雅子妃と紀子妃「皇族の妻」ふたりの女性の生き方が示すもの | FRIDAYデジタル

雅子妃と紀子妃「皇族の妻」ふたりの女性の生き方が示すもの

颯爽と輝く雅子さまを、もう一度〜亀山早苗レポート

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皇室のメンバーが揃う場で、それぞれの表情に浮かぶ思いが興味深い。新年の一般参賀は今年も行われなかったが、愛に溢れる1年になることを祈るばかりだ。写真は2020年の一般参賀 写真:ロイター/アフロ

皇室に対してとくに思い入れはないが、民間から皇室に嫁いだ雅子妃、紀子妃、ふたりの女性の生き方には多少なりとも考えさせられることはある。ふたりの生き方を否定する気などさらさらないが、個人的にはなかなかに謎だと思うからだ。彼女たちを皇室に嫁がせたのは、「恋愛感情」なのか「使命感」からなのか……。

人生の選択肢としての結婚

民間からの結婚という意味では美智子上皇后が先駆者である。皇室における本当の意味での「恋愛結婚」はここから始まったように見える。ただ、もちろん、皇室においては「男女の対等な結婚」はあり得ない。当時はそれでもしかたなかったのかもしれない。美智子上皇后は、それがわかっていて結婚したのだろうし、当時の皇太子を「ご尊敬申し上げ、ご信頼申し上げ」たがゆえの結婚だったはずだ。世間でいう「恋愛感情」とは若干のずれがあるのは時代的な影響もあるかもしれない。

雅子妃と紀子妃の場合は、もう少し時代も下って、女性の生き方の選択肢が広がっていたなかでの結婚だ。他にも人生の選択肢はあっただろう。

「紀子ちゃんスマイル」大人気プリンセスだった

先に結婚したのは紀子妃だった。1966年に、先般亡くなった川嶋辰彦(学習院大学名誉教授)・和代夫妻の長女として生まれ、幼いころは父の仕事の関係でアメリカやウィーンに滞在したこともある。英語はもちろん、ドイツ語も日常会話には問題がないという。

13歳で帰国してからは、学習院女子中等科、高等科へと進み、大学は文学部心理学科に入学した。大学校内の書店で1年先輩の秋篠宮殿下と出会い、以降、「自然文化研究会」のサークル活動を通して交際を深めていった。翌年にはすでにプロポーズされたが、即答は避けたという。それでも早い段階から宮中にも招かれ、当時の皇太子夫妻と歓談したりテニスをしたりと、「皇室」になじんでいったようだ。一方、秋篠宮殿下は、すでに紀子妃の父である「川嶋先生」のことは知っていたのだから、このふたりが親しくなるベースはできていたのかもしれない。

彼女は非常に活動的で、文化祭で手話劇を見てすぐに手話サークルに所属したし、大学内外の国際交流団体で留学生の世話もしている。婚約報道がなされたとき、彼女が外国の子どもたちにボランティアとして接している映像が流されていたが、明るくて生き生きと活動している様子が見てとれた。

24歳と23歳の「結婚」

婚約内定は大学を卒業し、同大学院に進学した年の夏のこと。まだ22歳。翌年1月に正式に婚約が決定したとき、紀子妃は23歳だった。今思えば、24歳と23歳の結婚だったのだ。

紀子妃の結婚は非常にすんなりと決まった。当時の住まいが学習院大学教職員用の住宅だったため、彼女は「3LDKのプリンセス」と呼ばれた。婚約内定会見で、「初恋の人ですか」と聞かれた紀子妃は、婚約者に「申し上げてよろしいですか」と問うた上で、「そうでございます」と答えた。このとき、私は軽いショックを覚えたのを記憶している。自分の意志だけでは通用しない世界に、この人は飛び込んでいくのだと思ったからだ。それが「皇室に嫁ぐ」ということなのだろう。そして「紀子ちゃんスマイル」と大人気になった彼女が、その笑顔の下で、こうした「皇室ならではのスキル」をすでに身につけていることに驚いた。皇室に向いている女性、もしくは柔軟に皇室になじんでいける女性だということを婚約内定会見のときから示していたのだ。

「均等法」時代のトップランナー

一方の現・皇后である雅子妃。1963年、外務省職員であった小和田恆、優美子夫妻の長女として生まれ、1歳で当時のソ連邦モスクワやスイス、アメリカで過ごす。小学校1年生のときに帰国して区立小学校に通うが、そのかたわら塾に行って私立小学校への編入を果たす。その塾が、美智子上皇后が雙葉小学校附属幼稚園に通園していた当時の担任教師が開設した塾だというから、これもまた「縁」なのだろうか。そして雅子妃は田園調布雙葉学園・田園調布雙葉小学校の3年生に編入学し、高校1年生まで田園調布雙葉で学ぶ。

’79年、父が在米日本大使館行使に着任したため、彼女もアメリカのハイスクールへ、その後はハーバード大学へ入学した。英語はもちろん、ロシア語やフランス語にも堪能だという。

‘86年に帰国し、東京大学法学部3年に学士入学するが、外交官を志してその年秋、外務公務員上級採用試験を受けて合格、87年に外務省に入省した。88年から外務省の研修留学としてオックスフォード大学に留学、90年に帰国して「北米局北米二課」に配属された。激務をこなしながら外交官としての礎を築いていたのだ。当時の彼女には、結婚の意志はなかったのではないだろうか。

雅子妃が徳仁親王(現・天皇)と知り合ったのは、1986年10月に来日したスペイン国王カルロス1世の長女、エレナ王女の歓迎レセプションの席だった。当時は外務公務員の試験を受けて合格したころだろうか。パーティーには、小和田条約局長令嬢として参加したにすぎなかったが、このときすでに天皇は彼女を見初めていたのかもしれない。その後、短期間にパーティで顔を合わせたり、一家で茶会に招かれたりしている。

87年の雅子妃の誕生日には、徳仁親王からの花束が東宮事務官を通じて小和田邸に届けられた。彼の思いは「雅子一択」だったのだろう。次第に「小和田雅子」の名前がお妃候補として挙がるようになっていった。

その誕生日直後、出勤するため実家を出てきた彼女はいきなり写真誌に撮影された。毅然として、「どこの社ですか。名刺を出しなさい」と一喝した姿が、なんとも潔く、かっこよかった。この人は仕事を取るのだろうと誰もが思ったはずだ。

だが、なかなか騒動は鎮まらない。留学先のオックスフォード大学近辺までメディアが追いかけてもいる。彼女は「私はお妃問題には、いっさい関係ありません。外務省省員としてずっと仕事をしていきます」と明言した。

長年の熱い思いに応え…

すでに皇太子となっていた徳仁親王は、その5年後の92年8月に、外務省関係者の自宅で彼女に再会することがかなった。彼女をずっと思い続けた皇太子は、その後もチャンスがあれば粘り強く説得を重ねた。10月になって小和田家から「気持ちが決まらない」と断りの連絡があったが、皇太子はめげなかった。12月、ついに彼女は皇太子の思いを受けたのである。

93年1月、婚約内定記者会見が行われ、「ハーバード大卒外交官」で「キャリアウーマン」であったことから注目を浴びた。彼女の会見は、紀子妃とは違い、「おうかがい」をあまり立てなかった。皇太子が話すと「ひとつ付け加えさせていただけるなら」と自分の意見を遠慮がちながら述べた。遠慮がちだったのは「記者会見」という勝手が違う場だからで、自分の意見を言わずにすませるような女性ではないことに、当時、私は少し胸のすく思いがした。

「一生全力でお守りする」理由

雅子妃は皇太子に言われたことを述べた。

「皇室に入られるということには色々な不安や心配がおありでしょうけれども、雅子さんのことは僕が一生全力でお守りしますからと、おっしゃってくださいました」

ひねくれた私などが聞くと、一生全力で夫が守られなければいけないような場所なのかと感じてしまうが、これは皇太子の魂の叫びでもあったのだろう。それほどまでに皇太子は雅子妃への思いを高めていたのだ。

雅子妃は外務省を辞めることが寂しくないと言ったら嘘になると話した。だが、「いろいろと考えた結果、今私の果たすべき役割というのは殿下のお申し出をお受けして、皇室という新しい道で自分を役立てることなのではないか、と考えました」とも。彼女にとって、結婚は外務省から宮内庁への転職に近い感覚だったのかもしれない。その後のお世継ぎへの過剰な期待、流産、ようやく生まれたのが女の子だったことなど、彼女にとっては「こんなはずじゃなかった」ことばかりだったのではないだろうか。

出産後しばらくして、ようやくニュージーランドとオーストラリアを訪問したときの輝くような笑顔が忘れられない。帰国後は、「海外へ行くのは生活の一部だったから、そうではないことに適応するのに努力がいった」と発言している。そしてこのあとの適応障害へとつながっていくのだ。

四半世紀を超えた結婚生活の「現在地」

皇后になってからの雅子妃は、すっかり落ち着いた笑顔を見せるようになっている。だが、そこには長い歳月を経て培った諦観のようなものがある気がしてならない。自分の人生をここと決めたものの、それが完全に「違っていた」と思っても、もう取り返しがつかない場所に来てしまったのだ。一般人ならやり直しが利くが、そうはいかない場所に身を置いてしまった。その思いで過ごした28年以上の時間……。

皇位継承第2位の秋篠宮と結婚した紀子妃も、それはまた同じかもしれない。ふたりの女の子を産んだあと、周囲の期待に応えるかのように長女と15歳、次女と12歳差の男の子を出産する。これも自分の役割のひとつと考えたかのように。そのとき、雅子妃はどう思ったのだろうか。彼女たちに意地の悪い気持ちを抱いているわけではない。そうした「場所」に嫁いでしまった女性ふたりの心理を考えると言葉がないのだ。

そして今回の眞子さんの一件。紀子妃もまた「こんなはずではなかった」とちらりと思っただろうか。「私より公」を優先させて生きてきた自身から見て、「公より私」を優先させて羽ばたいた娘を心のどこかで羨ましく思ったことはないだろうか。

コロナ禍がおさまったら、雅子妃には華やかに皇室外交を再開してほしい。キャリアウーマンのあのころのようにコートの裾を翻し、言いたいことを言う彼女をもう一度、見たい。

  • 取材・文亀山早苗写真ロイター/アフロ

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