生後3ヵ月の愛児を浴槽に沈めて…母親を追い詰めた悲壮な現実 | FRIDAYデジタル

生後3ヵ月の愛児を浴槽に沈めて…母親を追い詰めた悲壮な現実

ノンフィクション作家・石井光太が日本社会の深層に迫る!

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母親は「声」に追い込まれていった(写真はイメージです。画像:吉澤菜穂/アフロ)

その女性は妊娠中に、お腹の中の赤ちゃんを「マルちゃん」と呼んで溺愛していた。次は日記の一部である。

〈ヒロちゃん(夫)とラブラブがいっぱい増してる。二人ラブラブならきっとマルちゃん(胎児)も幸せいっぱい。

ヒロちゃんはとても積極的で沐浴の動画を確認したり、私の体を洗う真似をして練習、予習したりして、私より熱心。いつも私の体やマルちゃんのことを気にしてもらえて、幸せいっぱいだから、マルちゃんのことも安心。すごいです。夜、ギュッとしたくても、ちゃんと寝かせてあげようと思います、私。〉

だが、出産の3ヵ月後、彼女は生まれてきた子供を浴槽に沈めて殺害する。

なぜそんなことが起きたのか。

実は、虐待死事件の背景には、母親の精神的な問題が深くかかわっているケースも少なくない。その事例について見てみたい。

「自分の足音が迷惑に」

尾崎由奈子(仮名。以下登場人物はすべて仮名。事件当時38歳)が、夫の宏伸と結婚したのは09年のことだった。

由奈子は調理専門学校を卒業した、料理が趣味で家庭的な女性だった。一方、宏伸は食器販売会社の生真面目な営業マンで、親思いで知られていた。

二人が新居として選んだのが、夫の実家に近い世田谷区のマンションだった。子供はおらず、二人だけの静かな生活を楽しんでいた。

11年3月11日、東日本大震災が日本を襲った。これを機に、由奈子は心を病み、奇妙な言動が目立つようになる。

夫の宏伸は公判でこう語った。

「震災から1年が経った春から、由奈子は日常生活の中で出る音をやたらと気にするようになりました。自分の足音とか、コップを置く時の音とかが、同じマンションの住人に聞こえて迷惑をかけているんじゃないかって言うんです。あるいは、外からクラクションや子供の声が聞こえてくると、自分が怒られているのだと受け取って怯えていました」

ある日、宏伸が帰宅すると、由奈子が音に怯えて包丁を持って自殺しようとしていたことがあった。彼はようやく妻の病の深刻さに気づき、病院へ連れて行った。

医師は次のように言った。

「統合失調症かもしれません。音に関する妄想もその症状である可能性があります。場合によっては入院が必要になるかもしれません」

帰宅した後、由奈子は「病院は嫌。もう診てもらわなくていい」と言った。宏伸も病院で薬漬けにされてしまうかもしれないと思い、しばらく自宅で静養させることにした。

「それはよくない音だ」

しばらく静岡にある実家に帰したこともあって、由奈子の精神状態は多少落ち着いたように見えた。結婚してからずっと専業主婦として家事だけに専念していたことも悪かったのかもしれない。由奈子は週三回ほどパン屋でバイトをし、14年からはバイトを辞めて不妊治療を開始しながら妊活をスタートさせた。

16年1月、由奈子は念願の赤ちゃんを身ごもる。彼女が胎児を「マルちゃん」と呼んでかわいがったのは、冒頭に記した通りだ。別の日記には次のように記されている。

〈マルちゃんはとても元気に順調に育ってもらっています。お腹がポコポコ動いて、宏伸さんが「マルちゃん、パパですよ」とか、マルちゃんと遊ぶのをとても嬉しがっていて、「マルちゃん、どこですか」と言って、お腹をさすってもらって、ぽこっとなったところを撫で撫でして「いたー」と言って遊んでもらい、私にない心がけや遊びをしているのを見て、とても宏伸さんは子供思いで嬉しいです〉

彼女は確実に一人の母親になりつつあった。

しかし、出産の2ヵ月前から、由奈子に再び統合失調症の症状が出はじめる。前回と異なったのは、外の音に過敏になるだけでなく、幻聴が聞こえることだった。見ず知らずの他人が声をかけてくるのだ。たとえば、家の中でドアを閉めると、どこからともなく男性の声で「それはいい音だ」「それはよくない音だ」と聞こえてるという。やがてそれはドアの開け閉めだけでなく、料理や洗濯などあらゆる音にも広がっていった。

そんな中、由奈子は赤ん坊を出産する。女児だった。「マルちゃん」と呼ばれていた子は、七瀬と名付けられた。彼女は相変わらず幻覚に悩まされていたものの、赤ちゃんを抱けたことへの喜びを膨らませ、退院してからも日記にその思いを書き綴った。たとえば、次のように記されている。

〈天使みたいなお顔と手をしています。寝ている時もそう。ムギュッとしたくなっちゃいます 。朝が待ち遠しいという気持ち、七瀬ちゃんを見ていて思いました。忘れていた子供の頃のことを思い出して幸せです〉

生後2ヵ月になり、七瀬が少しずつ反応を示すようになった。それに対する由奈子の記述が次だ。

〈パパからのTELで超笑顔と笑い声が。ニコニコでお話ししたり、話そうと思って口をうごかしたりして、かわいくて、私も笑顔でした〉

〈窓が大きくて朝日がキラキラきれい。七瀬ちゃんがニコッとしておっぱいを飲もうとすると、とてもきれいな空間だと思います〉

由奈子は新米ママなりに大きな愛情をわが子に注いでいたのである。

「七瀬、七瀬」

だが、育児は親の思う通りには必ずしもいかない。由奈子は育児に困れば困るほど、激しい幻聴に悩まされるようになる。幻聴の声が、娘の存在を認識し、「七瀬、七瀬」と呼びかけてくるようになったのだ。

法廷での由奈子の言葉である。

「まったく知らない男性の声でした。私の知り合い以外で七瀬のことを知っている人はいませんから、絶対におかしいと思いました。もしかしたら、七瀬が誘拐されるんじゃないか。狙われているんじゃないか。 そんなふうに考えたら、怖くて怖くて仕方がなくなったんです」

年が明けると、男性の声は1時間に3回も4回も聞こえてくるようになった。さらに、これまでのように「七瀬」だけでなく、「尾崎七瀬、尾崎七瀬」とフルネームで呼んでくるようになった。

由奈子は日記にこう書いている。

〈外からも色んなところから名前を言っているのはおかしい。尾崎七瀬という名前をたくさん言って広めないで。あなたの名前は何といいますか。うちの子の名前は 尾崎七瀬ちゃんというのです。あまりたくさん言っているのが聞えてきたので、ここを通る人たちがうちの子の名前を言っているくらい言っているんですよ。うちの子の人生があるんですよ。やり方がよくない。音が気になるなら直接言ってください〉

彼女は声を幻聴と受け取らず、本当に誰かが言っていると理解していたようだ。もはや自分で自分の病状を客観的に捉えられなくなっていたのだろう。

1月11日、由奈子はついにパニックになってしまう。

朝からずっと「尾崎七瀬」と娘を呼ぶ声が聞こえていたため、由奈子は「もう(七瀬は)生きていけないんじゃないか」と考え、七瀬の首をひねって殺そうとした。

「尾崎七瀬、尾崎七瀬」

その直後、静岡の実家の母親から電話がかかってきたことで、殺害は未遂に終わる。由奈子は電話によって落ち着きを取り戻し、殺害を止めた。

翌12日、宏伸は様子のおかしい妻を心配し、近所の実家に由奈子と七瀬を連れて行った。仕事の間、母親に見守ってもらおうとしたのだ。

宏伸の母親は、由奈子を一目見て異変を察した。顔面が蒼白でまったく表情がなかったのだ。

部屋の隅にすわると、由奈子は七瀬をつぶさんばかりの力で抱きしめだした。母親は「そんなにしたら苦しいよ」と止めて、しばらく休むように言った。だが、由奈子は「もう帰る」と言ってマンションにもどって行ってしまった。不安だったが、まさか由奈子が七瀬を殺すとは思わず、その後はレトルト食品をマンションに持って行くなどしていた。

事件が起きたのは、その翌日のことだった。

その日の朝、夫の宏伸が仕事へ出かけた後、由奈子の耳には1時間に何度も男性が「尾崎七瀬、尾崎七瀬」と呼ぶ声が聞こえていた。彼女は聞いているうちに頭が混乱してきて、再び「うちの子は生きてちゃいけないんだ!」と考えだした。

やがて七瀬が目を覚まし、急に大きな声で泣きはじめた。お乳を欲したのかもしれない。だが、由奈子は「七瀬が泣いたことで、声の主が怒って娘を連れ去りにくる!」と考えた。そしておくるみを着た七瀬を抱きかかえ、寝室からバスルームへ走った。

浴槽には昨夜の残り湯があった。由奈子は「このまま泣かせていたらとんでもないことになる。水に沈めれば泣き声を出さずに死なせることができる」と思った。後の公判で、彼女はこの時の心境を「怖くて怖くて怖かった」と語ったが、何が怖いのかさえ分別がつかない精神状態にあった。

由奈子は七瀬を抱いたまま冷たくなった水につかった。そして胸に抱いた状態で七瀬を沈めた。七瀬の口から出る泡がポコポコと音を立てて上がってくる。由奈子は「ちゃんと沈めてることができてる」と思いながら同じ姿勢を保ちつづけた。

「娘を……殺しました」

10分ぐらいが経ってから、由奈子はゆっくりと立ち上がり、七瀬が息をしているかどうか確かめた。眼と口がひらいて、呼吸が止まっていた。

――また息を吹き返したら大変。

彼女はそう考え、もう一度10分間、七瀬を抱いたまま浴槽の水に沈めた。もう泡が上ってくることはなかった。

由奈子は語る。

「お風呂に沈めたのは……七瀬に泣かれるから。嫌でした……。それが『自分にできる方法』だって思ってました。でも、お風呂は、冷たかったからかわいそうって思いました……。抱っこしてたのは、冷たいと七瀬ちゃんがかわいそうだからです。それで一緒にお風呂に入りました」

由奈子はびしょ濡れのまま浴槽から出ると、警察に自分から通報した。だが、自分がやったことをうまく説明することができず、電話に出た警察官からこう言われた。

「ちゃんと整理してからかけ直してください」

三度目の電話で、ようやく由奈子はこう言えた。

「娘を……殺しました」

警察官がかけつけたのは、10時30分だった。七瀬は、バスルームの浴槽の中で毛布につつまれたまま沈んでいた。

事件から9ヵ月後、東京地裁で公判が開かれた。証人として出廷した精神科医は次のように述べた。

「被告には、成育歴、対人関係、運動神経などには何も問題はありませんでした。ただ、生まれ持っての性格としては統合失調症の症状に近いものがありました。東日本大震災の体験が、彼女の症状を悪化させた可能性があります。

本来はきちんと治療をしなければならなかったのを放置していたため、妊娠や出産後に症状が現れて一気にひどくなっていったものと思われます。統合失調症には、知覚をもとにした意味づけがおかしくなる『妄想』と、外から声が聞こえるという『幻聴』の症状がありますが、被告の場合はこれが一緒になって起きたことでどんどん悪化していったのでしょう」

近くにいた夫が、ことの重大さに気がつかなかったのが悔やまれる。だが、精神疾患の場合、家族が実際以上に軽く受け止めてしまうことはしばしば起こる。深刻なものだと信じたくなかったり、病人扱いして関係を悪くしたくないという気持ちがあるのだ。

裁判所が下した判決は次の通りだ。

――懲役3年、執行猶予5年。

世田谷区のマンションで、宏伸と由奈子は再び夫婦二人だけの生活をスタートさせた。

  • 取材・文石井光太

    77年、東京都生まれ。ノンフィクション作家。日本大学芸術学部卒業。国内外の文化、歴史、医療などをテーマに取材、執筆活動を行っている。著書に『「鬼畜」の家ーーわが子を殺す親たち』『43回の殺意 川崎中1男子生徒殺害事件の深層』『レンタルチャイルド』『近親殺人』『格差と分断の社会地図』などがある。

  • 写真吉澤菜穂/アフロ

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