鉄腕・下柳剛が明かす「高校時代の監督との地獄の日々」 | FRIDAYデジタル

鉄腕・下柳剛が明かす「高校時代の監督との地獄の日々」

「私の野球部時代」下柳剛編②

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1986年の夏。背番号「1」を背負って

内臓疾患から回復して2年生の春から練習に復帰した。たしか、その春のセンバツに出場して戻ってきた海星との試合で登板して勝った。そこで俺の評価が上がった。

そして俺たちの代になった2年の秋季大会で準優勝。当時、九州大会へ進めたのは優勝校のみ。俺たちに決勝で勝った海星が、その後九州大会でも準優勝して翌春のセンバツへの出場権を獲得した。万が一、現在のように長崎県の準優勝校でも九州大会へ出られていたら、自分たちも甲子園の可能性があったのかな――といまでも思い返すことがある。

そして迎えた高校3年、1986年の夏。俺は背番号「1」を背負った。

自分たちの代には野球推薦、いわゆる特待で入ってきた右のピッチャーがいた。一つ上の代が7人しかいなかったこともあり、その特待が2年生からエースとして投げていた。

先発するエースには、練習時から新球が授けられた。そしてそのボールを個人で管理する。2番手以降のピッチャーには、そのエースの使い古しが回ってきた。

それがどうにも我慢ならなかった。

「コイツを抜かさなあかん」

と反骨心に火がついた。これ、実は監督が俺の性格を見抜いた人心掌握術だったかもしれない。もし俺の反骨心を煽るために、あえて使い古しを渡してきたのだとしたら、悔しいけどその目論見は当たったと言わざるを得ない。

特待は授業料免除。こっちは授業料満額支払ってる一般入試。特待エースは、当初は俺のことなんか鼻にもかけてなかったと思う。既にエースとしての地位を確立していたから。

それでも汚れたボールを回されるのが嫌で、もがいて耐えて歯を食いしばって、最後の夏には左右2枚看板の両エースという立場にまでいき、俺にも新球が渡されるようになった。そして――、

「背番号1、下柳」

「はいっ、ありがとうございます!」

最後の夏の大会前、そう呼ばれた時は「キーッ」って声にならない思いが沸き上がった。そのエースには“ざまあみろ”と。だけど、彼は4番バッターでもあったからチームの中心選手であることには変わりなかった。

そして迎えた最後の夏の長崎県予選。

優勝候補は海星と瓊浦。ともに準々決勝まで勝ち上がった時、海星が敗れた。

「俺らが甲子園じゃん。どうする?」

と、みんなで浮かれていたら、次の準決勝で負けてしまった。島原中央に5-7。4回にセンターとレフトがお見合いしたんだったかな? そこから力みまくってフォアボールを連発。1点先制してたけど、結局その回6失点して逆転された。いまだにみんなで集まると言われるよ。

「お前のせいで負けたのに、お前だけプロに行きやがって」って(笑)。

結局、俺たちに勝った島原中央がその年の長崎県代表になった。もう、夏の残骸になった。悔しくて泣くというより、“やっと終わった”という気持ちのほうが強くて、仲間と、

「明日、海行く?」

なんて話してたね。“ああ、これでしんどいことから解放される”と。夏の大会中は、クラブハウスで合宿なんだけど、「はぁ、これでやっと家に帰れる」ってね。

いまでも甲子園に出てくる高校球児を見ると、無条件に尊敬してしまう。だって、厳しい地方大会を優勝して出場するんだから。

俺たちは監督と試合をしていた

なぜ俺たちは甲子園へ行けなかったのか。いまとなっては理由は明白。それは、「相手と試合をしていなかった」から。

じゃあ誰と試合をしていたかというと、監督だった。

3年間ずっと、どうやったら怒られないかばかり考えていた。相手に勝つより監督に怒られないように。勝負よりまず怒られないように。すべての行動のベースにはその思いがあった。もし、本気で“勝ちたい”と思って取り組んでいたら、もう少し違った結果になっていたかもしれない。

エンゼルスの大谷翔平は、高校時代から目標達成シートを作成して、実現のために必要なことを具体的に抽出していって実行していた。翻って高校時代の俺は、そんなことなんて考えたこともなかった。頭の中は、“いかに怒られずに上手くサボるか”ということばかりだった。

来る日も来る日も繰り返される校舎とグラウンドの往復ランニング。それだけ同じところを走っていれば知恵もつく。通常は普通の道路を走るけど、ショートカットできるけもの道があった。俺らの荷物を載せて監督が運転してくるマイクロバスは古くてエンジン音が大きいから、遠くからでも聞こえる。ズルしてけもの道を行く時にエンジン音が聞こえたら、草むらに身を隠せばいい。

ただ、ここでひとつの問題が。草むらに群生している「バカ」が練習着につくのよ。一般的に「ひっつき虫」とも呼ばれるオナモミの実のことを、長崎では「バカ」と呼ぶんだけど、それを取っ払わないといけない。でも背中の上のほうとか、目の届かないところにどうしても残ってしまう。グラウンドにつくと監督に、

「お前ら、ちゃんと走ってきてんのか?」

と聞かれたら「はい!」って答えるんだけど、ちゃんと走ってきたらつかないはずのバカがついてるのでバレバレ。

「お前ら、本当にバカか!」

って激怒されて。その先に待っていたのは鬼のようなノックだった。

一度、監督が来ないと言われていた日があった。その日は晴れ晴れした気分で、みんな小銭を持って、ジュースを買って飲みながらいつもは走っている坂道を歩いていた。

そしたらマイクロバスじゃなくて自家用車で監督が現れやがった(笑)。みんな顔面蒼白になりながら、恐怖の練習が始まった。それから先のことはもう“地獄”すぎて語れない(笑)。

雨が降ってグランドが使えない日は、隣接する坂道ダッシュが定番だった。山の下から上まで120~130mの距離を何本もダッシュする。監督は一番上からチェックしてるんだけど、山だから霧が差す。下のほうまで目が届かないので、俺らは最後の30mだけ真剣に走っていたこともあった。

本当に子どもだったとしみじみ思う。大人の監督を欺けるわけがない。でも、あの時はいかに監督の目を盗んでサボるかばかりを真剣に考えていた。

忘れられない「うどん3玉」

なぜ監督がそこまで恐かったか。そこには、当時の瓊浦はヤンチャな生徒ばかりが集まっていたからという事情もあったと思う。しかも運動部が強かった。バスケットボール部、ハンドボール部、陸上部に加え空手部もボクシング部も全国区だった。ヤンチャで部活動が盛んな学校の生徒を御するのはそりゃ大変だったろう。

校内でのケンカも多かった。でも、野球部にケンカを売ってくるヤツなんていない。俺たちは監督に鍛え抜かれてるから、万が一ケンカを売られても同じ高校生なんて相手にもならない。野球部は校内で最も恐がられてたね。

そんな学校だったから、授業そっちのけで完全に部活中心。お弁当は毎日2つ。2限目が終わったら一つ食べて、4限目が終わったらまた一つ食べる。それで授業後、グラウンドに行って練習が終わるのが21時か22時。そこから身支度して帰途につく。

一番仲の良かったキャプテンとは、バス停まで道が同じだったので、よく一緒に帰ってた。その道すがらにうどん屋さんがあって、よく閉店間際の22時くらいに2人で寄っていた。

弁当を2つ食べていても、練習後は腹が減るから何か食べたい。でも、カネなんか持ってないから素うどんしか頼めない。そしたら店のオヤジさんがうどんを3玉入れてくれて。「瓊浦」って書かれたバッグを担いでたから、俺らが腹減ってるのをわかってサービスしてくれた。

ちょうど閉店時間だからか、トッピングの残りものも全部載せてくれるのよ。いなり寿司も出してくれたなあ。素うどん一杯の値段で全部食べさせてくれて、しまいには昆布の佃煮などもお土産に持たせてくれた。あの練習後のうどん3玉は、一生忘れられない。

うどん屋で腹を満たして、家へ辿りつく頃には日付が変わる時間。自宅もバスを降りてから坂を上っていかなくてはいけなくてヘトヘトになる。最後の力を振り絞って玄関を開けて、バッグを下ろしそのまま倒れ込んで……。で、ふと気づいたら翌朝。玄関で寝起きする、そんなことがしょっちゅうだった。

当時、両親はさつま揚げ屋を営んでいたので土日以外は工場に行っていた。だから帰宅しても親がいない。つまり、玄関で寝てても起こしてくれる人がいない。弟に向かって、「なんで起こさないんだ!」ってよく怒ったけど、俺が帰宅するころにはとっくに寝てる弟からしたら、とんだとばっちりだよな。

玄関で倒れたまま寝て朝起きて、真っ先にすることといったら、前日の練習ユニフォームの洗濯。乾かす時間がないから、洗ったものを荷物に詰め込んで学校で授業中に干して……。本当にギリギリの毎日だった。

(第3回へ続く)

  • 取材・文伊藤亮

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