50年の歴史に幕…彦摩呂や有名監督が通った洋食屋「最後の瞬間」 | FRIDAYデジタル

50年の歴史に幕…彦摩呂や有名監督が通った洋食屋「最後の瞬間」

サッカー&ラグビー日本代表の「10番」も学生時代に通っていた

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9月、50年の歴史に幕を閉じたポんタDINING店前で。彦摩呂(中央)は無名時代から通ってきたという。右が店主の新井新井比三夫さん(写真提供:新井さん)

スポーツ界、芸能界に常連の多かった洋食屋が、50年の歴史に幕を閉じた。世田谷の八幡山駅近くにあった『ポんタDINING』。近隣に寮を構える明大の運動部員に愛され、サッカー日本代表のエースだった木村和司氏、ラグビー日本代表の指令塔、松尾雄治氏も学生時代に通った。タレント、グルメレポーターでブレイクした彦摩呂の御用達でもあった。店主の新井比三夫さんが、彼らの秘話を交えながら半世紀を振り返った。

こぢんまりとした店内のカウンターキッチンの手前には、明大の現役アメフト部員が寄せ書きをしたボールを飾っている。「最近、耳が遠くなって」と目じりを下げる新井さんは、自分にも聞こえるように声を張った。

「年も年だし、ちょうどこの建物の契約更新の時期だったし、あとはコロナとか、オリンピックとか、それとちょうど50年目という区切りとか…色々と辞めやすい要素が重なったから。やりきったよな…って」

記憶の糸を手繰る。話題のひとつは、彦摩呂さんのエピソードだ。近所に住んでいたことから常連になった後の人気タレントとの思い出を、新井さんは丁寧に紡ぐ。

「彼も、売れるまでは大変で。それでも『自分たちの(芝居の)ポスターを貼ってください!』なんて言って、一生懸命やっているから応援したかった。ちょうどお店の改装期間で別のところで働いていたら、そこへ当時すでにテレビに出るようになった彼が来て『(芸能界で)太く長く生きていきます!』って。それから何かあるたびにうちの『1/2セット』を取り上げてくれた」

人気メニューのオムライス(上)と1/2セット(下、写真提供:新井比三夫さん)

この「1/2セット」とは、「カレーとナポリタンの1/2セット」のことだ。一時は出すのをやめていたが、忙しくなった彦摩呂さんがタウン誌でこの「1/2セット」を紹介したことで復活させたという。税込みで「730円」だった。同じく人気のオムライスは「850円」で、いずれも学生でも払える価格設定になっていた。

できる限り、味も値段も変えたくない。そう工夫してきた新井さんがコックを目指し始めたのは、都内の高校を卒業してからだ。自分が好きなことのうち音楽は「趣味に取っておこう」と、もうひとつの趣味である料理の道に進んだ。

ホテル業やサービス業に関する専門学校を経て、フランス料理店に就職した。盛り付けに型のある日本料理では、左利きの自分は苦労しそうだと直感したようだ。カウンターキッチンの店を開いたのは、就職して3年目の1971年。23歳の若さだった。

同業者の親戚筋から店舗スペースを託された関係で、屋号はその親戚筋の店と同じ『ポんタDINING』にした。その場所が世田谷区の八幡山にあったことで、新井は学生スポーツという新しい生きがいと出会う。

この地は古くから明大体育会専用のグラウンドと寮があり、いまでは陸上競技部、ラグビー部、サッカー部、アメリカンフットボール部、ホッケー部、アーチェリー部が活動する。それぞれ寮で食事が出ない日もあり、安価でボリューミーな通称『ポんタ』の出番は多い。

最初に集まったのはアメリカンフットボール部員だった。開店当初は学生と年が近かった新井さんは、競技のルールを教わりながら食事を出していたもの。さらに親交が深まると、皿洗いのアルバイトをさせた。まかないをつけたら、志願する部員が増えた。

2011年、なでしこジャパンを率いてワールドカップを初制覇した佐々木則夫監督も明大OBだ(写真:共同通信)
1982年11月、日本代表としてアジア大会予選にのぞみ、韓国戦でドリブルで持ち込む木村和司氏(左)日本は韓国を破り準々決勝進出に貢献した(写真:共同通信)

地域に根付く新井さんは、やがて商店街の夏祭りで金魚すくいを担当し始めた。その際の業者の手配、出店は、ちょうど常連客を増やしていたサッカー部の仲間に頼んだ。

当時、「先輩に連れられて行き始めた」という部員のひとりに、サッカー日本代表で10番をつけた木村和司がいる。金魚すくいのバイトは「したことがない」というが、店でカツカレーを食べたこと記憶はおぼろげながらにあるという。

「7時くらいに起きて、そばのグラウンドで体操して、朝飯があって。そこから学校がある人は学校に行って…。わしはポんタで昼飯を食って、3時か、そのぐらいから練習だったかな」

その木村の同級生には、佐々木則夫がいた。2011年になでしこジャパンを率いて、ドイツでの女子サッカーワールドカップを制した名将だ。

新井さんによると、一躍、時の人となった佐々木は、依頼されたテレビ番組のロケで思い出の地として『ポんタ』を指定したことがあったという。同行する制作会社は、佐々木が木村と同級生だと知ると木村の事務所にも連絡。まもなく先方から返事が来たことで、その番組は佐々木と木村との対談企画になった。

木村自身はその時の会話内容を「覚えていない」というが、新井さんにとってはその瞬間がコック人生のハイライトだった。

「木村さんは佐々木さんを見て『立派な大監督になられて!』なんて話していましたね。ものやお金はなくなるけれど、心にある人と人との繋がりは素晴らしい財産。スポーツをする人には、そういうものを作っていただけたらなと。私は食事での応援しかできなかったですが、彼らが来る時はできるだけリラックスできるように心がけてお話をしていました」

ラグビー日本代表の10番を背負い、新日鉄釜石でも監督兼選手として新日鉄釜石を7連覇に導いた松尾雄治氏。1985年1月、V7達成後、胴上げされて宙に舞った(写真:共同通信)

こう懐かしむ新井さんの脳裏には、ラグビー部の豪傑たちの姿も浮かぶ。

「ミスター・ラグビー」こと松尾雄治が在籍した時代の部員は、明け方まで麻雀をしたその足で「夜食」を求めることも多かった。試合当日の昼は、ブレザー姿の控え部員が「とんかつ定食」でゲンを担いでいた。時を経て、22年ぶり13度目の大学日本一を達成した2018年度主将の福田健太、その前年度に19年ぶりのファイナリストとなった古川満も、よく通ってくれた。

陸上界で今年7月、男子1500メートル走で3分35秒42の日本新記録を樹立した河村一輝とはLINEでやりとりする間柄だった。

今年7月、男子1500メートル走で3分35秒42の日本新記録を樹立した河村は、大学卒業直前の箱根駅伝で10区を走り、順位を大きく落としていた。当時を知る身として感慨深くなった新井さんは、本人に「LINE」で祝辞を送った。

他にも多くの逸話を掘り返しては目を細め、最後にしみじみと言うのだった。

「夢を目指す人たちは、応援したい。体育会での過酷な練習を4年間、やり遂げることは本当に素晴らしい。僕なんかではできない! ただ僕は、50年かけて彼らの4年間に追いつけるかな…と、楽しく関わり合いをもってできた。すごく幸せでした」

73歳になった。いつもフライパンを握ってきた左手は右手よりも筋肉がつき、分厚く膨れ上がっている。腱鞘炎もわずらう手の甲は、「50年」かけて「彼らの4年間」に追いついた証だった。

いつもフライパンを握っていた左手の方が分厚くなった
  • 取材・文向風見也

    スポーツライター 1982年、富山県生まれ。成城大学文芸学部芸術学科卒。2006年よりスポーツライターとして活躍。主にラグビーについての取材を行なっている。著書に『サンウルブズの挑戦 スーパーラグビー 闘う狼たちの記録』(双葉社)がある

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