同じハンデを持つジム・アボットに憧れて…あるパラ選手の回想 | FRIDAYデジタル

同じハンデを持つジム・アボットに憧れて…あるパラ選手の回想

「私の野球部時代」東京パラリンピックやり投げ日本代表・山﨑晃裕編②

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<あのプロ野球選手も、あの野球好き有名人たちも、ツラくてキツい野球部時代があったからこそいまがある。著名人たちがグラウンドを駆け巡った汗と涙の青春の日々を振り返る連載企画、今回は生まれたときから右手首の先がなかったが、ハンデを物ともせず野球漬けの日々を送った東京パラリンピックやり投げ日本代表・山﨑晃裕氏が語り尽くす>

投手としてマウンドで力いっぱい左腕を振る山﨑さん
投手としてマウンドで力いっぱい左腕を振る山﨑さん

高校野球の公式戦で登板した最初で最後の試合

高校で希望していたポジションはピッチャー。自分と同じ先天性右手欠損というハンデを克服して、メジャーリーグで87勝を挙げた偉大な左腕、ジム・アボットにずっと憧れていたからです。

「高校野球の舞台でエースになりたい」

それが入部当初の目標でした。しかし、やはり高校野球で投げることは簡単ではありません。1年生で練習試合に登板した時、いきなりホームランを2本浴びました。“どうしてこんなに打たれるんだろう?”と思っていた時に監督に呼ばれました。

「セットポジションをやってみろ」

僕はピッチャーの時は、アボットのようにまず右手にグローブを乗せて構えるんですけど、握りが丸見えだったんです。左投げなので、握りが相手のファーストコーチャーから見える。するとサインでバッターに球種を伝えられてしまう。中学まではやられたことのない対策でした。あと、一番難しかったのはバント守備です。それこそバント攻めにあう試合もあり、バント処理の練習をひたすらやっていました。

「人のできないことをやろうとしているのだから、人一倍練習しないといけないし、人一倍頭を使わないとダメだ」

監督にそう言われ、ただでさえ練習が厳しいのに、プラス自分でやらなければいけないことが増えていきました。それはそれでモチベーションになっていましたが、乗り越えるべき壁はますます高くなっていきました。

自分たちの代になって迎えた高校2年の秋。僕はエースナンバー「1」を背に秋季大会へ臨むことになりました。大会直前までとても調子が良かったことが評価されたのかもしれません。ただ、監督は背番号で野球はしない考えでしたので、実質2番手ピッチャーでした。

埼玉県西部地区予選1回戦。狭山清陵を相手に5-4で勝利も、自分に登板機会は巡って来ず。そして迎えた所沢北との代表決定戦。この試合が、高校野球の公式戦で登板した最初で最後の試合になりました。

本当にボコボコに打たれました。結果は0-17の大敗。さらにこの試合で左バッターに対して頭部にデッドボールを当ててしまったんです。以来、インコースを投げることに恐怖心が芽生えました。投手として壁を乗り越えられず、インコースへ投げる恐怖心も根付いてしまった。この先、どうすれば最後の夏に輝くことができるのか。その後の冬、監督にこう直訴します。

「最後の夏は野手、もしくは代打でもいいのでバッティングで勝負したいです」

この時期、バッティングの調子がとてもよく、代打で結果を出し続けていたことからの思い付きでした。

右打席に入る山﨑さん
右打席に入る山﨑さん

僕は左投げ右打ちです。アボットは左打ちでいわゆる「テニス打ち」の要領で打席に入っていましたが、僕は試行錯誤の末、バットが振り切れて、しかもインパクトの際に右手で押し込める利点を活かして右打ちにしていました。右手で押し込む力を強めるために、タイヤ当ての素振りを何千回と繰り返しているうちにパンチ力がつき、山村国際の練習拠点である戸宮グラウンドはレフトがやや狭いとはいえ、柵越えできるまでになっていました。

「とりあえず1週間考えてみろ」

監督にはそう言われましたが、自分の中でピッチャーに対する未練は驚くほどになく、既に肚は決まっていました。それ以来、野手メニューに加わるようになって、代打として最後の夏を目指すことになります。

野球中心の学校生活の中で

いまも鋭くキレイなスイングは健在
いまも鋭くキレイなスイングは健在

先ほど言ったように当時の僕は野球が全てだったので、学校生活の記憶はほとんどありません。ヤマコクは実家から自転車で通学できる距離にあったとはいえ、朝も早かった。しかも「朝練」ではなく「朝掃除」。山村国際では当時、剣道部とバトン部、そして野球部の生徒たちは毎朝、校舎の掃除をするところから始まりました。

そんなこと、嫌がる生徒もいそうなものですし、実際にいましたが少数派でした。やるしかない、と割り切って毎朝やって来る生徒が多いのが学校の特徴だったかもしれません。

一方で朝が早いので、どうしても授業はおろそかになりがち。自分が心がけていたのは「赤点を取らない勉強をする」。赤点を取ると再テストなどで練習に行けなくなってしまう。そんなこと、監督には絶対に言えない。なので、ここは絶対にテストに出る、というポイントだけを絞って必死に記憶する。勉強の仕方に関しては、小学生時から工夫しながらしてきた野球の練習法が役立った……と言いたいところですが、実際に赤点を取っちゃったこともあります……(笑)。

バトン部には、当時心を寄せている女子生徒がいました。強豪校の野球部は一目置かれていてモテる、なんて話を聞きますが、当時のヤマコクにおいて野球部は決して特別な存在ではありませんでした。野球部と剣道部は坊主だったので、僕はそのことを言い訳にしていましたけど(笑)。

そのバトン部の子とは、高校2年の時に修学旅行で気になって、仲の良かった剣道部の友人を通じてメールアドレスを交換しました。そしてメールのやりとりを頻繁にしてたのですが、学校の廊下ですれ違っても声をかけられず。メールはできても一言も喋れないまま卒業してしまいました。相手も少しこちらを意識しつつ、でも互いに歩み寄れずすれ違う。思春期というかなんというか……甘酸っぱい青春の思い出です(笑)。

高校生らしいな、と感じたのは食事です。中学まであった給食がなくなり、メロンパンなどをかじるようになって高校生活を実感していたのですが、

「昼に最低2合の白飯を食べろ」

と言われ食生活が一変します。当時僕は体重が58㎏でガリガリ。しかも食が細い。ピッチャーとして球速を伸ばすなどということを考えたら、身体を大きくしたり体重を増やしたりすることが求められました。そのことを試合の後に監督が母に話したことで大きな弁当を持参することに。

毎日ご飯とおかずで大きなタッパーが2つ。なにせ食が細いので食べるのに時間がかかります。午前中の授業終了のチャイムが鳴った瞬間にタッパーをあけてご飯を掻き込む。当時何を食べたかを思い出すと、とにかく米、米、米。そして卵焼き。米だけでなくタンパク質を、という親心で母は入れてくれたのでしょうが、これがパサついて喉を通らないんです。それでも妥協はしたくなかったので、残しておいて練習前に食べるなど意地で完食していました。

その成果か、体重は高校時代に15㎏ほど増量。もともと体重が増えやすい体質だったのかもしれません。この時の経験が、その後のアスリートとしての食生活にも活かされています。それにしても、毎日タッパー2つを食べ切るのは大変でした。食事というより、もはや練習の感覚。野球部は決して特別視される存在ではありませんでしたが、食事に関してはクラスの注目を集めていたと思います(笑)。

東京パラリンピックでは見事7位入賞を果たした
東京パラリンピックでは見事7位入賞を果たした

高校3年の夏に辿り着けた感動

日々の厳しい練習を乗り越えていくことも大変でしたが、同期3人でチームをまとめていくことにも苦労しました。自分が1年の時、先輩の3年生――山村国際高校野球部の第1期生――は4人しかいませんでした。一方で2年生は人数が多く、我々1年生はまた人数が少ないという、少しいびつなバランスになっていました。先輩たちが少ない人数で後輩たちをまとめていく苦労をその時見ていたのですが、同じ苦労を我々も味わうことになります。

自分が最終学年になった年、野球部は約50人ほどの所帯になっていました。3年生3人で後輩40人以上を見なければなりません。先輩、後輩とは一緒に帰ったり食事に行ったりする間柄で、きっと他校より距離感が近かったはずです。一方で野球部は、ちょうど自分のひとつ下の代から選手をスカウティングするようになり、実力のある選手たちが入部してきました。しかも個性派ぞろい。

それこそひとつ下の世代のキャッチャーだった堀内汰門は、2014年のドラフトで福岡ソフトバンクホークスに育成選手ドラフト4巡目で指名された逸材でしたし、僕らの引退翌年の夏に、開幕戦で強豪の花咲徳栄を破るという大金星を挙げることになります。そんな優れた後輩たちと共に、先輩としてどうチームをひとつにするか、上級生として何ができるか、3人で悩んだ時期もありました。

飯塚は「番長」と呼ばれていました。荒々しいキャラクターでは決してありません。初対面の時に僕のことを先輩と間違えて挨拶してくるような人柄。元々班長だったところから「番長」と呼ばれるようになったといういわれです。菊地はそのまま「キクチ」なんですけど、番長と裏腹にオラオラ系の外見。でも実は小心者という複雑なキャラクター。ちなみに僕もそのまま「ヤマザキ」と呼ばれてましたが、先輩たちからは「おいザキヤマ!」と呼ばれていました。

そんな飯塚と菊地が、チームのことで悩んで摑み合いの喧嘩になるなんてこともありました。僕が間に入って取り持つという3人のバランスでなんとか日々を乗り越えていっていました。

その番長こと飯塚が3年の夏の甲子園予選直前に、みんなの前で涙を流しながら熱弁したことがありました。たしかチームで戦う重要性を説いたと思うのですが、彼の涙でチームがひとつになった確信がありました。

そして遂に迎えた高校3年生の夏。同期3人でひたすらフォーカスしてきた最後の夏。それだけ懸けてきた舞台を目の前に緊張しそうなものですが、余計なプレッシャーは全くなく、ここまで辿り着けた感動しかありませんでした。

僕の背番号は7でしたが、代打という役割。2回戦からの登場になった山村国際の初戦の相手は桶川西。下馬評は圧倒的に桶川西有利でした。たしか有力な左ピッチャーがいたはずです。しかし蓋を開けてみれば9-0で7回コールド勝ち。僕は代打として準備はしていたものの、出場する機会はなし。でも山村国際野球部史上初の夏の予選勝利です。入部の動機だった「歴史を作りたい」希望が叶ったことに、めちゃくちゃ喜びました。

(第3回へ続く)

  • 取材・文伊藤亮

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