同級生対談!藤波辰爾&角川博「コロナ禍でも元気に闘う方法」 | FRIDAYデジタル

同級生対談!藤波辰爾&角川博「コロナ禍でも元気に闘う方法」

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10年来の友人という歌手の角川博(左)とプロレスラー・藤波辰爾(右)。まさに”ざっくばらん”に語り合った…

‘20年春頃から猛威を奮ってきた新型コロナウイルス。‘22年もオミクロン株による脅威は増すばかり。

そんな中、コロナ禍で最も影響を受けた業種の一つが、芸能や格闘技などの“興行”だ。未曾有の日々を乗り越えてきたのが、今も現役で戦う“プロレス界のスター”藤波辰爾と“演歌界の重鎮”である角川博だ。

藤波はデビュー50周年を迎え、1月4日には東京ドームで行われた新日本プロレス『WRESTLE KINGDOM 16』に参戦。新日旗揚げメンバー唯一の現役選手である彼の姿に、観客は大いに沸いた。

一方の角川は、年末年始の歌番組に多数出演。昨年10月に発売した『四条河原町』はラジオ日本演歌チャートで発売後8週連続1位を獲得。『DAM/JOYSOUNDカラオケ演歌ランキング』では、過去の名作に交じって上位に食い込むなど、コロナ禍にも関わらず異例のヒットを見せている。

そんな68歳の“現役”同級生が、デビュー当時の苦労話からコロナ禍の興行のウラ側からおカネの話。さらに将来の展望など、「今だから話せる」と大いにぶっちゃけた――。

プロレスへの熱い思いを語った藤波辰爾。中学卒業後、この道に入ってから、今もリングの上で戦い続けている

藤波 こう改まった席だと何だかテレくさいですよね。考えると、僕らは10年くらいの付き合いですかね。

角川 共通の知人がいるんですけど、その方を通して10年前に藤波さんの40周年のパーティーで、僕が歌ったんですよね。それが初めてでした。そのときは同級生とは思わなかった。僕は藤波さんが少しお兄さんだと思ったの。

藤波 僕は反対に角川さんの方がお兄さんだと思ってた(笑)。

角川 藤波さん所有のバスで新潟や河口湖なんか、家族ぐるみで旅行したりしましたね。そのときに、「なーんだ同級生なんだ」って。しかも誕生日が3日しか違わないですからね。

そんな2人だが、社会に飛び出したのは藤波がひと足先。中学卒業後、プロレスラーになりたいという夢を実現させるため、日本プロレスの門を叩くのだが…。

藤波 中学2年生のころにプロレスラーになりたいって思った。でも、高校に進学しないって言ったんで、先生にえらく怒られましたよ。親にも反対されました。というのも、僕自身が格闘技をやるって性格じゃないんですよ。ケンカした経験はないし、人と争うことが嫌いなんです。

角川 えっ、そうなんですか?

藤波 そんな性格なのに、怖いもの見たさでプロレス見ているうちに、どんどん好きになって。だけど、柔道も空手もまったく経験ナシ。で、日本プロレスに押しかけ入門ですね。

角川 それってお給料とかはもらえたの?

藤波 出ないですね…。

角川 寝るところと食べるものだけって、昔はよくありましたもん。

藤波 若手は大部屋で食べるんですけど、先輩が後ろに立ってるんですよ。それがすごい威圧感で。

角川 その光景、分かるね(笑)。

藤波 「あんちゃん飯食え! 飲めって!」って、丼にドボドボってお酒つがれてね。今じゃ絶対にダメだけど、16歳だけど飲まないとダメだし、まあ、お酒の味なんて分からないよね。だけど、いびられてるとかっていう思いはなくて、“そういう世界なんだ”って思ってた。

角川 受け入れないと前に進めないもん。でも、辛くてやめようって思ったことはなかったんですか?

藤波 無いですね。当時は実家に帰ることって恥をさらすじゃないけど、親兄弟の元に戻れないって。だから、「辞めます」って言う勇気がなかったですよね…。ところで、角川さんはいつ歌手になろうと思ったんですか?

角川 クラブ歌手になったのが、高校卒業した18、19歳のとき。自分に合った仕事が無かったんですよ。洋品店に就職したんですけど、お客さんに似合いもしないのに勧めることができなくてね。「似合わないですよ」って言っちゃうのよ(笑)。

藤波 僕はプロレスに入るときに、就職って感じがなかったんですよね。ファイトマネーが幾らもらえるとか頭に無く、“とにかくプロレスがやりたい”ってだけ。だから、デビューが決まったときうれしかったですよ。最初のリングシューズって“お祝い”みたいな形で先輩が作ってくれるんです。それを履いて寝たくらい。でも、デビューしたての頃は連戦連敗。同期がいないんで相手は先輩だけなんですけど、いつ負けたか分からないくらい、ほとんど記憶が無かったですよ。終わったあとは、あちこちにコブが出来てたり…。

角川 藤波さんは「プロレスやるぞ!」って感じで入門していますけど、僕は歌手デビューをめざしてなかったんですよ。僕は仕事がなかったから、いとこがクラブ歌手していたんで、そこに入った。歌ってお金もらえるなんて、こんな楽な仕事無いじゃないですか。「それやりたい」って感じで。

藤波 歌には自信あったんですか?

角川 他の歌手の歌を聞いて、「そんな程度でクラブ歌手やってるの?」って思いましたもん。昔はカラオケがないから、町のお祭りなんかでバンドが来て歌うってことがあったんですが、うちのオヤジが上手かったのよ。それで、「息子も上手いな」って近所で言われてて。

藤波 血筋なんですね(笑)。僕も若い頃、歌を出したことがあったんですよ。当時はスポーツ選手が歌を出すというのが流行っていたころで、ジャンボ鶴田とかも出したんです。でも、実力が分かりましたね。APが1枚とシングルが2枚。自分の中でいい思い出なんですけど…(笑)。今思うと作曲家の先生とかに申し訳なかったなって。森雪之丞さんや山本正之さんとか、すごい方ばかりに作ってもらったんですけどね。

角川 僕だって頼めないような人ばかりですよ(笑)。

<藤波の代表曲といえば、自身の入場ソングにもなった『マッチョドラゴン』(作詞:森雪之丞)だろう。そのほか『GOGOドラゴン』(作詞作曲:山本正之)『ドラゴン体操』などがリリースされた。その個性的な歌声はインパクトが大きく、プロレスファン以外にも話題になった。

一方、角川は‘76年に『涙ぐらし』でデビュー。その年の日本レコード大賞や日本有線大賞などの新人賞を総なめにするのだが…。>

現在、新曲『四条河原町』が異例のヒットを続けている角川博

角川 クラブ歌手になったでしょ。でも、デビューしようなんて気は全く無かったんですよ。だから、スカウトが来ても断ってた。最初はボーイとか裏方をやったりしもしていて、その給料はありましたけど、歌手としての給料は無かった。その後、歌い手としての初めてもらったギャラは10万円くらいかな。昭和50年くらい。あのころサラリーマンの初任給が6万円とか7万円くらいじゃなかったかな。

藤波 僕が初めてもらった給料は2万7千円でしたね。そのときはまだデビューする前でしたから。猪木さんからもらうお小遣いの方が、給料より多かったですね。

角川 デビュー前に博多で歌っていたときは、月30万円くらいもらっていたんです。それにチップが月100万円くらいあったりする。だから、スカウト何度も断りました。この稼ぎを手放してまで行きたくないから(笑)。でも、お世話になった人から「ダメだったら戻ってくりゃいいじゃん」っていうから、軽い気持ちで東京に行ったんですよ。行った翌年4月にデビューして、その年のレコード大賞の新人賞を獲ってるんです。だから、なーんにも苦労してないの。ホント。

藤波 それすごいですね。僕はアメリカから帰国して凱旋公演するんですけど、それで角川さんくらいの額でしたよ。当時は1試合幾らでして、今みたいに年俸制ではないですから。デビューのころは1試合5000円とかですからね。

角川 18歳のころには、もうガンガン試合していたんですか?

藤波 新日に移籍して、毎日のように試合していました。一番多いときで年間260試合くらい。休んでたらお金もらえないので、痛くても騙し騙し、出ていましたね。だから、腰をおかしくしちゃって、あとあと大変なことになっちゃうんですけどね。

角川 プロでやっていけるなって思ったのはいつ頃なんですか?

藤波 海外に出てからですね。格闘技を何も知らずに入門して、先輩たちを“見よう見まね”がすべてでした。アメリカに恩師のカールゴッチという人がいたんですけど、‘75年くらいからそこに行って初めて格闘技というものの基礎を学んだんです。

角川 海外にはどれくらいいたんですか?

藤波 約4年間ですね。あまり苦労って感じたことは無かったですよ。子どものころからレスラーになって海外に行くっていうのは夢でした。ただ、当時は片道切符で、「帰ってこい」って言われるまで修行ですからね。ニューヨークのマディソン・スクエアガーデンでベルトを獲ったことで日本に呼び戻されるんですけど、あれで何も獲ってなければ、ずっと放浪の旅をしていたかもしれませんね(笑)。

家族ぐるみで旅行する間柄の2人。プライベートでも大の仲良しだ(‘13年山梨にて)

日本からは何のフォローもないため、藤波が自ら試合に売り込みギャラ交渉もしながら街から街を転戦する日々だった。だが、‘78年にニューヨークでWWWFジュニアヘビー級王座を獲得し凱旋帰国すると、『ドラゴン・ブーム』が巻き起こる。

藤波 行くときは誰も見送ってくれないですけど、帰国して羽田空港に着いたらマスコミがいっぱい集まってて…。もちろん会社がお膳立てしているんですけど、そんな事情分からないですから、同じ飛行機に海外の大物アーティストが乗ってるのかと思って、後ろ向いてたくらいですよ。当時はテレビの影響が大きかったので、どこに行ってもファンが付いてくるでしょ。リング上がると自分を目当てに応援しに来てくれている人がいるっていうのが分かるわけですよ。それはうれしかったですけど、プレッシャーもありましたね。

角川 藤波さんはなりたくてプロレスラーになったけど、僕はなりたくない歌手になっちゃったのよ(笑)。だって、レコードデビューしなくても、おカネあったからね。だから、お金貯めてお店やろうって思ってたの。なんで苦労して歌手としてデビューしなくちゃいけないのよって思ってたからね。売れるって保障はどこにもないですし、宝くじに当たるようなもん。そういう意味では僕は“プチ宝くじ”に当たったようなもの。いい事務所に入れたっていうのは大きいよね。藤波さんも新日っていう団体でやれたのが大きいんだろうね。

藤波 入ったのは日本プロレスですけど、新日は創立メンバーですからね。

角川 まあ、こうやって歌手としてやれて良かったのかどうかは、死ぬときに分かるんじゃないですか。あのままクラブ歌手なら、博多でビル建ててかも知れないじゃん。人間はどこでどうなるか分からないですもんね。歌謡界もプロレス界も昔の方が華やかでスケールが大きかったですよ。ただ、今はコロナ禍でコンサートが無くなって、歌わなくなるから声が出なくなるんですよ。藤波さんはトレーニングとかは欠かさずにしていたと思うんでけど。

藤波 興行という面でみると1年間うちはできなかったですからね。昨年はデビュー50周年ということでやったんですが、それでも会場には半分しか入れられないですし。

角川 我々の仕事って、客入れてやらないと意味のないものですもんね。配信って言ったって、“は?”っていう人も多いですからね。

藤波 スタジオマッチって言って、配信だけで試合をしているところもあるんですけど、それは選手としてやりにくいですよね。痛さを伝える人もいないし…。道場はいいんですよ。練習ですから。でも、試合っていうのは違いますからね。お客さんがいないとキツいんですよ。

角川 配信とかだとお客さんの反応が分からないですもんね。テンション下がっちゃいますよね。

藤波 プロレスってお互いギリギリのところでやっているんで、お客さんからの歓声で救われているところが多いんですよ。それがないと痛さが倍増するんです。これからは全盛期のような試合数はできないですが、年間30~40試合というのがすごくいいペースなんですよ。自分を目当てに来て下さるファンに向けて、自分なりにリングを上がり続けたいですね。そうすることで、変なんですけど自分の健康のためっていう部分もあるんですよね。身体を壊すスポーツなんですが、リングに上がるためには身体を鍛えないといけないですしね。70までは絶対にやってますね。

角川 僕は目標は作らないようにしているんですよ。目標を作っちゃうと、狭くなっちゃうでしょ。来たものを対処するっていうか。プロレスと一緒で、来るものをやっけるっていうかね。そういう感じかな。声が出る限り、ファンの前で歌っていきたいですけどね。

誕生日が3日しか違わないという2人。まさに同じ時代を歩んできた”戦友”だ
68歳ながら、現在も現役として刺激し合う藤波と角川

 

  • PHOTO鬼怒川毅(インタビュー)

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