。

  • 取材・文亀山早苗

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