芸歴60年 銀幕のスター・谷隼人が「やり残した二つのこと」 | FRIDAYデジタル

芸歴60年 銀幕のスター・谷隼人が「やり残した二つのこと」

今年で芸歴60年。銀幕のスターが温泉番組のタレントになったときの心境、高倉健や千葉真一との思い出の日々など、山あり谷ありの芸能生活を語りつくした

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行きつけの鎌倉のカフェで取材を受ける谷隼人
行きつけの鎌倉のカフェで取材を受ける谷隼人

東映の次期スター候補俳優から一転、バラエティタレントへ――。その端正な顔立ちから若かりし頃は“和製アラン・ドロン”として人気を博した谷隼人(75)は、まさに山あり谷ありの芸能生活を送ってきた。

故・千葉真一が主演した『キイハンター』、故・高倉健との『網走番外地シリーズ』など数々の名作に出演してきた谷だが、自身が主演を務めた映画が不入りとなり、責任をとる形で東映を退社。80年代から一変、バラエティ路線を主軸としてきた。

その後は妻・松岡きっこと共におしどり夫婦として旅番組に出演するなどしたが、ここ数年はお茶の間で見る機会がめっきり減った。そんな谷は今何をしているのか。

最近ハマっているという鎌倉散策中に通うようになった『eredge★Cafe』(鎌倉市常盤)にて、自身の芸能生活、兄貴と慕った高倉健との秘話、東映スター達とパスタとの深い関係について余すことなく語り尽くした。

谷:最近谷は何をしているのか、と久しぶりに会う人にはたまに聞かれますね。テレビの仕事はやっぱり減ってますから、そう思う人がいるのも仕方ないのかもしれません。コロナの影響もやはり大きくて、中止になったロケもたくさんある。

そんな背景もあって、最近ではもっぱら通販番組の出演が多いですね。あとは銀座の情報を伝える『ギンザワン』のYouTubeチャンネルやラジオにも出演したりしています。最近では熊田曜子さんとも共演しましたね。あとはデヴィ夫人とは変わらず親しくして頂いてまして、時々パーティの司会をしたりしていますよ(笑)。

もともと映画畑でやってきましたが、80年代からバラエティの仕事が多くなってきた。ビートたけしさんの『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』に出演したあたりから、そういうイメージが定着したのかと思います。当初は抵抗がなかったといえば嘘になりますが、主演した映画がコケてしまい、責任を取る形で東映を退社して、いざバラエティをやり始めたらすごく楽しかったんです。

映画が好きで俳優になったこともあり、舞台俳優は選択肢にはなかったんですよ。そんな流れでバラエティから旅番組、街ブラから温泉番組までやらせてもらった。ただ、グルメ番組だけはどうしても苦手でしたね。僕は自他共に認める食道楽ですが、判断基準が「旨い」か「マズイ」かしかないんですよ。だから旨いものを食えば「旨い」というけど、番組から求められる「味が広がって」とか「素材の味が」とか、そういった表現や言葉がどうしても出てこなかったんです。努力はしたけど、結局出来なかったなー(笑)。

逆に一番性にあったのは、温泉番組でした。番組の特性上「素の谷隼人」として振る舞っても良かったので、ありのままの姿勢で本当に好きなようにやらせてもらいました。肩に力をいれずにカッコつけない、そんな自分のスタンスとハマったんでしょうね。

結局は面白い人間が好きなので、そういう人と人との繋がりはずっと意識して芸能界で仕事をしてきました。今は空いた時間には奥さんと一緒にテレビ番組を見て研究するようにしていますが、明らかに私達の時代と求められることは変わってきているとも感じる。

私らの頃は、殺陣を一つ撮るにしてもスタッフさんと一緒に焼き肉を食って精をつけて、川崎の「ルートコ」(現在のソープランド)で汗を流して親睦を深めて仕事に臨んだりしていたから(笑)。そこまで関係が蜜だと、やっぱりそれが映像の質にも直結していた。時代は変わっても求められる限りはこの仕事を続けたいし、関わる人を楽しくさせたい、というのが私の今の思いです。

自分のキャッチフレーズである「燃えるラテン系」として、やれることをやってここで燃え尽きたい。確かに最近テレビで見る機会は減ったかもしれませんが、みなさん、私は元気です。

自身の半生を熱く語る谷隼人
自身の半生を熱く語る谷隼人

谷は芸能人としての振る舞い、男としての生き様などその全てを高倉健から学んできた、と強調する。ファッションや筋トレといったボディメイキングもそうだが、最も大きかったのが食へのこだわりだった。

谷:まだ私がハタチそこそこで水商売のボーイをやっていた頃です。健さんに初めて連れていってもらったのが飯倉のイタリア料理店『キャンテイ』でした。当時は鼻を垂らした何もわからないガキで、当然イタリアンなんか食べたこともなかった。そこではじめてペペロンチーノを食べて、言葉では言い表し難い衝撃を受けたんです。

バルサミコ酢を持ってきてパスタを食らう健さんがカッコよくてね。こんな旨い食べ物が世の中にあるのか、とずっと記憶の奥底にある。『キャンティ』ではガーリックトーストや、アラビアータの細巻きやミラノ風カツレツなど、色んな料理を教えてもらった。

当時、健さんに連れていってもらったメンバーは田中邦衛さん、小林稔侍さん、北大路欣也さんに僕と言った面子で、かなりの頻度で「キャンティ会」をしていた。それ以降僕はイタリアンがずーっと好きで、それは健さんの影響なんです。あの人はいろんなお店に行くわけではなく、自分が気に入ったお店にとことん通い詰める人だった。あの人が常連のお店はどこに連れて行ってもらっても、抜群にウマかったなー。

あれから50年以上経ち、私自身世界各国、国内のいろんなイタリアンの有名店に1000店以上行ってきましたが、あの時健さんに教えてもらったペペロンチーノを超える衝撃は経験してないんです。そんな中で日本全国ペペロンチーノの旨い店を探してきて、行き着いたのが鎌倉です。

鎌倉はパスタ料理の平均レベルが高い店が多くて、最近は時間を見つけて訪れています。年を取ったからか、時々あの時の様子が懐かしくて、無性に旨いペペロンチーノを食べたい時があるので。今はナパワインにもハマっていて、自分でも勉強して開拓していっている最中です。

健さんは生前、デミタスカップでコーヒーを1日30杯飲んでいて、私もそれに習いコーヒーにもこだわるようになりましたね。健さんとは17年間も仲違いした時期があって、その間を取り持ってくれたのが、小林稔侍さんだった。そういった空白の時間もあったからか、より健さんとの思い出に浸る時間が増えましたよ。健さんに頂いたロレックスのエクスプローラーをなくしてしまったんですが、そこから必死になって探して、全く同じものを買いました。

あの人は無口な人と思われがちですが、仲間内では全然違った。朝まで行きつけの店ばかりハシゴして語り明かし、翌日の撮影には平気な顔で大遅刻するような人でした(笑)。サウナやスポーツジムまで私が健さんにばかりひっついているから、その様子を見た外国人のお客さん達に笑われたのも良い思い出です。

名物のパスタを紹介する谷隼人
名物のパスタを紹介する谷隼人

今年は芸歴60年の節目の年でもある。俳優業からバラエティに司会業まで幅広い仕事で芸能界を生き抜いてきた谷だが、やり残したことが2つあるという。

谷:この年になると、芸能活動の締めとなる仕事についても考えますね。特に去年は『キイハンター』で共演して以降お世話になった千葉真一さんが亡くなったこともありますし。やっぱりね、映画の世界が好きなので、東映の先輩方のように自分がいた意義を示せるような映画を撮りたいんです。私は自分の事務所の名前を『グッドフェローズ』にしていますが、自分が観てきた『ゴッドファーザー』や『ディア・ハンター』のような人と人との絆をテーマにした、時代が変わっても人を惹き付ける作品作りに携わりたいんです。

鹿児島県で生まれたこともあり、鹿児島を舞台としたフィクションとノンフィクションが入り交じった輪廻転生をテーマとして映画を作りたい、というのが今の目標です。生まれ故郷への恩返しもそうですが、今の時代だからこそそういう作品を作り上げることに意味があると思っています。あとは、やっぱり健さんの墓前で手を合わせたい。今年で健さんが旅立たれて8年になりますが、実は一度も健さんにご挨拶ができていないんです。

これは私だけでなく、健さんに世話になった東映の方々も同じで、集まると必ずその話しになる。そのために越えないといけない問題はありますが、出来るだけ早く実現させたいな、と毎日考えていますね。

鎌倉散策のなかで見つけたお気に入りのカフェを訪ねる谷隼人
鎌倉散策のなかで見つけたお気に入りのカフェを訪ねる谷隼人
名物のパスタに舌鼓を打つ谷隼人
名物のパスタに舌鼓を打つ谷隼人
  • 取材・文栗岡史明
  • 撮影田中俊勝

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