悲劇は77年前の日本でも…東京大空襲「戦災孤児たちの慟哭」
ノンフィクション作家・石井光太が日本社会の深層に迫る!
世界は、ロシアがウクライナに仕掛けた戦争によって大きく揺れ動いている。現時点で死者はわかっているだけで民間人が約500人、兵士にいたっては1万人を超しているという報道もある。さらには間もなく都市部で空爆を含む大規模な掃討作戦が始まるのではないかと予測されているが、遡ること77年前の3月10日、日本では東京大空襲による空前の無差別殺戮が行われた。
この日未明に来襲した約300機のB29爆撃機は、おおよそ2000トンの焼夷弾を東京の下町に落とした。
木造の家屋は瞬く間に燃え上がり、あちらこちらで炎柱が竜巻のように渦を巻き、逃げ惑う子供や女性ばかりでなく、大きな馬までも吸い上げていった。
2時間半の空襲によって100万人が罹災し、約10万人の人間が炎に焼かれて命を落とした。
東京大空襲の惨劇は、戦争の残酷さを物語る象徴の一つとなっている。だが、この空襲を生き抜いた人々、特に幼い子供たちが、そこから何年、何十年と貧困、障害、差別を背負って生きていかなければならなかった事実はあまり注目されてこなかった。
私は戦争ノンフィクション『浮浪児1945—』を書くために、この空襲で肉親を失い、浮浪児と呼ばれるホームレスとして生きなければならなかった人々数十人に話を聞いて記録した。
その中から、戦争が子供に何をもたらすのか。戦争を生き延びることの悲劇とは何なのか。
世界が戦火に揺らいでいる今こそ、東京大空襲を生き延びた子供たちの生の声を書き記したい。
目の前で親が炎に焼かれ……

東京大空襲によって燃え上がった炎が鎮火されたのは、空襲から6時間以上が経った午前8時頃だった。
この頃、大勢の子供たちが親を失って、灰にまみれて右往左往していた。逃げ惑う中で親と生き別れになってしまった子供たち、目の前で親が炎に焼かれた子供たち。中には2歳、3歳の子供たちが立ちすくんでいることもあったそうだ。
親族が生きていた子供たちは、数日以内に見つけ出され、保護された。だが、そうでない子供たちは自らの力で生きていかなければならなかった。
こうした子供たちが集まった場所の一つが、焼け残った上野駅の地下道だった。3月の中旬は寒い日がつづいており、上着もろくに持たずに野外で眠っていれば凍死する恐れがあったため、子供から大人まで家屋を失った人々がひしめき合うように集まっていたのである。
その光景について、元浮浪児の1人は次のように語る。
「足の踏み場もなかったよ。ちょっとでもどこかへ行けば場所を取られてしまうから、みんな用を足したくなったらその場でやっていた。天井の低い地下道はもうすごい悪臭だったけど、大勢の人が肩を寄せ合っていたから温かくて、安心できたのを覚えている。ただ、朝起きたら入り口の近くで寝ていた人や、病気の人が何人か亡くなって冷たくなっていたよ。それを見ながら自分もいつかこうなるんだろうなって考えてた」
戦時中は政府が大きな力を持っていたため、炊き出しなどが行われていた。また、地方に暮らす親戚が東京大空襲の報を受け、心配しておにぎりをもって東京に暮らす肉親を捜しにくることがあった。肉親を見つけられなかった彼らは、持参したおにぎりを駅で暮らす浮浪児たちに配って田舎へ帰って行った。そうしたことで、なんとか食いつないでいたのである。
戦争が終わると、そうした様相が一変した。まず浮浪児の数が増えたのだ。当時、子供たちは学童疎開といって地方に移住していたが、その間に親を空襲で失っていた。そうした子供たちは東京にもどってきても住むところがなく、そのまま浮浪児となった。
さらに敗戦によって、軍人を含む大勢の人たちが海外からもどってきたことで深刻な食糧不足が発生した。配給はみるみるうちに減っていき、町で行っていた炊き出しも中止に追い込まれた。
自分で食糧を手に入れなければならなくなった子供たちが取った手段は次のようなものだった。
・駅で靴磨きや新聞売りなどをして稼ぐ。
・闇市で物拾いや物乞いをする。
・店舗や米軍の倉庫から物を盗む。
・ヤクザやパンパンの手伝いをして食べさせてもらう。
・スリをしたり、他の浮浪児から物を強奪したりする。
・町にいる猫やネズミやザリガニを食べる。
中には自殺した子も……

こうしてみると、小学生や幼稚園児くらいの子供たちが、弱肉強食の中に放り込まれていたことがわかるだろう。
こういう状況では、弱い子供であればあるほど不利になる。年齢の低い子、体の小さな子、気の弱い子などから順に食事を得られず、寝場所を失っていった。
元浮浪児の1人は言う。
「戦後になって貧乏に耐えられなくなって自殺していった子もいたよ。首を吊る場所もなければ、飛び降りる高いビルもなかったから、死にたい子は隅田川へ行って飛び込んだ。仲間と歩いていたら、いきなりその子が川に飛び込んで死んだこともあったよ。あとは列車のレールに横たわって轢かれた子もいた。バラバラになって野良犬に食われるのを知っていたから、あんまりやろうとする子はいなかったけどな」
自ら死を選ばなくても、死は身近なものだった。別の元浮浪児はこう語る。
「地下道での暮らしの中でおかしくなってしまう子もいたよ。俺の友達は、お腹が空いたって言って、いきなり犬の糞を食べはじめて泡を吹いてしまった。みんなで助けようとしたけど、そのまま死んでしまった」
こうした証言を見ていくだけで、子供たちがどれだけ過酷な状況に置かれていたかわかるだろう。
浮浪児たちの中でもっとも大変な思いをしたのが、女の子だった。彼女らは力の上では男の子に勝つことができないため、兄がいればそれに助けてもらうか、男の子のグループに加わって分け前をもらうかするしかなかった。
また、男の子だと12歳くらいになれば、労働力として見なされ、住み込みの仕事に就くことで路上生活を抜け出すことができた。中には、戦争で男手を失った家庭に養子としてもらわれる子もいた。
この点においても、女の子は不利だった。女の子は中学生くらいになってもなかなか労働力として必要とされなかったし、養子になるにしても男の子ほどの需要はなかった。
そのため、女の子たちが否応なく走ることになったのが売春だった。元浮浪児の女性たちの大半が口をつぐんでいるが、男性に尋ねると一様に次のような答えが返ってきた。
「女の子で性的ないたずらをされなかったとか、1度も売春をしなかったっていう子は、よほど年齢の低い子以外はいないんじゃないか。自分が知っている範囲では、12歳前後になっていれば、ほとんど体を売っていた。大人たちはそうやって利用しようとしたし、女の子もそうやるしか食べていく方法がなかったんだよ」
私自身、多くの発展途上国でストリートチルドレンの取材をしたこともあるが、女の子はもちろん、男の子でさえ、性的被害に遭っていない子の方が少ないというのが現実だ。それと同じことが戦後の日本でも起きていたと考えるのは不自然ではない。
こうした背景があるからこそ、当時「パンパン」「夜鷹」などと呼ばれていた売春婦たちは、浮浪児に対してとてもやさしかった。体を売って稼いだお金で、小さな子供たちにご馳走をしたり、家につれていって弟妹や子供のように面倒を見たりすることがあった。
ある浮浪児はそうやって家に住まわせてもらっただけでなく、読み書きや足し算といった勉強も教わっていた。その人物は次のように話した。
「パンパンのお姉さんからは、学校へ行けずに勉強ができなければ、大きくなってから生きてくのが大変になるって言われた。それでお姉さんから漢字や計算を教えてもらって、帰ってきてから試験をしてもらっていた。あの経験がなければ大人になった後すごく困っていたと思う。最低限の勉強だったけど、あのことがあったから、今生きていられるんだと思う」
社会の底辺で、弱い立場の人が、弱い立場の子を支える構造があったのだ。
あの子供たちの「今」
東京では主に終戦から2~4年の間に、浮浪児の保護が行われた。
当初は、受け入れ側の孤児院(児童養護施設)の体制や財政が整っておらず、子供たちは施設に入っても職員から虐待されたり、食事を出してもらえなかったりして、逃亡することが多かった。だが、1947年末に公布された児童福祉法によって少しずつ環境が整備され、施設で生活する子供たちが増えたのである。
だからといって、子供たちの生活が改善されたわけではない。社会的には「孤児」「元浮浪児」として差別の対象になっていたし、社会に出て働く時は保証人になってくれる家族がおらず不利益を被ることが少なくなかった。特に女性にとってその過去は大きな汚点となり、結婚後もあの手この手をつかって過去を隠して生きていくことを余儀なくされた。
こうした人たちがどのような人生を送ってきたのか。詳しくは拙著『浮浪児1945—』を読んでいただきたい。ここでは次のような証言を紹介しておこう。
あるホームレス支援者の証言である。
「90年代になって日本の貧困が大きな問題になって、ホームレス支援がはじまりました。この時、ホームレスだったのは当時60代の人たちだったんですが、その中には『俺は戦後ずっと浮浪児として生きてきたんだ。だから、今の生活なんて、子供時代にもどったようなものだよ』と言っている人たちが何人もいました。半世紀ずっとホームレス同然の生活をしていたんでしょうね。そう考えた時、元浮浪児の人たちがどんな大変な人生を送ってきたのかわかったような気がします」
浮浪児から暴力団構成員になった人は次のように語る。
「浮浪児って食べていくためにヤクザの手伝いをして、その中でヤクザになっていった人間もたくさんいた。俺自身もそうだった。刑務所へ行った時、当時上野駅で一緒に暮らしていた浮浪児が、別の組のヤクザになって捕まっていて再会することもあった。そうやってずっと社会の片隅で暮らしていった人もたくさんいたんだ」
この証言をした人物は、終戦から70年経って隅田川で自ら命を絶った。
東京大空襲から77年の今、元浮浪児たちは80代になっているが、今なおその不利益を被りつづけている人もいる。
ウクライナをはじめ世界で未だ戦争がつづく中、私たちはその事実をきちんと記憶に留めておかなければならない。
取材・文:石井光太
77年、東京都生まれ。ノンフィクション作家。日本大学芸術学部卒業。国内外の文化、歴史、医療などをテーマに取材、執筆活動を行っている。著書に『「鬼畜」の家ーーわが子を殺す親たち』『43回の殺意 川崎中1男子生徒殺害事件の深層』『レンタルチャイルド』『近親殺人』『格差と分断の社会地図』などがある。
写真:共同通信社 アフロ