全疑問に答えた! 安田純平〔これが自己責任論への回答だ〕

身代金は支払われたのか? なぜ私はバッシングされたのか?

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やすだ・じゅんぺい ’74年、埼玉県生まれ。一橋大学社会学部を卒業後、信濃毎日新聞をへて’03年からフリーランスに。著書に『囚われのイラク』『ルポ 戦場出稼ぎ労働者』など

スーツ姿の6人の男たちが病室を訪ねて来たのは、帰国して1週間ほど経った夕方5時頃です。10月25日にトルコから成田空港に到着した私は、その時、都内の病院に検査入院していました。名刺を受けとると男性たちは警察庁や外務省の職員で、テロ対策の担当者だという。

病室は20畳ほどの個室で、応接セットもありました。男性たちはイスに座ると、「シリアで人質として拘束されていた3年4ヵ月間のことを詳しく聞かせてほしい」と言ったのです。私は同席した妻(深結(みゆう)さん)の助けを借りながら、できるだけ詳細に自分の体験を語りました。男性たちは途中で質問することもなく、時折うなづいたり笑みを浮かべたりして、熱心にメモを取っていましたね。気づけば私は、5時間も話し続けていました。時計の針は夜10時を回っていました。

ようやく長い事情聴取が終わったと、ホッとしたその時です。それまでじっと黙っていた外務省職員が、突然口を開きキッパリとこう言いました。

「安田さん、政府は絶対に身代金を払っていません。テロリストに対してカネを払わないのが日本の大原則ですから」

私は唐突な発言に驚き、「そうですか」と答えるしかありませんでした。

こう語るのは、内戦下のシリアで’15年6月から拘束されていたジャーナリストの安田純平氏(44)だ。安田氏は本誌の取材依頼に応じ、40ヵ月に及ぶ地獄のような拘束生活から日本政府の対応、自身へのバッシングまで、すべての疑問に答えた。以下は120分間に及ぶ安田氏の独白だ。

3年4ヵ月ぶりのビールに涙

病院で検査すると、私の身体に様々な異変が起きていることがわかりました。拘束期間中に飲まされていたのは大半が不衛生な生水だったので、胃の中にはピロリ菌がいたんです。薬を服用してチクチクするような痛みは治まりましたが、現在も経過を見ている状態です。

椎間板ヘルニアになり、腰も痛めてしまいました。私は一時期、幅1m、高さ1.5m、奥行き2mほどの狭い独房に入れられていた。部屋の両側には常に犯行グループの人間がいて、少しでも音を立てると電気を点滅させたり高温にもかかわらず扇風機を消したりするイヤがらせをするんです。寝返りもできない。そんな状況が8ヵ月も続いたため、腰を痛め仰向けに寝られなくなってしまいました。私はこうした拷問に反発するため、20日ほど絶食したことがあります。体重は一気に10kgほど減少。骨と皮だけになり、現在でも食の細さは回復していません。

解放された喜びを最初に実感したのは、日本への機内で3年4ヵ月ぶりに酒を飲んだ時ですね。ビールと赤ワインの小ビンをそれぞれ1本ずつ飲み、アルコールの美味さをしみじみと感じ思わず涙がこぼれそうになった。気分が良くなり、同行した日本の記者たちに拘束生活について饒舌(じょうぜつ)に話したことを覚えています。

安田氏はなぜ危険を冒してまで、紛争地に赴くのだろうか。キッカケは高校時代の体験にあった。

湾岸戦争(’91年)の米軍による空爆映像をテレビで見ていて、「ミサイルが落ちる場所に住んでいる人たちはどんな気持ちなんだろう」と思ったんです。実際に現地へ行ってみたいと考え、一橋大学在学中にテレビ局や新聞社を受験。’97年に信濃毎日新聞に入社して、’03年からは紛争地を取材するためフリーランスになりました。「独立する」と言うと、父親は大反対しましたね。繊維会社に勤めていた父は、バブルで経済が破綻し組織を追い出されて仕事もない人を数多く見てきたようですから。ただ私は、「もう会社には辞表を提出してしまった」と言って押し切りましたが。

安田氏は、イラクやヨルダンなどで取材を重ねる。’04年に米軍のスパイと疑われイラクの自警団に3日間軟禁されたことはあるが、人質として長期間拘束されたのは今回が初めてだ。

狭い独房に入れられている時は、窮屈な姿勢で横になっている以外やる事がありません。普段の私はよく悪い夢を見て、目が覚めると「あれは現実ではなかったんだ」とわかりホッとしていた。不思議なもので拘束中は逆でした。家族とくつろいでいる幸せな夢を見ては、目が覚めるとコンクリートの棺桶のような部屋に押し込まれている現実に気づかされ、絶望的な気持ちになっていたんです。

「どこで人生を誤り、こんな状況に陥ってしまったんだろう」

考えるのは、そんなことばかり。フリーになる時に応援し助言をくれた新聞社の同僚や先輩ジャーナリストの顔が思い浮かび、なんでしっかりお礼をしなかったのだろうと強い後悔の念にもさいなまれました。恩人たちに感謝を伝えるためには、解放されなければならない。帰国すれば新しい人生をスタートできる。そう自分に言い聞かせていました。

犯行グループも、私を殺害しようとは考えていなかったようです。’16年5月に、「助けてください」と日本語で書かれたボードを持ち写真を撮られました。その時、着せられたのがオレンジ色の”囚人服”です。殺意があればアラブの人々が虐待を受けたことへの見せしめから、米軍のグアンタナモ収容所のモノを模した鮮やかなオレンジ色の服を着せます。しかし私が着たのは、市場で安く売っているような子ども用のTシャツです(3~4枚目写真)。撮影が終わり私からTシャツを脱がせると、片づけもせず置いていってしまった。この事からだけでも、彼らが本気でないことがわかりました。

外務省は何も知らなかった

帰国した安田氏は、政府から事情聴取を受けていた妻の深結さんから驚くべき事実を聞く。日本政府が把握していた情報がウソだらけだったのだ。

外務省の職員は「今年9月に信頼できるルートから得た情報では、イドリブ県(シリア北西部)の小さな民家に安田さんがいる可能性が高い」「外から見えないように塀が高くなっている」と話していたそうです。そんな事実はまったくありません。私はもっと大きな施設に入れられていましたから。妻によると政府は犯行グループを特定できず、私の確たる生存情報も持っていなかったようです。そう考えると、身代金を払っていないという政府の説明も納得できます。生存確認ができていない人間に対し、カネを払うことなど常識としてありえません。

今回の件で、私がバッシングを受けるのは当然のことです。勝手に危険な地域へ行き長期間拘束され、大勢の人々に迷惑をかけたのですから。政府が退避勧告を出している紛争地に行く以上、どんなことが起きても自己責任だと思います。私も覚悟の上で取材しています。

ただ妻や家族を批判するのは、やめてもらいたい。マスコミの取材を積極的に受け私の支援活動をずっと続けてきた妻は、必要以上に叩かれ大きなショックを受けました。犯した罪は本人の背負うモノで、家族に連帯責任はありません。

今後もジャーナリストとして紛争地に行くかは、今のところ白紙です。汚い言い方ですが、拘束されていた40ヵ月間に私が生み出したのは”排泄物”だけです。まずはピロリ菌による胃痛やヘルニアの腰痛を完治させ、何かしら生産性の高い仕事ができればと思っています。

11月5日に取材を受けた安田氏。飛行機の音を聞くと現在でも空爆を想起し身体が硬くなるという
犯行グループに着るように命じられた”囚人服”。実際は子ども用のTシャツで、デザインを隠すために裏返しにされた
’16年5月に公開された画像。着ているのは上の写真の子ども用Tシャツだった
安田氏が拘束時の心境をつづった色紙。11月2日に都内で開かれた記者会見で公開された
本誌未掲載カット
本誌未掲載カット
  • 撮影鬼怒川 毅 蓮尾真司写真時事通信社

Photo Gallary7

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