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高校野球での経験があったから、世界の舞台に出場できた

「私の野球部時代」東京パラリンピックやり投げ日本代表・山﨑晃裕編①

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<あのプロ野球選手も、あの野球好き有名人たちも、ツラくてキツい野球部時代があったからこそいまがある。著名人たちがグラウンドを駆け巡った汗と涙の青春の日々を振り返る連載企画、今回は生まれたときから右手首の先がなかったが、ハンデを物ともせず野球漬けの日々を送った東京パラリンピックやり投げ日本代表・山﨑晃裕氏が語り尽くす>

東京パラリンピックやり投げ日本代表・山﨑晃裕さん
東京パラリンピックやり投げ日本代表・山﨑晃裕さん

東京パラリンピックの舞台と高校3年の夏の舞台は似ていた

無観客だったからか、自分が大人になったからか、心に余裕があったからか、そもそも競技が違うからなのか――。

2021年8月30日、東京パラリンピック陸上男子やり投げで新しくなった国立競技場に立った時の感情は冷静でした。でも今振り返ると、似ていたと思います。山村国際高校野球部3年で迎えたあの夏の感動に。ここまで辿り着いたことに対する自分への感動。この感動を味わう喜びを、僕はあの夏知ってしまった。極端にいえば中毒になってしまった。だからその後も似たような感動、光景を求めてきたのでしょうし、これからも求め続けていくのでしょう。

もし、“あの夏の1打席”がなかったら――今、どうなっていたのだろう?とたまに考えることがあります。ひょっとしたら高校生の時点で自分のやってきたことを否定してしまったかもしれない。そうしたら、スポーツから離れてしまっていたかもしれない。それだけ自分の人生を左右する夏でした。

「自分を絶対に見失わずに信じる強さ」。高校野球で、僕はこれを学んだのです。

創部3年目の山村国際高校へ

埼玉県の私立山村国際高校、通称「ヤマコク」は第一志望で受験した高校でした。鶴ヶ島第一小学校3年の時に、西武ライオンズの試合を生で見て感動して始めた野球。以来ずっと続けてきた野球を、まだ創部3年目だったヤマコクでやりたかったんです。

強豪校で自分を試すというのも考えましたが、まだ創部間もない野球部の歴史を自分たちで形作っていくことに魅力を感じたんです。夏の甲子園埼玉県予選で1勝も記録していない高校でしたが、説明会を聞きに行き、当時の伊藤剛監督とも話しているうちに気持ちが固まっていきました。

実際に入学が叶い、期待と不安を抱きながら入部した野球部。今でも憶えているのは最初のシートノックです。

野球部の歴史が浅かった山村国際は、僕らの代が加わって、初めて1年生から3年生までが揃いました。なので伝統校のような先輩後輩の厳しい上下関係もなく、入部直後も走らされっぱなしということもなく、すぐにボールを握らせてもらえました。監督は厳しかったですが、怖いというのとは違ったと思います。

最初のシートノックでは外野に入ったのですが、終わって帰る際、のちに監督となる大坂仁コーチに監督室へ呼び出されたんです。どうやらシートノックの時に初めて僕が片腕であることを認識したようでした。

「いいか、ここは勝負の世界だから。一人の選手として見るぞ」

その言葉がすごく嬉しかったんです。

「はい。もちろんそのつもりで来ました!」

プレーが至らなければ、もちろん試合にも出られない、ベンチにすら入れない覚悟はある。でも、ここまで一人の選手として野球人生を歩んできたという話をしました。コーチの言葉に“真剣勝負の高校野球の世界に来たな”とシビれました。

自分で工夫して磨いてきた技術

小学3年生の時に鶴ヶ島エンゼルスで野球を始めて、鶴ヶ島西中学校を卒業するまでの間に、キャッチャー以外のポジションは全て経験していました。その間、指導者の方に教えられながら、ずっと自分で工夫して技術を磨いてきました。

中学までは主にセカンドとピッチャーをしていましたが、例えばセカンドでダブルプレーをとろうとしたら健常者と同じフットワークでは成立しません。左手にはめたグローブでボールを捕って右手にグローブを持ち替えて左手で投げる。この一連の動作をスムーズに行うには、いわゆるお手本とされている型の逆のやり方が理に適っていたりします。

グローブから手を抜きやすくするようにウェブの部分をゆるめ、オーダーで手の差し込み口も広めに作ってもらう。捕球もポケットで捕らず土手に当てるいわゆる“当て捕り”の要領で、ボールを滑らせながらグローブを持ち替えると、いちはやく送球動作に入ることができる。捕球姿勢も、左手捕りなら本来左足を前に置くところで、右足を前に置いた方が自分の場合はスムーズに動ける。中継に入った際はあえて逆シングルで捕る……などなど。

グローブの持ち替えが早くできるように、いつもストップウォッチで計りながら練習していました。野球の教科書にはない身体の向きから力の入れ方、グローブ捌きに至るまで、全て自主練で身に付けていったんです。

いつの間にか、守備時にピッチャーが投球動作へ入る直前にユニフォームの腿部分で左手を拭くこと、毎回守備につく際にマウンドにあるロージンで左手をポンポンと叩く癖がつきました。手汗によってグラブスイッチの技術に支障をきたすのが問題だったからです。特に運動能力に秀でていたわけではありません。でも、こと野球に関しては毎日考えて、工夫して、必死にやっていました。

監督室でコーチからの言葉を聞いた時、そんなこれまでの努力を認めてもらえた、と直感的に感じた――だから嬉しかったのかもしれません。もしあの最初のシートノックで野球にならないと感じられたら、特別扱いされていたかもしれない。でも、高校入学時点で違和感なくナチュラルにプレーできるようになっていました。チーム内で片腕であることを特別視された記憶はありません。しばらくしてから、

「どうやって打ってるの?」

などと聞かれることはありましたが、大きな話題になることはなかったですね。メガネをかけて野球する人に「メガネかけてるの?」といちいち聞かないのと同じで、それぐらいプレーが自然だったのか、すんなりチームに受け入れてもらいました。

「高校3年、最後の夏までやりきる」

創部3年目の野球部。伝統はまだこれから形作られていく段階。とはいえ、練習は厳しいものでした。平日は授業後から始まって夜の21~22時くらいまで。1年時から練習に参加させてもらえたのは嬉しいことでしたが、家には寝るためだけに帰る日々が続きます。

覚えているのが「プライド」というメニュー。“このダッシュを乗り越えて俺たちの誇りにしようぜ”という意味が込められていました。100mダッシュして1分以内に元の場所に戻り、また走るの繰り返し。これが数十本。しかも全員が設定タイムを切らない限り延々と続く。これが練習の最後にあって……キツかったですね。

最もキツかったという意味では、一度試合で思うようにいかず「走ってろ」と言われて、外野のポール間ダッシュを2時間くらい続けたことです。あれは理不尽にもほどがありました(笑)。でも、今だから言えることなんですが、こういった完全に非科学的な練習を乗り越えていくからこそ、理屈では説明できない目に見えない力が高校野球には時として宿るんだとも思います。

最後まで残った同級生3人(右が山﨑さん)
最後まで残った同級生3人(右が山﨑さん)

同期は入部当初は7~8人でしたが、次々と辞めていき、最後には3人に。入部して間もなく辞めた人もいれば、結構食らいついていたのに辞めていった人もいました。残った3人で休み時間中に辞めたヤツのところに行って、廊下で説得したりもしました。

「全てを投げ出して逃げ出そう……」

僕も正直、毎日思っていました。でも、辞める勇気がなかった。当時の僕は野球しかないと思っていたから。部活から逃げ出せば楽になるかもしれない。でも、その後、挑戦するものがなくなったら生き方が分からなくなってしまう。その恐怖に比べれば、キツくても辛くても続けるほうが楽と考えていました。

右打席に入る山﨑さん
右打席に入る山﨑さん

それに、人数は減ったものの仲間がいてくれたことが心強かった。後にキャプテンとなる飯塚祐貴、菊地大輝、そして僕。3人でよく話していたのは「高校3年、最後の夏までやりきる」ということ。高校生って、まだ知っている世界は決して広くはありません。

その中で、毎朝早くから起きて野球漬けの日々、どうしたら報われるかと言ったら最後の夏を迎えること。そのことだけを、それこそ「プライド」を毎日乗り切る。高校2年の夏に、コーチから昇格していた大阪監督と交わした会話を今も覚えています。

「高校野球人生、どうしたい?」

「最後の夏で必ず活躍したいです!」

上手くなりたいとか、勝ちたいという以前に、高校3年の夏にとにかく輝きたい。これが僕らの代3人の共通した目標になっていきます。

(第2回へ続く)

  • 取材・文伊藤亮

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