何度も地獄を見た…鉄腕・下柳剛が明かす「わが壮絶野球人生」 | FRIDAYデジタル

何度も地獄を見た…鉄腕・下柳剛が明かす「わが壮絶野球人生」

「私の野球部時代」下柳剛編①

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<あのプロ野球選手も、あの野球好き有名人たちも、ツラくてキツい野球部時代があったからこそいまがある。著名人たちがグラウンドを駆け巡った汗と涙の青春の日々を振り返る連載企画、いよいよスタート!>

100人以上の部員が16人に

高校に入学した4月には、100人以上の1年生が入部した。それが3日で半分に、1週間で3分の1に減った。そして2年生になった時には20人に。3年の夏、最後まで野球部にいた同級生は16人だった。

それだけ練習が厳しかった。毎日毎日、「なんでこんなにしんどい思いをしなきゃならないんだろう」と心の内で叫んでたね。じゃあ、なんで俺は最後まで残れたのだろう。きっと「純粋に野球が好きだったから」という理由がまっとうだけど、いま振り返ると、別にそうでもなかったかもしれない。最後まで残った16人は、正直バカばっかり(笑)。「純粋に仲間が好きだったから」。これがきっと一番の理由だ。

俺の高校野球、長崎県の私立瓊浦高校野球部での経験のすべては仲間との思い出と言っていい。

高校入学前、長崎市立江平(えびら)中学ではファーストを守っていて、3番手ピッチャーだった。当時は強豪の野球部で、県内でナンバー1の実力校だった。エースを見た時は、

「こういうヤツがプロに行くんだろうな。俺は楽しくやれればいいや」

と感じたよね。野球部の同級生の大半は長崎西高へ進学。海星(長崎)へ入ったけど、結局退学して西高へ入り直したヤツもいた。後になって、「お前が西高へ来なかったから甲子園に行けなかったんだ」と言われたっけ。高校3年になった時に練習試合で対戦して、西高相手にあっさり完封しちゃったから。

俺の第1志望は長崎商業。この夏、甲子園に出場して69年ぶりに勝利した高校だ。志望動機は、そりゃ、「女子がたくさんいるから」(笑)。でも、まったく勉強をしていなかったから落っこちた。試験に落ちて落ちて、入れたのが瓊浦だったんだよ。

ちなみに、いまでも俺の自慢は小中高の「6・3・3」の中で一度も宿題をやらなかったこと(笑)。当時は小学校で「夏休みの友」という宿題の冊子が配られたけど、手を付けたことがない。ほんと、よく瓊浦に入って野球ができたなと思う。

当時の瓊浦は普通科と商業科と機械科があった。俺は普通科。共学だったけど女子は商業科に偏っていたから、男女の交流はまったくない高校生活になってしまった。待っていたのは、「地獄」の野球部生活よ。

プレハブが揺れた!

野球の推薦があったわけでもなく、一般受験で入学して野球部に入った。入部直後から100人以上いる1年生を“減らす練習”が始まった。ずっと走りっぱなしの基礎体力練習。メチャメチャしんどかった。

瓊浦高校の野球部グラウンドは、校舎から4.5㎞も離れた山の上にある。そのグラウンドまで毎日往復で走らされるのが嫌で嫌でね。授業が終わったら部室で着替える。各自荷物を監督が運転するマイクロバスに積んだら走り出す。グラウンドが山の上だから登り坂がとにかくキツい。

「もうイヤだ!もうやめてやる!!」

一年生の時に何度そう思って坂道を振り返り、下って帰ろうと思ったことか。

同級生と何度も何度も、「もうやめようか」と話したね。でも、なんとかグラウンドに辿り着いて、練習を終えて帰宅できるとなった時に、学校の近くの店で買ったパンをかじりながら、ああでもない、こうでもないと語り合った。その時間が唯一の楽しみだった。

それでも耐えきれなくなって、一度だけ本気でやめようとしたことがあった。俺の他にも2人、やめると決めた仲間がいて、3人で監督へ言いに行ったことがある。でも、最初に誰が言うのか?

「俺が行くわ!」

勇気を振り絞って、俺が先陣を切った。

猛烈に、壮絶に、メチャクチャに怒られた。後で聞いたところによると、監督へ話をしに行ったボロボロのプレハブが横に揺れていたらしい(笑)。それを見ていた残りの2人は「やめません」と言って命からがら逃げ延びたんだよ。

監督はそれはそれは恐かった。

長崎県では当時、新人戦でも準決勝、決勝になると地元のテレビ中継があった。瓊浦が勝ち残って中継された時に、ちょうどベンチで怒鳴られまくる俺が映ったらしく、瞬時にカメラがパーンしたらしい(笑)。反射的に映してはいけないものを映してしまったと判断したんだろう。それぐらい恐ろしかったのよ。

でも、瓊浦に限らず、当時は怒られまくるのが当たり前の時代。部員もわざわざ親に報告することなんてしなかったし、仮に報告したとしても、「怒られるお前が悪い」と親から余計に怒られた。ウチのおふくろなんて怒って鍋を振りかぶってきたことだってあるんだから(笑)。

監督はちょうど自分たちが入学した年にコーチから昇格したタイミングで、年齢も20代後半とまさに血気盛ん。だから怒られた記憶しかない。ボールケースは飛んでくるわ、火鉢は飛んでくるわ……怒り狂ってノックバットを折っちゃうなんてこともあった。しかも野球部のグラウンドだけ校舎から遠く離れている。野球部以外の誰も寄りつかない。もう完全な治外法権だったね。

先輩もそりゃあ恐かった。でも1年生の時、学校でケンカをした3年生の先輩が監督に正座させられてメチャクチャ怒られてるのを目撃したのよ。いつもはとんでもなく恐ろしい3年の先輩がとことん追い詰められている。そんな監督に反抗する気など起きようがないわな。怒ってすぐ拳を握るから、俺たちは監督のことを裏で「パンチ」って呼んでた。

野球が出来ない時期に作った“下柳マウンド”

「パンチ」の下での練習は、それは苛烈を極めた。

夏場の練習。当時は水なんか飲めない。下級生の俺たちは、とにかく声出しをさせられる。すると、声出しをしながらバターンと卒倒するヤツが出てくる。

「水持ってこい!塩持ってこい!」

「熱中症」なんて言葉もなかったし、そりゃ水や塩だけでは回復するわけない。山の上のグラウンドには電話もない。グラウンドから一番近い民家へ部員がダッシュで行って、

「すみません、救急車を呼んでください!」

とお願いすることが何度もあった。最多で1日に4台くらい来たんじゃないか。なかでもひどかったのは、同級生がひきつけを起こして倒れた際に舌を嚙んじゃったのよ。その時、俺は外野を走らされていたけど、先輩がソイツの口を開けて指を突っ込んでるのが見えた。さすがに命の危険を感じたね。

でも、最も命が危なかったのは、ひょっとしたら俺かもしれない。

1年生の時はファーストを守っていた。ところが、左ピッチャーのいる高校と試合をするとなって、上級生相手にバッティングピッチャーをすることになった。俺の本格的なピッチャー人生はこの時から始まったと言っていい。

そんな転機を迎えた1年生の夏の終わりに、内臓疾患になった。

ちょうど成長期ど真ん中で1年に身長が10㎝くらい伸びていた時期だった。身体の外側の急激な成長に内側がついてこられなかったのだろう。いつものようにグラウンドまで走らされている時に、通りがかった他の部活の先生が、

「お前、なにサボってんだ」

ってやって来た。でも俺の顔を見るなり、

「もう走るな!」

と制止してきたんだよ。それほど真っ青な顔をしていたらしい。急いで病院で診察したら、胃から出血しているという。血液検査の結果、血液濃度が通常の3分の1しかなかった。もう少し放っておいたら本当に死んでたかもな。もちろん即入院という診断だったけど、薬だけもらって自宅療養をしながら部活へ通うことに。それもおかしな話だよな。

バスに乗ってグラウンドへ通い、やることといったらグラウンド整備や草むしりやボール出しだけ。そんな裏方生活が約半年間続くことになった。一度やめようとしたのはこの頃のこと。

それをなんとか思いとどまって、野球ができない時期にいろんなものも作った。室内練習場の屋根の下、雨が落ちてこないところにコンクリートを持っていって走路を作ったり。新しくマウンドも作ったりした。それがいま「下柳マウンド」なんて呼ばれているらしい。

いまでも覚えているのは、監督の伝手で連れていかれた佐賀の病院の胃腸科の先生の言葉。全身に200ヵ所くらい注射されたんだけど、その先生が、

「彼はすごい選手になるでしょう」

と報告書に書いていたことを後に知った。当時高校1年生で全国区でもなく、誰も知らない、箸にも棒にもかからぬ俺のことをそう評価してくれていた。自分ですら当時、後にプロ野球選手になって最年長最多勝投手になるなんて思ってもいなかったから。どこを見て俺の将来を予見してくれたのかはわからないけど、きっと高校を卒業した後も俺のことを気にかけてくれていたかもしれないね。

(第2回へ続く)

  • 取材・文伊藤亮

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