実は大成功だった…!?「金正恩独裁体制10年」を総点検してみた | FRIDAYデジタル

実は大成功だった…!?「金正恩独裁体制10年」を総点検してみた

維持を支えた父・金正日の遺産を堅持、さらなる飛躍

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27歳の金正恩が、北朝鮮の指導者になって10年。着実に独裁を強め、存在感を増していった若き指導者の歴史には血の臭いが充満している 写真:AFP/アフロ
27歳の金正恩が、北朝鮮の指導者になって10年。着実に独裁を強め、存在感を増していった若き指導者の歴史には血の臭いが充満している 写真:AFP/アフロ

2011年12月、北朝鮮の金正日総書記が死亡し、三男の正恩が独裁政権を後継した。それから10年、金正恩体制は存続し、強固な独裁体制を維持している。これは、金正恩の側からすれば、個人独裁体制を維持するという最優先事項を成功させたということになる。冷酷な独裁者の力を評価するのは本意ではないが、金正恩はその意味では「勝者」である。

これだけ情報ツールが発達した現代において、個人独裁を維持するというのは難事業だ。国内でも有利な立場の人間より不利な人間のほうがはるかに多いので、潜在的な反発ベクトルが常に生じるが、それを継続して抑え続けなければならない。

そのために必要なことは、徹底的な強権支配しかない。つまり金正恩はこの10年、徹底的な強権支配を一瞬たりとも緩めず、それによって権力を維持できたのだ。

27歳の独裁者

2011年12月17日に父・金日が69歳で死去したとき、金正恩はまだ27歳の若さだった。彼は3人の兄弟(および妹1人)の末弟だったが、後継者に抜擢したのは晩年の父だった。公式には、2010年9月に彼は党中央委員となり、すかさず党中央軍事委員会副委員長に就任した。権力世襲のわずか1年数か月前のことだ。

いくら独裁者の息子とはいえ、あまりに経験値が低い。しかし、そんな27歳の息子を強固に補佐する体制を、晩年の金正日は構築していた。党や軍の人事をかなり若返らせていたのだ。党や軍に豊富な人脈を持つ古参幹部は、若い息子の世襲体制にとって脅威になりかねないからである。

同年12月28日、金正日の葬儀では、金正恩とともに7人の高官が霊柩車に付き添ったが、その7人が最初の金正恩側近グループで、息子の権力維持のために父が決めた人選だった。筆頭は、金正恩の叔父の張成沢・国防委員会副委員長で、次が李英浩・党中央軍事委員会副委員長兼軍総参謀長である。

別格的な存在の張成沢は党行政部長として司法部門を含む党の実務部門を掌握しており、李英浩は晩年の金正日が大抜擢した軍のトップだった。この2人が党と軍を仕切ることで、金正恩体制はスタートした。ちなみに7人の他の人物のうち2人は高齢の党幹部で、1人は名目上の軍政トップの人民武力部長だが、それ以外の2人は晩年の金正日が抜擢した秘密警察「国家安全保衛部」の禹東測・第1副部長と、軍内政治統制機関「総政治局」の金正覚・第1副局長という権力内監視部門のツートップだった。

就任からまもなく、幹部の粛清が始まった

しかし、その直後から金正恩政権は、政権幹部をどんどん粛清した。その粛清を実行したのは禹東測・国家安全保衛部第1副部長だったが、彼自身が早くも2012年4月に失脚した。彼の消息は不明だが、裏権力を持ちすぎたために粛清されたとみられる。

軍でも、李英浩総参謀長の主導で多くの古参幹部が交代したが、李英浩自身も2012年7月に失脚した。李英浩失脚以後、張成沢の権勢はさらに強まった。また、軍内部の粛清を主導していた金正覚・軍総政治局第1副局長は、2012年4月に人民武力部長に就任したが、彼も同年11月には解任された(ただし、彼は後に一時復活)。

いずれにせよ、発足直後から金正恩政権は軍幹部を大幅に交代させ、軍内の掌握を急いだ。独裁体制がもっとも警戒するのは軍の反乱である。軍幹部に睨みを利かせることは、故・金正日が死ぬ前に、おそらく息子の後見人である義弟・張成沢に指示していたのではないか。

最高幹部の総参謀長と人民武力部長も、短期間で次々と交代した。軍指揮官でも、たとえば第一線の軍団長のおよそ4割が、政権発足2年の間に交代している。それにより、「軍の実力者」という存在はいなくなったといえる。

このように、金正恩体制発足直後から、熾烈な粛清が続いた。前述したように金正恩を補佐する体制を築いたのは晩年の金正日で、政権発足後の粛清の強化も金正日の遺言だった可能性が高い。

恐怖政治の新体制でナンバー2を処刑

だが、こうした恐怖支配の新体制で、金正恩の後見人である張成沢の権限がいっきに強化された。独裁政権の維持のために叔父の張成沢に頼ることも、金正日から息子への遺言と思われる。

ともあれこうして名実ともに張成沢が政権ナンバー2の地位を不動のものとしたわけだが、その権勢はわずか2年しか続かなかった。金正恩は、2013年12月に張成沢を処刑してしまったのだ。

ナンバー2という存在は、個人独裁にはきわめて危険なため、それを排除したという結果になった。金正日の死から2年後のことであり、さすがにそこまでは父の遺言とは考えにくい。おそらく「もう叔父の補佐がなくても自身の権力は揺らがない」と自信をつけた29歳の金正恩自身の決断だったと思われるが、その真相は不明である。

そして、この張成沢処刑によって独裁者としての金正恩の立場はより強固なものになり、恐怖支配はより盤石なものになった。体制の下で大きな権勢を奮った者、あるいは軍でも党でも少しでも忠誠心を疑われた者は、どれほどそれまでの功績があっても失脚あるいは粛清を免れないことが示されたのだ。

2015年には玄永哲・人民武力部長が銃殺されるなど、軍幹部への統制は続けられたが、それ以外にも、たとえば金正恩の指示により張成沢粛清で大きな役割を果たした黄炳瑞・党組織指導部第1副部長はその後、軍総政治局長、国防委員会副委員長と昇格し、2014年には実質的な政権ナンバー2となったが(2015年には党政治局常務委員、2016年には国務委員会副委員長にも就任)、2017年10月に失脚した。

また、前述した禹東測・国家安全保衛部第1副部長の粛清後に同部を率いた金元弘・国家安全保衛部長(後、国家安全保衛相)は、約5年間にわたって国内の弾圧を主導してきた人物だったが、2017年1月に失脚した。

生き残りのために忠誠を尽くす

このように、金正恩の指示によって他の幹部を粛清するという恐怖支配の実務を担当した側近たちも、それによって人々に恐れられる存在になれば、必ず自身も消される運命だった。幹部たちは文字どおり生き残るために徹底的に忠実さを示すしかないのだ。

政権指導部の要職を歴任しながらいまだに政権に残っているのは、一時は降格の憂き目をみながらもひたすら金正恩に忠誠を尽くしている党内序列2位の崔龍海・最高人民会議常任委員会委員長や、何度も降格されても生き残った金英哲・党統一戦線部長(元軍偵察総局長)など、少数に留まる。

寵愛する実妹・金与正の存在感

他方、政権のナンバー2として別格的な存在なのが、金正恩の実妹の金与正・党宣伝扇動部副部長だ。彼女だけは兄の寵愛を受けており、何かの責任を追及されるということもない。政権内部でもし誰かが金与正を批判したら、その人物こそ粛清の対象になるだろう。

なお、金与正はそのときどきで「党副部長」「党第1副部長」などと肩書きが変わっており、米朝首脳会談に同行したり、あるいは対韓国の非難声明を発表したりするなど、その表向きの役割も変化しているが、金正恩体制で不動のナンバー2であることは揺るがない。そのときどきの肩書きや役割で、政権内での地位が上下するものでもない。

じつは金与正は、2021年1月の党大会時に約30人の党政治局員の下に位置付けられていたのが、この12月17日の金正日10周忌追悼行事を報じる北朝鮮メディアが14番目に紹介したため、現在の党内序列が年初の30位圏外から14位に上昇したようだなどとみる向きもあるが、彼女に限ってはそこはあまり関係ない。

このように、国内を完璧な恐怖支配で統制することで、その王朝ともいえる極端な個人独裁は10年も生き残ってきた。では、この体制は今後も生き残るのか?

この予測はきわめて難しい。金正恩政権は今後も統制を一切緩めることなく、冷酷な恐怖支配を続けるだろう。ただし、いずれ将来、追い詰められた誰かが反乱を起こす可能性は残る。

振り返ると、1994年に初代独裁者だった金日成が死亡したとき、米CIAをはじめ北朝鮮情報を追っている機関、あるいは北朝鮮問題をカバーするメディアや研究者の大多数が、早期の政権崩壊を予測した。凄まじい粛清で超個人崇拝体制を築いてきた北朝鮮では、カリスマの死去によってその抑圧体制は維持できないと考えられたからだ。

しかし、2代目の金正日体制は存続した。90年代後期には国民に多数の餓死者が出るほどの凄まじい経済危機も発生したが、故・金日成が築いた恐怖支配は揺るがなかった。CIAや専門家が考えるよりずっと、北朝鮮の恐怖支配は強固だったのだ。

そこには2点、今後の北朝鮮を予想するうえで重要な教訓がある。1つは、徹底的な恐怖支配は強固だということだ。

しかし今後は「何が起こるかわからない」

金日成の跡を継いだ金正日も、その金正日の跡を継いだ金正恩も、前任者が築いた恐怖支配を踏襲・強化し、現代の世界では他に例をみないレベルの個人崇拝体制を維持した。それならば、今後も恐怖支配を緩める気配はない金正恩体制は続く可能性が高いということになる。

だが、もう1つの教訓を忘れてはいけない。将来には何が起きるか誰にもわからないということだ。つまり、金正恩体制が今後も生き残るかどうかはわからないのだ。

1994年には、大方の専門家の予測は外れた。一方、2011年12月に金正恩が権力を世襲した時には、すでに強固な独裁体制下で反乱の予兆もないことから、政権崩壊を予想する声はほとんどなかった。そして、その予測どおり、金正恩体制は維持された。

しかし、物事はどう動くかわからない。現在、北朝鮮では反乱の徴候は一切なく、体制崩壊の要素はまったくない。そのため、メディア上の北朝鮮問題に関するさまざまな分析・言説は、ほぼ金正恩体制がこのまま続くことが前提になっている。だが、仮に金正恩が重病にでもなれば、体制がこのまま安泰かはわからない。

独裁体制とは、常に反乱の萌芽を弾圧し続けないと維持できない脆弱なシステムだ。10年後、20年後、30年後、いつかは崩壊する可能性があるということは留意しておかなければならない。

  • 取材・文黒井文太郎写真AFP/アフロ

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