チーム高倉健のひとりが初告白「私が抱いた『養女への不信感』」 | FRIDAYデジタル

チーム高倉健のひとりが初告白「私が抱いた『養女への不信感』」

名優の死から7年 20年前のある日、高倉健から「紹介したい人がいる」と言われて初対面 消えた「写真と日記」の行方も知れず……

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昨年の七回忌で飾られた高倉健の遺影。このときは新型コロナの影響もあり、親しい人のみで執り行われた

「江利チエミさんと暮らしていたあの家が焼けたあと、建て直した家の棟上げ式に行きました。もう50年以上前でしょうか。健さんはチエミさんと離婚して乃木坂に住んでいたのです。瀬田(せた)の家を建て替えたときは住むつもりがなく、すべて外国人に貸そうとしていました」

そう話す高倉健の友人がいる。生前の高倉と常に行動をともにしてきた「チーム高倉」の一人、片山由紀夫(仮名)だ。

チーム高倉とは、俳優の小林稔侍(ねんじ)や従兄弟で高倉プロモーションの専務だった日高康などに加え、本人が毎日通ったホテルパシフィック東京の理髪店店主や愛車を管理してきたエンジニアといった顔ぶれを指す。常時5〜6人が高倉の身のまわりにいて本人の世話をしてきた。

世田谷区瀬田にあった高倉の住まいは1970年1月に全焼し、11年10ヵ月後の’81年10月、母屋を含めたABC3棟のシックな洋館として新築された。片山がその家に思いを馳(は)せて語った。

「ところが、健さんは建てている途中に気が変わったんです。やっぱり俺が住むと言い出した。ほぼできあがっているのに、設計変更を何度も何度もやり、建築屋さん泣かせでした」

3棟のうちC棟だけは外国人に賃貸ししてきたが、当人はやはり江利チエミとの思い出の地に住みたくなったのだろう。歩いて5分とかからない法徳寺には、’82年2月に亡くなった彼女の眠っている墓があり、生前の高倉は深夜密かに墓前に跪(ひざまず)いた。だが、高倉邸は本人の死後取り壊され、まったくイメージが異なるドーム型の最新住宅に変わっている。

’14年11月10日に鬼籍に入った高倉健は今年7回目の命日を迎えた。昨年の七回忌に続き、今年の命日もまた実妹の森敏子をはじめとした親族が、郷里の福岡県中間(なかま)市にある菩提寺「正覚寺(しょうかくじ)」で亡き名優を弔った。敏子が言う。

「今年は驚きました。朝8時にお寺さんから『もうファンの方がお参りにお見えになっていますよ』と電話がかかってきまして慌てて向かったのです。すると、九州どころか、函館からも『手を合わせる場所があってよかった』とお見えになっていました。ファンの方は本当にありがたい。改めてそう心から感謝しました」

今年の命日は日暮れまで墓参するファンが絶えることがなかった。ファンの一人が唐突に映画の主題歌『網走番外地』を歌いだしたかと思えば、別のファンは負けじと地元九州をモチーフにした『対馬酒唄』を熱唱。大合唱になったという。だが、そこには最後に高倉本人を看取(みと)った謎の養女、小田貴(おだたか)の姿はなかった。

周知のように養女の貴は、高倉が息を引き取ると親族にも知らせず、急いで遺体を荼毘(だび)に付した。彼女から知らせを受け、渋谷区の代々幡斎場に駆け付けたのは、東宝社長の島谷能成(よししげ)など5人だけだ。実妹をはじめ親族たちは本人の死後、初めて養女の存在を知り、現在に至るまで一度も彼女と顔を合わせていない。

養女は親族に対し遺骨を散骨したと言い、生前に高倉が建てた鎌倉霊園の墓も取り壊してしまった。そのせいでファンたちは命日に供養したくともどこで手を合わせればいいかわからず、困惑してきた。だが、ようやく8年目になって遺骨のある場所が知れるようになった。

「いらしたファンの方々はこれまでお寺の墓のことをご存じなかったそうです。今度の命日を前に、私が共同通信のインタビューを受け、お寺にあると書いてもらったので、全国から大勢の方がいらして下さったのだと思います」(敏子談)

養女は斎場で映画関係者たちに高倉の遺骨を分骨した。それを不可解に思った一人が、敏子に遺骨を届け、三回忌のとき正覚寺の墓に納骨されたのだ。寺には高倉健の本姓である小田家代々の墓とともに、「寒青」と刻まれた碑が建つ。高倉の遺骨が納められた唯一の場所である。

「紹介したい人がいる」

高倉健が逝去して以降、ファンたちは故人を偲(しの)ぶ参拝の場を求めてきた。高倉プロの元専務日高が他の親族に断りもなく鎌倉に墓碑を建てたが、むろんそこに遺骨はない。先のチーム高倉メンバー、片山が次のようなエピソードを明かした。

「健さんと親しかったと自慢していた中国飯店のオーナーの徐富造(じょふぞう)などは、健さんが亡くなって間もなく祭壇をつくっていました。都内に何店舗もある中国飯店の中でも、芸能人などがよく使う麻布十番の富麗華には店主の自宅もあり、そこに健さんの祭壇を置いて店の客を呼んでお参りさせていたのです。健さんの車を管理していた一人が、長嶋茂雄さんを連れて行ったこともありました」

高倉と長嶋は若い頃から親しかった。いっしょに正月恒例の成田山新勝寺へ初詣をしてきた間柄だ。それだけに長嶋は脳梗塞で不自由な身体を押してまで、祭壇に詣でたのだろう。中国でも人気の高倉は映画のキャンペーンやロケでしばしば訪中し、その際に徐が案内役を買って出ていたという。片山が言葉を足す。

「たしかに富造はある意味、健さんに可愛がられていました。富麗華がオープンしたときは、健さんが使っていたジャガーを彼にプレゼントしたことまでありました。富造はその車のアクセルとブレーキを間違え、電柱にぶつけてすぐにオシャカにしてしまった。富造はそんな健さんとの仲を宣伝してきたから、長嶋さんもお参りしたのでしょうね」

徐に取材を申し込むと「そんなに親しくなかったので、取材はお断りいたします」と頑(かたく)なだが、もとより富麗華の祭壇には遺骨はおろか位牌もなかったという。

養女の貴はそんな高倉の遺産を独り占めにした。彼女については、これまでチーム高倉のメンバーたちも固く口を閉ざしてきた。が、先の片山は養女と何度も会ってきた、とこう明かす。

「彼女のことは健さんも秘密にしてきましたからね。知らない人も多いと思います。健さんと彼女が知り合ったのは20年以上前のようですが、亡くなる10年くらい前からいっしょに住み始めたのではないかな。ABCと3棟ある瀬田の屋敷ではAの母屋に健さんが住み、Cを外国人に貸していました。そこが空き家になって彼女が入った。このときなぜか表札が『日高』になっていた。そこに彼女が住んでいたわけです」

なぜC棟の表札が日高になっていたか。そこに高倉プロ元専務の日高がひと役買っている。日高は高倉が貴と知り合った翌年の’97年頃に本人から紹介され、二人の秘密を守るべく頼まれていた。万が一、屋敷に住む女性の存在が知られた場合、親戚だと言い逃れするための表札だった。

日高は’13年5月に貴が養女として入籍した際、保証人となり署名と捺印をしている。片山はこの養子縁組そのものを知らなかったという。が、瀬田の家で高倉から貴を紹介されたと打ち明ける。

「’02年のある日、健さんから『紹介したい人がいるから来てよ』と瀬田の家に呼ばれると、隣の部屋から彼女を連れてきました。そのあと突如、表札が日高に変わったわけです。もともと健さんの家には表札がなく、同じ頃に健さんから頼まれて玄関先にも小田という表札をかけたのでよく覚えています。つまり彼女はこのあたりから瀬田のC棟に住み始めたのでしょう。健さんの亡くなる前、知り合って17年ぐらいだとも言っていました」

話を総合すると、’96年に二人が知り合い、6年後の’02年あたりから別棟に彼女が住み始めたようだ。片山はそれ以降、正月などになると家に招かれ、彼女の作ったおせち料理をいっしょに食べてきたという。こうも呟(つぶや)く。

「お二人は仲がよかったですよ。健さんは最初はチビ、あとになるとタカって呼んでね。健さんから彼女の弟さんの乗っている車にカーナビをつけてあげてくれ、といわれてつけてあげたことまでありました。もちろんそのことはしゃべるな、と口止めされていましたけどね。ただ、チエミさんの墓もすぐそばにあるし、二人が結婚するとか、まさか養子縁組するなんて話はまったくなかったし、知らなかった。想像もできませんでした」

この間、高倉健は何人かの女性とも付き合ってきたが、それらはすべて死後になって判明した。チーム高倉のメンバーでも貴の存在を知っていたのはごくわずかだ。一方で、メンバーたちは毎日のように高倉と夕食をともにしてきた。が、なぜかそれも亡くなる2〜3年前から途絶えた。片山が言う。

「他の(チーム高倉の)人たちとは外食ばかりでしたが、東北の大震災のあと『これからはやめよう』と健さんが言い出し、家にも呼ばれなくなってなかなか会う機会が少なくなりました」

貴との関係発覚を恐れてのことだろうか、このあたりから様子が妙になっていったという。実は、片山は高倉が息を引き取る9ヵ月前の’14年の2月2日、恒例の善光寺参りにも付き合っている。

「最後の善光寺参りでした。このとき貴をお披露目したと書いていたところもあったけど、嘘です。あのときは健さんが行きの車を運転し、いつものように帰りは暗くなるから嫌だと言うので、私が運転しました。そのあと4月にボート(クルーザー)に乗る予定にしていたのだけど、『今病院の帰りで、身体の調子が悪いからやめとく』とガラガラ声で電話があった。それが最後に聞いた声でした」

それが慶応病院に検査入院したあとのことだ。悪性リンパ腫が見つかっていたが、片山にはそれも知らされていなかった。その半年余りのち、高倉健は急逝する。別のチーム高倉のメンバーは、死の直後、不可解な出来事があったと話した。

「瀬田の家には、健さんが毎日拝んでいた祭壇がありました。そこに健さんがお母さんとお父さんに抱かれている写真が飾られていた。亡くなったあとその祭壇ごと消え、壁になっていたのです。健さんは私とハワイに行ったり、修善寺に行ったりしました。旅行に行ったときも必ずその写真と線香を鞄に入れ、行く先の宿に並べて手を合わせてきました。大事なご両親の写真の祭壇がなくなってしまうなんて、どういうことでしょうか」

本人は旅行先でも欠かさず日記をつけていた。それも死後、まったく報じられていない。こうも語る。

「日記がどこへ行ったのか。いまだに出てこないのが不思議なんです。遺書もね。善光寺参りのときは元気に車を運転していたのでまさか死ぬとは思っていなかったでしょうが、日記がないわけがない。彼女が捨てたのでしょうか」

高倉健の死後、大切な思い出が次々と失われてきた。遺骨に手を合わせたファンの無念はいまだ晴れない。

(文中敬称略)

’11年9月、主演映画の撮影で富山を訪れた際の高倉。このときに撮影された映画『あなたへ』が遺作となった
’03年頃に撮影された、養女・小田貴の写真。このときすでに高倉健と同居生活を送っていたとみられる
今年11月10日、正覚寺の記念碑の写真。故人を偲んで多くの花が供えられた。森敏子氏提供

『FRIDAY』2021年12月3日号より

  • 取材・文森功

    ノンフィクション作家

  • PHOTO濱﨑慎治(1枚目) 等々力純生(2枚目)写真提供森敏子氏(4枚目)

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