矢口高雄『釣りキチ三平』と歩んだ波乱万丈の漫画家人生
「一周忌」特別企画 描き続けて50年 次女・かおるさんらが明かす素顔と秘話 故郷・秋田と酒と家族をこよなく愛した
「僕は生涯、漫画家だ」
生前、そう語っていた漫画界の巨匠、矢口高雄さんが膵臓(すいぞう)がんを患い、81歳でこの世を去ったのは、昨年11月20日のことだ。’39年、秋田県の現・横手市、雪深い村の貧しい農家に生まれた矢口さん。
少年時代から手塚治虫氏に憧れ、中学校の学級新聞で漫画を連載していた。高校卒業後は県内の銀行に就職。24歳で書店の娘と結婚し、2児の父となったが、幼い頃からの夢を諦(あきら)めきれず。白戸三平氏に影響され、銀行員として働く傍(かたわ)ら、漫画を描き、30歳の時に漫画雑誌『ガロ』にて漫画家デビューを果たす。
『幻の怪蛇バチヘビ』では、全国にツチノコブームを起こした。さらに20年にわたって描き続け、単行本の累計発行部数5000万部を記録した『釣りキチ三平』では、絶滅したとされる淡水魚・クニマスの再発見を予言したかのようなストーリーが話題を呼んだ。
父として、漫画家として……生前の姿を知る3人が、矢口さんの素顔を語る。
お酒好きで子煩悩な父
現在、父から『矢口プロダクション』の活動を引き継いだ次女・かおるさんは、幼い頃の思い出をこう語る。
「私が4歳の頃に『釣りキチ三平』の連載が始まりました。物心ついた時には、父はすでに漫画家だったんです。その頃は常に忙しそうにしていましたよ。家から歩いて10分ほどのアトリエにこもって、徹夜で原稿を仕上げていました。そんな中、私と3歳年上の姉のことは、ウンと可愛がってくれましたね。運動会や文化祭には欠かさずに来てくれましたよ」
父親としてのイメージは、昔ながらの頑固親父とは正反対だったという。
「私も姉も学校の成績は良くなかったんですが、一度も怒られたことはなかったです。父は山奥の貧しい農村で育って、村で初めて高校に入った人でした。自分は大学には行けなかったので、私の短大進学が決まった際には、とても喜んでくれました。私たちの進路について、あれこれ言ってくることはなかったです。
母とも仲良しでしたが、時折些細なケンカをしていましたね。テレビを観ていた時、母がクイズ番組の答えがわからなくて、父に『何でお前、こんなのもわからないんだ』って口論になったりだとか(笑)。『釣りキチ三平』の三平と幼馴染みのユリッペそのままでしたよ」
妻と娘を溺愛し、娘たちも父のことが大好きだった。さらには、近隣住民や行きつけの寿司屋、通っていたスポーツジムなど、さまざまな場所に友人がおり、多くの人に愛されていた。酒好きで、多くの作家や担当編集を東京・目黒の自宅に呼び、毎晩お酒を酌み交わしていた。
「父がお酒を好きだというのを耳にして、いろんな方がお酒をくださるんです。とくに焼酎が好きでした。私たちはあまりお酒を飲まないんですが、家には、酒瓶がズラーッと並んだ棚があって、よくその前で晩酌していましたよ」
逝去から1年。大勢で集まって偲(しの)ぶことが出来ない中でも、父の偉大さを改めて感じる瞬間があったという。
「父が亡くなった直後、ある写真家の方から手紙が送られてきました。父の描いた漫画に感動して、高校を卒業してカナダへ渡り、自然写真家になったそうです。その方がうちに来て、父の仏壇に手を合わせているのを見て、私が想像していた以上に多くの人の人生に影響を与えていたんだなと実感しました。父が亡くなった今でも、姿は見えないけど存在はそこにある気がしています」
担当編集に見せた作家の顔
家庭では、優しくて親しみやすい父だったが、担当編集は矢口さんの漫画界の巨匠としてのストイックな姿勢を見ていたという。10年来の付き合いで、秋田魁新報社の連載エッセイ『マンガ万歳』の担当編集だった小松嘉和氏が語る。
「先生の漫画家魂を強く感じたのは、最晩年のこと。’12年にご長女が亡くなられ、自らも前立腺がんを患われて、失意の中、先生は筆を置いてしまわれた。ただ、暇さえあればスケッチブックを開いて、マジックペンで作品の登場人物を描くんです。行きつけの寿司屋さんでは、箸(はし)袋にまで絵を描いちゃう人なんですよ。
取材時にお借りした資料からも、絵を描いた紙切れがポロポロ落ちてくるんです。私は、その現役時代と変わらぬ力強い絵を見て、まだまだやれるじゃないですかと言ったんですが、先生は『こんな程度じゃダメだ』と。強い漫画愛があるからこそ妥協の産物で作品を作りだしちゃいけないという気概を感じました。全盛期の作品に劣るものを世に出したくないという美学だったのだと思います」
漫画に対する強い愛と美学を持っていたが、矢口さんがそこに至るまでには妻・勝美さんの存在が不可欠だった。
「先生が子供の頃は、『漫画を読むとバカになる』とまで言われていた時代です。当時銀行員で2人の娘がいた先生が、30歳で脱サラして漫画家になるというのは大変な決意だったと思います。周囲が反対する中、勝美さんだけは『やれるんならやってみなさいよ。ただし、私たち3人を路頭に迷わせたら許さないわよ』と言ったそうです。先生の覚悟を試したんですよね。勝美さんは、自分の父親に『夫がやりたいということを妻が応援してやらなくて誰がするんだ』と言われていました。先生が、プロになる覚悟を固められたのは、そんな勝美さんの言葉があったからではないでしょうか」
原画保存に尽力した晩年
矢口さんの故郷、秋田県横手市には『横手市増田まんが美術館』があり、矢口さんを中心に、『ゴルゴ13』の作者・さいとう・たかを氏や『東京タラレバ娘』の作者・東村アキコ氏らの原画が43万点あまり所蔵されている。この施設は、’95年に増田町制施行100周年記念事業の一環として建てられたもので、当初は矢口さんの記念館にする話が持ち上がった。しかし、矢口さんは「個人の記念館にするよりも、これから漫画家を目指す子供たちには原画を見せるのが一番勉強になる」といい、美術館に自らの名を冠することを拒んだ。作品を描くだけでなく、漫画全体の地位向上を夢見ていたのだ。
晩年の矢口さんを知る横手市増田まんが美術館館長・大石卓(たかし)氏は当時の様子を次のように語る。
「かつて浮世絵が日本から海外に流出してしまったのを先生は嘆いて、『原画を第二の浮世絵にしてはならない』とおっしゃっていました。また、自身もお年を召して自らの原画の行く末を案じていた。当時一介の役場職員だった私に『僕は作品を大石君に託し、あの世に行く』とおっしゃったのが、保存活動の始まりです」
矢口さんは几帳面(きちょうめん)な性格で、きっちりと自分の原画4万2000点あまりを整理して保管していた。大石さんらは、それらを軸に、保存活動を展開していくことにしたのだという。
しかし、そんな矢先の’20年5月、矢口さんは病に倒れてしまう。
「先生から電話があって『大石君、ごめん』って謝るんですよ。一緒に二人三脚で原画を集めていこうと言ったのにできなくなってすまない、という電話でした。『先生、そんなこと言わないで一緒に頑張りましょう』って話したんですけどね。きっともう悟られていたんでしょう。
原画保存活動はまだ始まったばかり。この先50年、100年かけて続けていくべきだと考えています。私は、次の世代に一枚でも多く残すことと、その環境づくりに邁進(まいしん)していきます。それが先生の遺志でもありますから」
貧しい家庭から手に入れた安定したサラリーマンの地位を手放し、人気漫画家となって多くの人に喜びを与えた矢口さんの作品は、これからも愛され続ける。





『FRIDAY』2021年12月3日号より
PHOTO:横手市増田まんが美術館 矢口プロダクション