鉄腕・下柳剛が初めて明かす「野球人生を支えた僕の財産」 | FRIDAYデジタル

鉄腕・下柳剛が初めて明かす「野球人生を支えた僕の財産」

「私の野球部時代」下柳剛編③

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「野球選手はな、“我慢”を食うんだよ!!」

怒られ続けた瓊浦高校野球部での3年間。厳しさが一層増す夏休みは大嫌いだった。毎年「夏なんか来てくれるな」って思ってた。

「我慢」

高校時代に学んだことと言えば、これに尽きる。

ミーティングで監督が俺たちに問いかけてくる。

「野球選手は何を食うのかわかってんのか!?」

仲間の一人が、

「肉です!」

って答えて(笑)。「……肉か!?」って詰められたので別の仲間が、

「野菜です!」

って答えて。「……野菜か!?」ってまた詰めた後に監督が、

「野球選手はな、“我慢”を食うんだよ!!」

って。そんなこと言われても、俺たちはなんにもわかってなかった。

“何言ってんだパンチ!? 我慢なんか食って腹が膨れるか!”

って思っていた。

監督の口癖は「己に勝て」。つまり、負けそうになる自分に我慢を強いて乗り越えていけと。そればっかり言われた。

実際、野球部を引退して高校を卒業して、その後、社会に出ることになって待っていたことといったら、我慢することばかり。その時に“ああ、これが「己に勝て」か”とやっと理解できた。だから、座右の銘を問われたら「克己心」って書いてたもの。

社会人時代も我慢して練習を続けたからプロに入れたし、プロに入ってからもサボりたい時も、他の人が休んでいる時も、我慢して1本でも多いダッシュ、我慢して1球でも多く投球を積み重ねることで周りに差をつけていった。

いつからか「練習して息が上がることが嫌になった時が引退する時」というのが持論になった。“ここまでしなくてもいいだろう”と思ったら最後。体力以前に気力が萎えてしまったら終わり。そう心に決めてプロ野球選手を続けていたけど、そこには高校で学んだ我慢があったんだ。

話は飛ぶけど、2012年、44歳で東北楽天ゴールデンイーグルスを戦力外になった翌年、俺はアメリカへ渡ってロサンゼルス・ドジャースのトライアウトを受けた。

「死に場所を探しに行くぞ」

と言って向かったんだけど、これには理由がある。よく「どうやったらプロ野球選手になれますか?」と聞いてくる子どもたちに、

「やめる理由を探すより、続ける理由を探してみて」

と答えていた。そんな自分が、楽天を戦力外になったからといってすぐに野球をやめるわけにはいかない。続ける理由を探すために、自分の言葉にケジメをつけるためにも、アメリカへ挑む必要があった。

ロサンゼルスでのトライアウトは、テレビ局が密着してくれてたんだけど、自分の投球映像を見ると、驚くほど腰が曲がってる。誰がどう見ても痛々しい。トライアウトに落ちた後、レストランでマネージャーと2人、ベニスビーチの夕日をぼんやり眺めながら、

「終わりか」

という言葉が口から漏れてきた。ここで自分の野球人生に区切りをつけた。そして成田空港に戻った瞬間、緊張の糸がプツンと切れたんだろうね、腰が抜けて、次に肩が抜けた。ボールを投げられる状態ではなくなってしまった。以後、半年くらい腕が上がらなかった。

トライアウトは、本当に気持ちだけで投げていた。だからこそわかる。人間の気持ちというのは凄まじい力を秘めている。監督はきっと、このことを教えたかったんだろう。

恐くて恐くてしょうがなかった監督だけど、自分たちの代で進学するにしろ就職するにしろ、進路が決まらなかった者は一人もいなかった。俺も八幡大学(現・九州国際大学)を中退して就職を考えていた頃、社会人野球の新日鐵君津に話を通してくれたのが監督だった。その時、監督に呼ばれてバイクで乗り付けたら、また怒られたけど(笑)。

当時の仲間が集まれば一瞬で高校生に戻る

アメリカから帰国した後、地元の長崎へ戻った時に瓊浦高校の野球部の仲間たちが引退試合を開催してくれた。

俺の同級生チームと後輩チームでの対戦。本当は肩が痛くて投げれる状況じゃなかった。でもこの試合のために、みんながわざわざ仕事を休んで予定を合わせてくれた。監督のパンチも来て、最後には胴上げしてくれた。試合後にはみんなでご飯を食べて労ってくれて。あれは嬉しかったなあ。

そういえば、似たようなことが高校の卒業式の日にもあった。

俺は八幡大への進学が決まってたから、卒業式の日には福岡に行かなければならなかった。

よく卒業式で女子から「第2ボタンをください」なんて甘酸っぱいシーンがあるけど、俺の学生服にはきれいにボタンが揃ってた。そんなことにガッカリしつつ、長崎駅にいたら、野球部の同級生がホームにやってきて寄せ書きしたボールをポーンと投げてよこした。

そのまま特急のかもめに乗り込んでボールの寄せ書きを読んでたら、「帰りてぇ……」という気持ちがこみ上げてきた。あまりにも淋しくなって、諫早駅で電車を降りて戻ろうかと、どれだけ葛藤したことか。

同級生とはいわゆる「腐れ縁」だ。

高校時代の仲間が今でも一番気が合う。いまだにみんなで集まれば高校時代に戻れる。10代の頃は、50代の男なんておじいさんに見えてたけど、歳を重ねても、当時の仲間が集まれば一瞬で高校生に戻る。あの頃と何ら変わらず、バカ話ばかりしてる。

そして、この歳になっても当時の先輩は相変わらず恐い。一番怖かった先輩はいま、うなぎ屋のオヤジ。以前一度食べに行ったことがあって、会計をしようとしたら「お代はいらない」と。「いやいや、支払いますよ」って言ったら、

「あ~ッ!?」

って睨まれた。背筋を伸ばして「はい!ごちそうさまです!」と頭を下げるしかなかったね(笑)。

長崎県の地元局の番組でロケがあった時に、5つほど上の大先輩に偶然会ったこともあった。向こうから歩いてくるだけで誰かは一目瞭然。途中から直立不動でお迎えして、「お疲れ様です!」って挨拶したら、

「おう、どうした?頑張れよ」

とだけ言って通り過ぎてった。局のスタッフはキョトンとしてたわ(笑)。

高校時代の仲間は一生モノの財産

おふくろには「医者になりなさい」と言われていたけど、俺は「いや、『巨人の星』になる!」と言っていたらしい。小学校の卒業文集で将来の夢の欄に「プロ野球選手」と書き込んでいた。

野球人生のきっかけは小学校3年生から始めたソフトボール。長崎県はソフトボールが盛んだった。3つ上の兄に連れられて始めたんだけど、俺のほうが試合に出て、兄は補欠。そうやって根拠のない自信が生まれていったのかもしれない。

とにかく、俺がプロ野球で活躍できたのはソフトボールのおかげ。だから2007年に「下柳剛ドリームカップ・長崎少年ソフトボール選手権大会」を立ち上げた。

昨年は新型コロナウイルス感染拡大の影響で初めて中止になってしまったけど、毎年開催して、年々規模を拡大してきた。いまでは約60チーム、選手の関係者を含めると3000人ほどが集まる。会場には出店も立ち並ぶ。壱岐や対馬といった離島からもチームが船に乗って参戦してくれるし、小学6年生最後の大会に位置付けてくれているので選手のモチベーションも高い。テレビ中継もある。

この大会を手伝ってくれているのが瓊浦高校の仲間たちだ。開催前日には測量士の後輩がライン引きをしてくれる。ほかにもみんな社会人になって身に付けたスキルを持ち寄って協力してくれる。それで大会が終わったら、みんなで焼き肉に行ってバカ話をする。これが毎年の楽しみだ。

同級生のグループラインがあって、長崎へ行く時は必ず連絡を入れるようにしている。みんな50代になって、自分で起業して社長になっているヤツもいれば、中間管理職に就くヤツも増えた。もう孫がいるヤツもいるからね。そんな彼らこそが、俺の瓊浦高校野球部の思い出であり財産だね。

高校時代、そして大学時代。この、人生でも最も多感な時期に苦労を共にした人間とは、その後一生付き合うことになる。その仲間たちとは、たとえば野球部だったからといって野球の話ばかりするわけではなく、恋愛相談もするだろうし、就職や仕事の悩み相談などもするだろう。人生の節目に関わる濃い話を正直に打ち明けられる、とても大切な存在になる。

本当に親身になってくれる人間がいるということが、自分にとってどれだけありがたいことか。現役の学生たちが、“今”という瞬間をどうとらえて生きているのかはわからない。ただ、仲間のありがたさを50代になってなお痛感している立場から言わせてもらうと、かけがえのない高校時代に過ごす時間と仲間は何よりも大事にしてほしいと思うよ。

  • 取材・文伊藤亮

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