歌手・赤西礼保が明かす胸中「兄・赤西仁を超える存在を目指して」 | FRIDAYデジタル

歌手・赤西礼保が明かす胸中「兄・赤西仁を超える存在を目指して」

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「やっぱりグラミー賞は獲りたいですね」

開口一番そう答えたのは、歌手兼俳優の赤西礼保(33)。元「KAT‐TUN」赤西仁(37)の弟で、今年で芸能活動17年目を迎え、’16年からは歌手としても活動している。今回本誌に語ったのは、思春期の記憶、大きすぎる兄の存在にもがく日々、そしてそれを乗り越えて得た自らのアイデンティティについてだった。

あかにし・れお 1987年12月11日生まれ、千葉県出身。身長172センチ。’08年から俳優として舞台『三銃士』、ドラマ『八重の桜』などに出演。’16年から歌手活動を開始した。’22年にはミュージカルに主演予定。趣味はドライブ、サッカー。

「うちのオヤジが映画好きだったんです。空調設備の仕事をしていたせいか、特に男臭い映画が好きでしたね。小学生の頃は、トム・クルーズさん主演の『トップ・ガン』という映画をよくみんなで見ていました。俳優に憧れを持ったのも、そういった家族との時間があったからです。

兄貴は、その頃もうジャニーズに入っていたと思います。『ミュージックステーション』を観ていたら、KinKi Kidsさんのバックダンサーとしてガチガチに緊張した兄貴が出てきて、『ええっ!』って。びっくりしました」

兄の存在と葛藤した青春時代

忙しさから、多くの時間を共に過ごすことがなかった思春期。それにもかかわらず、自分に兄の存在がついてまわることに、高校生の礼保さんは違和感を覚えていた。高校に入学した際も、登校初日を終えて教室を出ると、廊下には30人ほどの生徒が「赤西仁の弟」をひと目見ようと押しかけていた。高校時代は友達も作らず、人見知りになっていたという。

親は『それぞれ好きなことやんなよ』って感じの人でしたし、兄は’98年に、僕も遅れて’02年に、それぞれの形で芸能界に飛び込んでいきました」

当時2歳の礼保さんと兄の仁さん。二人ともわんぱくで、サッカーが好きだったという

兄がジャニーズにはいって芸能界デビューしたのを目の当たりにしていたが、礼保さん自身は、別の形で芸能界入りを果たした。比較されることを無意識のうちに避けていたのか、兄の背中を見ているようで、実は全く別の芸能人生を歩んできた。

「17歳の時に、スティービー・ワンダーの通訳の女性の方を知人から紹介して頂いて、当時の事務所に預かりという形で在籍させて頂くことになりました。

デビュー当時はまだ何もわからない状態で、舞台のエキストラの練習で五反田のスタジオにいったら、他のエキストラさんが沢山いて、『さあ、練習しよう』となったんですが、僕1人だけ全然踊れなかった。とても悔しかったです。

20歳の時に事務所と相談して、『赤西』は本名だけど、『颯太』という芸名で活動していくことになりました。社長に呼ばれて、『レオ』か『颯太』かどっちにするか選べと言われて、『レオでいきます』と言ったら、いや『颯太でいけ』と。当時流行っていたレッサーパンダの名前が、僕の芸名になっちゃったんです(笑)」

苗字を隠して芸能界を生きていこうと決めたが、一筋縄ではいかず、ここでも「赤西仁の弟」であることが一種のかせとなってしまう。

「ある時、メディアで『赤西仁の弟』と紹介されてしまったことがありましたね。それが契機となってか、知らない人に『おい赤西!』って追いかけられたり、赤西家のポストに納豆を入れられる嫌がらせをされたこともありました」

責任感の芽生えと兄弟仲の変化

17歳からの3年間は、自らの力量と兄の存在に悩み続けた。しかし、成人した直後にある仕事をきっかけに、転機が訪れる。

「20歳の時に主演舞台が決まって、責任感が芽生えて、ゆっくり自分を確立していこうって思えるようになりました。自分の中で整理がついてきたんですよね。10代のころの僕は、自分は誰とも違うオンリーワンなんだと思いながらも、やっぱりどこか人が使ってた言葉を並べていたと思いますね」

その頃から、自らの成長を感じ始めると同時に、兄との関係性にも変化が生まれたという。

’18年に個人事務所「RED WEST」を立ち上げ、今年11月1日には、芸能事務所「アルカンシェル」と業務提携を開始した

「成人したくらいから、兄貴の方から『大丈夫?生きてる?』って連絡くれるようになって、嬉しかったです。昔はお互い尖ってたしツンケンしてましたけど、『飲もうよ』って誘ってもらって実家で一緒に飲んだんです。兄貴の方から『お前ももう20歳だな』って言葉をかけてくれた。一緒に住んでた頃に比べると過ごす時間は減りましたけど、いい関係になれたなと思います」

兄の存在を受け入れた先に

兄の存在を受け入れてから、自身の活動に自信がついた礼保さんは、23歳の時に単身ニューヨークへと渡った。

「正直、役者をはじめて最初の4年間は年収25万円くらいでした。舞台で200〜300人のお客さんを呼んでも、主役を務めてもです。本番が終わって、深夜に引越しの日雇いアルバイトをやって1〜2時間寝てから、劇場に入ってという生活を、毎日していました。引っ越しの深夜手当は、1万8000円くらいもらえるんですよ。毎日それで食いぶちを稼いでいました。そこでお金を貯めて、自分の力を試すために単身でニューヨークへ向かいました。

3ヵ月ほど語学学校の寮に住みながら、ミュージカルの街頭呼び込みの人に『オーデイションないですか』って聞いて回っていたんです。寮で仲良くなった男性に有り金を全部盗まれたりもしましたが、今となってはいい思い出です」

こうした経験を積み、役者として成長する中、’16年にはアーティストとしての活動に踏み出した。

「決めたはいいものの、デビューまでがかなりの逆境でした。アーティスト活動のお話をいただきましたが、中々うまく話が進まず立ち消えになってしまいました。その間の2年間は、給料が出るわけがないので、貯金も0円に。レコーディングしてあった1曲だけが手元に残った状態で、途方に暮れました。

その時に、先にアーティストとして活動していた兄貴に『とりあえずライブやっちゃえば』って背中を押されたんです。それで腹をくくれた。それまで歌手としてステージに立ったことがなかったんですが、仲の良いアーティストさんが、横浜のライブハウスでゲストとして歌う機会を設けてくれて。そのライブがキッカケとなり、その後1ヵ月半くらいでファーストライブが実現しました」

今年行ったライブ。活動が行えなかった昨年は、ファンクラブ会員に一人5枚づつマスクを配布する心配りも

だが、アーティスト活動を続けていく中で、どこか力を出し切れていないと感じた礼保さんは、’19年にある決断をする。

「一枚3000円のアルバムを2000枚売るまで東京に帰らないと決め、路上ライブとチケット無料ライブをやりました。マネージャーと2人で東京から福岡まで4か月ほど車中泊をして、3000枚を売り切ったんです。その後、東京に帰ってきて、ライブを開いたらお客さんの数が4倍ほどに増えていたんです。嬉しかったなぁ。

そんな矢先、コロナ禍になってしまったんです。5〜6回ライブも中止になって、借金も抱えました。マジできつかったすね。それでも、毎月シングルリリースをしていた。そんな曲を収録したのが、今回の『Re:Start』というアルバムです。

これを機に、またファンの人とも信頼を深めていきたい。まさに再スタートです」

コロナ禍からの再始動を誓い、今後はさらに活動の幅を広げていくつもりだという。

「この5年は音楽活動に専念してきたんですが、来年には、ミュージカルの主演も務めます。大きな目標って聞かれたら、やっぱりグラミー賞は獲りたいですね。僕は難しいことは考えられないので(笑)多くの人に、聴いてもらったり、演技を見てもらって日々の生活が楽しくなってもらえれば、すごく嬉しいです。

これからデビュー5周年の新しいアルバムをある方のプロデュースで作るつもりです。ファンやマネージャー、ついてきてくれる方々の期待に応えて、幅広く頑張っていきます!」

兄を脅かす存在になるべく、33歳、等身大の挑戦がはじまる。

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