SHOW-YA寺田恵子が明かす「還暦間近で海外目指す覚悟」 | FRIDAYデジタル

SHOW-YA寺田恵子が明かす「還暦間近で海外目指す覚悟」

デビューから35年以上、 日本ガールズロックバンドのレジェンド 「アラ還」で世界進出に挑む!

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「当時の音楽業界では女性バンドは長続きしないって言われていたのに、私たちは今年でデビューから36年目に突入しました。自分自身でも『ちょっとすごいことやっているかな』と思っています」

女性ロックバンドの草分け的存在で、『限界LOVERS』や『私は嵐』などのヒット曲を飛ばしてきた「SHOW-YA」のボーカリスト・寺田恵子(58)は、今の心境をそう語る。35周年を迎えて今夏には最新アルバム『SHOWDOWN』を発表した。しかも全曲英語詞で作られており、11月12日には全世界でリリースされる予定だ。

愛称は「姐さん」。58歳とは思えないほどエネルギッシュである。今年7月には『マツコの知らない世界』(TBS系)に出演し、「ガールズバンドの世界」を熱く語り尽くして話題となった 撮影:小松寛之
愛称は「姐さん」。58歳とは思えないほどエネルギッシュである。今年7月には『マツコの知らない世界』(TBS系)に出演し、「ガールズバンドの世界」を熱く語り尽くして話題となった 撮影:小松寛之

だが、ここまでの道のりはけっして平坦なものではなかった。SHOW-YAが結成された’80年代初頭の日本では、ガールズバンドは異質な存在だった。

「当時は『ZELDA』と『赤坂小町』(『プリンセス プリンセス』の前身)くらいしかいませんでしたね。しかもSHOW-YAの場合、ハードロックだったので、音楽的にも世の中に馴染みのないものだった。だからプロダクションやレコード会社が拾ってくれなかったんです。メンバーは女性が5人ですから、それぞれに子供が生まれたりすると活動が長期間停滞してしまう可能性もありますしね。今の時代なら出産後、復帰するのは普通のことだけど、’80年代はそうじゃなかった。完全な男社会でしたからね」

’85年、バンドはなんとかメジャーデビューを果たす。しかし、その後の活動は低空飛行が続き、寺田とメンバーは悪戦苦闘の日々を過ごす。

「バンドのイメージを変えるためにメンバー全員で髪をバッサリ切ったり、バリカンを入れて刈り上げにすることもありました。私は10代の頃からプロのシンガーとして生きていきたいという決意があったので売れるためならなんでもしてやろうって勢いでした。でも、髪やファッションを変えても芽が出なかった。フロントに立っている私に魅力がないんじゃないか? と考えることもありました」

ありのままで勝負

そんな寺田が行き着いたのが、〝本来の自分の姿〟をさらけ出すことだった。

「悩んだ末にランジェリー風のファッションで歌うことにしました。ある日、お風呂に入ろうとして洋服を一枚ずつ脱いでいって、鏡に映った自分の下着姿を見て閃(ひらめ)いたんです。『これだ! 何も飾らなくていいじゃん』って。楽曲にしても歌詞の内容にしても、赤裸々に自分であり続けようと。それが『限界LOVERS』に繋がっていったんです」

同シングルは’89年にリリースされ、オリコンチャート13位を記録。続くアルバム「Outerlimits」はチャート3位に。一躍、人気バンドとなった。

同時期に『Diamonds』などのヒットを飛ばしていたプリンセス プリンセスとはライバル視されることも。

「実際は仲良しだったんですよ。フェスでプリプリとSHOW-YAが衣裳交換をしてお互いの曲をやったりもしましたし、プライベートでは飲みに行ったり、一緒にディズニーランドに行ったり(笑)。メンバー同士が互いの家に泊まりに行ったりもしていました」

男性バンドとの交流はあったのか?

「全然なかったですね。事務所が厳しかったんです。楽屋でバンドマンと話をしているとマネージャーが割り込んでくるんですよ(笑)。『限界LOVERS』で売れる前の話ですけど、LAでレコーディングしているとき、現地のスタッフといいムードになったんです。でも、案の定、マネージャーが邪魔しに来るわけ。後日、彼に言ったもんね。『人の恋路を邪魔すんなら、お前、責任取れるのか?』って。でも、まあ、邪魔されつつも恋はしていましたけどね。私、オトコを切らしたことがないんで(笑)」

人気バンドとなったSHOW-YAは多忙な日々を送っていた。メディアへの出演、ライブ、曲作りからレコーディングの日々で、寺田の平均睡眠時間は2~3時間だったという。

「夢の中でも作曲をしていた状態でしたね。実はこの時期、バンドは海外進出を目指していたんです。そうなると、私は英語も覚えなくちゃいけない。精神的にも肉体的にも追い詰められていました。ロック界の逸話に『有名なアーティストは27歳で死ぬ』というのがあるんです。ジャニス・ジョプリンやジミ・ヘンドリックス、カート・コバーン(『ニルヴァーナ』)がそうだった。そして、そのとき私は27歳だった。『こんな生活を続けたら本当に死んでしまうかもしれない』と思い、アルバム『HARD WAY』(’90年)のレコーディング中にメンバーに相談もせずに、バンドを辞める決意をしました。本当、勝手ですよね」

老いても歌い続ける

その後、’92年からソロ活動を続ける中で、SHOW-YAの大きさをあらためて感じた寺田は、メンバー一人ひとりに頭を下げ、’05年にバンドを再結成。そして、今回の海外進出に繋がっていく。

「今回、海外盤を作るという計画が持ち上がったとき、メンバーは当時のことが頭をよぎったと思うんです。『また恵子が辞めちゃうんじゃないの?』って。だから、腹を割って話し合いました。海外に行くなら覚悟を決めようって。あの頃の私は『助けて』という言葉を言えなかったけど、今だったら言える。やっと自分に素直になれたのかもしれない」

一方で、SHOW-YAは女性アーティストによるロックフェス『NAONのYAON』を主催。’87年からスタートし、通算15回も開催されている。

「女性バンドだけでイベントが成り立つくらい増えているんです。今は決めるのが大変なくらい。プリプリの功績も大きいんだけれど、女性だけのバンドでも売れるっていう前例を作ることはできたかなって。今年7月に『マツコの知らない世界』(TBS系)に出たとき、『Mary‘s Blood』『NEMOPHILA』に在籍するギタリスト・SAKIや『Gacharic Spin』などの後輩バンドを猛プッシュしました。今の子たちは自分たちがやっと手に入れた物を全部持っている。だからもっとブレイクすると思うし、みんなで応援してあげて欲しいと思いますね」

姉貴分として後輩たちを見守る寺田は、今年7月で58歳になった。還暦直前のアラ・シックスティである。失礼ながら、ロックをやり続けるには、体力に不安を感じることもあるに違いない。それでも歌い続ける理由は何なのだろうか?

「私の宿命だから。今は途中で命を落としても本望だと思っています。もし私の身体がボロボロだったら、お客さんにはボロボロの私を楽しんで欲しい。声がかすれていたら、かすれている私を楽しんで欲しい。老いてく私が頑張っているのを、みんなが楽しんでくれればそれでいい。それを見せるために私はSHOW-YAというバンドに出逢って、今もこうして活動を続けています」

これからも彼女たちはガールズロックバンドの先頭を走り続けることだろう。

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「FRIDAY」2021年11月5日号より

  • 取材・文尾谷幸憲撮影小松寛之

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