松坂大輔「怪物伝説」が始まった、98年のあの一戦の記憶 | FRIDAYデジタル

松坂大輔「怪物伝説」が始まった、98年のあの一戦の記憶

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延長十七回裏PL学園、最後の打者を打ち取り、マウンド上で思わず目を閉じる横浜の松坂(時事フォト)

横浜高校は、松坂大輔がエースとなった1997年秋から翌年にかけて、公式戦44連勝という破天荒な記録を打ちたてた。そのうち明治神宮大会、選抜高校野球大会、全国高校野球選手権大会、そしてかながわ国体と、前人未踏の4冠制覇も遂げている。

松坂は、37試合に登板して32勝。センバツで150キロに到達し、5試合中3試合を完封した時点ですでに”平成の怪物”と呼ばれていたが、そのモンスターぶりをさらに高めたのが夏の優勝だった。

8月のある日。第80回全国高校野球選手権の準決勝、明徳義塾(高知)と横浜(東神奈川)の一戦をNHKが『スポーツ名場面』で放送すると、「こんなに面白い試合があったのか!」とネット上がちょっとした騒ぎになった。

0対6と敗色濃厚の横浜が、8、9回の2イニングだけでひっくり返した試合。甲子園を取材して35年以上がたつ当方には、近年の話に思えるが、なにぶん23年前である。30代以上には記憶にあっても、20代以下の高校野球好きには伝説の世界だろう。

その前日、1998年8月20日。第80回全国高校野球選手権大会 準々決勝。

横  浜 9=000 220 010 010 000 12
PL学園 7=030 100 100 010 000 10

という名勝負があったからこそ、翌日の横浜大逆転というミラクルが、いっそうオモムキを増す。もし、高校野球史上の名勝負というアンケートをとったら、確実に上位にくるこの延長17回を、松坂本人に振り返ってもらったことがある。

両者はセンバツでも準決勝で対戦し、そのときは2対0とリードされた横浜が終盤、PLを3対2でうっちゃっている。以後PLは”打倒横浜””打倒松坂”を合言葉に夏の南大阪を勝ち上がり、甲子園でもベスト8まで進出してきた。

「PLのキャプテンの平石(洋介・元楽天)が、大会中に小山(良男、横浜主将・元中日)に電話してきたらしいですよ。”ウチと当たるまで負けるなよ“って。僕も、PLとは絶対に対戦があるだろうな、とは思っていました。でもみんな、どうせやるなら決勝で、と話していたんです。なのに小山が、準々決勝でPLとのクジを引いたものだから、”オマエ、まだ早いよ“と冗談でこぼした。そうしたらアイツ、真剣に怒ってました、オレのせいじゃねえよ、知らねえよって(笑)」

たしか、西武入りして5年目だったが、記憶は驚くほど鮮明だった。

書きたいことは山ほどある。前夜なかなか寝つけなかった松坂が、宿舎から甲子園に移動するバスの中で熟睡して「目が覚めていなかった(笑)」せいか、立ち上がりが最悪だったこと。PLの三塁コーチャー・平石が、捕手・小山の構えから球種を読んで打者に声で伝え、それがPL序盤の得点につながったこと(ただし平石は後年、「確信はなかった。だけど相手バッテリーを疑心暗鬼にさせるだけでも効果はある」と語っている。ちなみに高校野球では翌年春から、走者やコーチによるサインの伝達行為が禁じられた)。

ただ、それらに事細かくふれていくと紙数が尽きる。ここからは、PLがリードするたびに横浜が追いつき、延長にもつれてからの第2幕を進めよう。

試合が動いたのは11回だ。直前の10回裏。PLの攻撃で、7回から登板していた上重聡は、打席で松坂のカーブを左手に受けていた。結果は三振。マウンドに上がっても、痛みでボールがろくに捕れない。利き腕ではなくても、投球のバランスは微妙に崩れる。事実、先頭打者・松坂への2球目は、大暴投だった。

その松坂が、幸運なイレギュラー安打で出ると、バントで二進し柴武志のヒットでホームイン。この試合、横浜が初めてリードを奪ったわけだ。ですが……と松坂。

「その裏、2死二塁で打席には大西(宏明・元ソフトバンクほか)です。そこまで、カーブを2本ヒットされているので、僕はまっすぐで……と考えたんですが、小山のサインは初球カーブ。なぜか、そのサインに首を振らなかったんですよ。ああ、ボールにすればいいんだな、というつもりで投げたらスーッとストライクゾーンに行って、結果レフト前のタイムリーです。考えまいとしても、どうしてもあと1死、と思ってしまった。春、自分たちに負けているPLからは、今度はどうしても勝ちたいというのが投げていてわかりましたね。

でも明らかに僕、延長に入ってからのほうが調子がよかった。延長15回に147キロでしょう、やっと目が覚めた(笑)。エンジンがかかるのに時間がかかりましたが、それが逆によかった。もし前半飛ばして後半に落ちていったら、もっと点を取られて、9回で終わっていたでしょう」

同点に追いつかれはしたが、たしかに松坂は覚醒した。回が進むほどスピードが増し、12回から15回までは打者12人をパーフェクトだ。その間、毎回のようにチャンスを迎えた横浜は16回、1死満塁からの内野ゴロでまたも勝ち越すが、PLの執念は尋常じゃない。

その裏、1死三塁からのショートゴロで、三走の田中一徳(元横浜)が本塁に突っ込む。一か八かのギャンブルだ。打者走者をアウトにした一塁手・後藤武敏(元横浜ほか)も、本塁へ送球。タイミングはアウトだったが、大きく高くそれる。田中一徳、生還。打者走者のヘッドスライディングでバランスを崩した、後藤のミスだった。延長の表に勝ち越したものの、勝ちが見えたところでふたたび、同点。

「やっぱり、ガックリきました。ふつうにホームに投げていれば、明らかにアウトですから。とにかくこの試合では、後藤が(渡辺元智)監督に怒られていたのが印象深いんです。

後藤はひどく腰が痛く、ずっと痛み止めをうっているのも知っていましたが、それにしてもこの試合は、ことごとくブレーキでね。打てず、バント失敗もあり、16回の守備では、監督に”オマエとは縁を切る!“とまでいわれてね。また、それを引きずるタイプなんです。でもこれはあとでわかったことですが、後藤は腰の骨が折れていたんですよ。ふつうでは考えられない悪送球だったのは、足腰が弱くなっていたんでしょう。

それでもなんとかチェンジになってベンチに戻ると、”ああ、18回引き分け再試合(当時・のち15回)かな“というのが頭をよぎりました。リードするたびに追いつかれ、オレはなにやってんだろ……と沈んでいると、常盤(良太)がポンと肩をたたくんです。”オレが絶対打ってくるから“と。これはホントなんですよ。それが、簡単にツーアウトになったあと、柴が相手のエラーで塁に出た。本来なら回るはずのない打順が、常盤に回ったことに、なにかが起きそうな巡り合わせみたいなものを感じたんです」

2死一塁。PLには、慎重にタイムをとる選択肢もあった。だが上重は、バックが必要以上に大げさに考えないよう、そのままプレーを続けることを選んだ。松坂は、三塁側ブルペンでその裏の投球に備えてキャッチボールをしている。PLベンチで河野有道監督が「初球だ、初球に気をつけろ」と叫んでいたその、常盤への初球だ。外角いっぱいのストレートに金属音が響いた。打球は、右中間方向に飛んでいく。風は、右から左の浜風。逆風である。松坂の目からは、打球が消えた。

「打った瞬間、ボールが見えなかったんですよ。客席の白いシャツに重なって見づらくて。でも球場がどっとわいて、あ、入ったんだ、と。1点だったらまだわかりませんが、2ランでしたから、これはとどめかな、と。それにしても、ほんとうに常盤がいったとおりになるとは……」

決定的な2点が入った17回裏、さすがのPLも反撃する余力は残っていなかった。70人目の打者・田中雅彦(元ヤクルトほか)は、外に逃げるスライダーを見逃し三振で三者凡退。松坂の250球目で、『ガッツポーズの余裕なし』とスコアブックの余白にメモがある。3時間37分の歴史的名勝負は、こうして幕を閉じた。

「最後の打者を打ち取ったとき、急に”ず〜ん“という脱力感が出てきたんです。投げている間はずっと気を張っていたんで、しんどい、ということもそれほどなかったんです。それが、やっと終わったというので、たちまち気が抜けたんでしょう。(PL学園の)上重は、延長引き分けじゃなく、決着がつくまでいつまでもやっていたいな、と思っていたようですが、僕は思っていないっす(笑)。正直、早く終わりたいな、と。

それにしても……3時間37分ですか。前日に負けた帝京(東東京)に、木村(勇夫)というシニア時代の仲間がいて、帰京する新幹線に乗るときにこの試合が始まり、木村が東京の家に帰ってテレビをつけてもまだ続いていたそうです(笑)。友人はけっこう、この試合のビデオを見たいというんですけど、僕はそんな長い間見たくない(笑)。

ただ、常盤の2ランは何回も見ています。とにかく自分の野球人生で、一番苦しかった試合。苦しい場面では、”まだ明日もある、明日も投げてやる“と言い聞かせて投げていました」

そして翌日……明徳義塾との準決勝は、この試合でことごとく足を引っ張った後藤が3安打3打点で大逆転のヒーローとなり、京都成章との決勝では松坂がノーヒット・ノーラン。横浜は、華麗なるミラクル3連発で春夏連覇を達成することになる。

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  • 楊順行

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