斎藤佑樹が明かす「ハンカチ王子」を背負った15年と第二の人生 | FRIDAYデジタル

斎藤佑樹が明かす「ハンカチ王子」を背負った15年と第二の人生

1本のビデオがきっかけになった’06年夏の甲子園優勝、プロ生活「最大の後悔」、第2の人生で成し遂げたいこと ほか

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毎朝6時半には起きてトレーニング。「肩の痛みを気にしなくてよくなって、毎日ぐっすり眠れています」
毎朝6時半には起きてトレーニング。「肩の痛みを気にしなくてよくなって、毎日ぐっすり眠れています」

<’21年10月17日のオリックス戦での登板を最後に、斎藤佑樹(33)が引退した。’06年の夏の甲子園で幕を開けた「ハンカチ王子」物語はフォアボールで大団円となった。15年にわたって、主人公として走り抜けた斎藤が「来し方行く末」を語り尽くす。>

断裂した右ヒジ靭帯(じんたい)の治療を終え、北海道日本ハムファイターズからもう1年、チャンスをいただいた時点で両親に会いに行きました。’20年の12月ごろです。「’21年シーズンで結果が出せなければ辞めます。その覚悟はしておいてください」と告げると、父は「覚悟はできているから、ファイターズに少しでも貢献できるように頑張りなさい」と励ましてくれました。悲愴感はなく、穏やかな顔をしていました。こんな活躍できない息子を、多くの方たちが支えてくれている……僕以上に父は感謝していたんだと思います。

右ヒジの靭帯は繋がり、痛みもなくなりましたが、右肩の故障はどうにもならなかった。’21年9月に引退を決断し、再び両親に会いに行きました。

「引退します。いままで支えていただいて、ありがとうございました」

テーブルに着くなり、僕はそう切り出しました。父は「ここまで野球をやらせていただけてよかったな」と、母は「皆様に感謝して、最後までしっかりやりきりなさい」と言いました。どこかホッとしているようにも見えました。

人生は選択の連続――挙げればキリがないほどの選択を重ねてきましたけど、一番大きかったのは高3春のフォーム変更ですね。

早実は’06年の春の選抜に出場しているんですが、準々決勝の横浜高戦に”コールド”で負け(3−13)ました。『このままじゃ、夏に甲子園には行けても優勝はできない』と打ちのめされた。何かを変えなきゃと模索しているなか、早稲田大学野球部の先輩が指導に来てくださって、『参考に』と渡されたビデオの中に佐竹さん(功年(かつとし)・38。早大→トヨタ自動車)の投球映像があったんです。軸足を曲げて沈み込むようにして投げる、後の僕のフォームのモデルになりました。

他のピッチャーのビデオもありましたし、和泉実監督(60)からは「シンカーを覚えたらどうか」というアドバイスもいただきましたが、僕に刺さったのは佐竹さんのフォームでした。

刺さった理由は「なぜ、そんな独特なフォームで投げるのか」。答えは「股関節を嵌(は)め込んで投げられるから」だった。その理屈は理解できなかったが、ブルペンで試してみると感触は良かった。夏の大会までほとんど時間がないなか、フォーム変更は賭(か)けだった。

大会の予選が始まっても新フォームはモノにできなかった。甲子園の準決勝(対鹿児島工。スコアは5−0)になってようやく手応えを掴めた。それまで僕の直球のマックスは145㎞でしたが、目いっぱい腕を振ってやっと出ていた。それが、ラクに145㎞を投げられるようになった。腕を振っている以上のボールを投げられるようになった。これは大発見でしたね。和泉監督もベンチで見ていて気づいたみたいで、甲子園が終わった後に「あの準決勝が3年間で一番良かったんじゃないか」と言っていました。

一方、「失敗だった選択」についても聞いた。たとえば、田中将大(33・楽天)に投げ勝って甲子園を制した高3の夏、プロ志望届を出さず早大進学を選んだのは正解だったのか。

いまもあのときの選択は1%も後悔していません。甲子園で優勝したとき、僕に一番なかったのが自信でした。「ハンカチ王子」と持ち上げられながら、同時に「できすぎだ」「人生そんなに甘くない」と思っていた。高校卒業後すぐにプロに進んでも、もしかしたら1年間ぐらいは勝てていたかもしれません。ただ、それを継続するとなると、当時の筋力や体力では難しいと痛感していた。もっと自分の身体を研究して強化するために、大学の4年間が必要だったんです。

むしろ僕が最も後悔しているのは、’12年のシーズン最終盤での選択です。右肩の疲れが抜け切らず、筋肉痛がずっと続く嫌な感覚があったのに、僕は投げ込みをやめなかった。あの年、プロ2年目の僕は開幕投手を任されて5勝をマークしました。ただ、後半戦は調子を落として戦力になれていなかった。結果が出ないから練習する。それでも結果が出ないからまた練習して、の繰り返し。

トレーナーにも「ちょっと肩が張っているので、ほぐしてください」とウソをついた。勇気を持って故障を報告し、肩をケアできていたら……。ただ、もしタイムリープして当時の僕に会うことができても、’12年の斎藤は言うこと聞かないでしょうね。それぐらい意固地というか、必死でした。

<斎藤が描いた未来予想図は「プロでローテを守りながら何年も二ケタ勝利を挙げる」だったが、プロ通算成績は15勝26敗。防御率4.34だった。

12月10日に『株式会社斎藤佑樹』を設立。斎藤は「1年以内には何かアクションを起こせるようにしたい」と言う。第2の人生で何を成し遂げるべきか、本誌からいくつか提案してみた。>

――五輪などスポーツキャスター。

他の競技を勉強するという意味では選択肢に入ってきますね。引退後は表舞台に出たくないという方もいますが、僕はそうは思わない。逆にテレビとかメディアの力を借りないと行けない場所、会えない人がいる。そこはいい意味で使わせてもらいたいですね。

――バラエティタレント。

気の利いたコメント、言えるかな……。

――野球解説者。

実はオファーがあったんです。あったんですけど「プロ野球での実績がないから」とお断りしました。僕が何を言っても説得力がないですよね。「そんなことないですよ」ってフォローされましたけど、そんなことあるんですよ!(笑)。もっと勉強して、データをもとに説明できるようになってからでないと。「24時間、寝ても覚めても野球のことを考えているような人がプロで大成する」という考え方がありますが、これって結果論だと思うんです。真に受けたチビッコが、僕みたいに違和感があるのに投げ続けて野球人生を棒に振ってはいけない。もしかしたら、脳科学に大成する鍵があるかもしれない。そういうヒントを集めていきたい。

――根拠を示して話せば、’12年の斎藤佑樹も説得できるかもしれませんね。

できますね!(笑)

――早実の監督はどうですか?

「やってみたい」と思う時期が来るかもしれませんが、現時点ではないですね。

――焼き肉店プロデュース。

フハハ! そんな余裕はないし、オファーもないです。

――プロゴルファー。

オオ。たしかにプロ野球選手はゴルフも上手かったりしますが、僕は趣味でやるぐらいでいいです。

――『佑ちゃんねる』開設。

ユーチューバー……素敵なお仕事だと思いますが、現段階ではないですね。

<プロ入り後は思うような成績を残せず、ネットに斎藤の記事が上がれば大炎上。目を覆うような罵詈雑言が書き込まれた。なぜ、斎藤は野球から距離を置こうとしないのか。>

4〜5年前から、栗山英樹前監督(60)は何かあるたびに僕にこう言いました。

「いまは苦しいだろうけど、ガムシャラに、泥だらけになってやる姿を皆に見せる責任が佑樹にはある」

と。邪念がスーッと消えました。

――「ハンカチ王子」という十字架を背負わされて、大変な野球人生でしたね。

皆さんそう言ってくださいますが、結果を出すことに必死でたしかに苦しかったけど、大好きな野球がこんなにも長くできて、僕は幸せでした。

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  • 写真小松寛之撮影協力野球殿堂博物館

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