最後の夏が僕をパラリンピックに導いてくれた
「私の野球部時代」東京パラリンピックやり投げ日本代表・山﨑晃裕編③
<あのプロ野球選手も、あの野球好き有名人たちも、ツラくてキツい野球部時代があったからこそいまがある。著名人たちがグラウンドを駆け巡った汗と涙の青春の日々を振り返る連載企画、今回は生まれたときから右手首の先がなかったが、ハンデを物ともせず野球漬けの日々を送った東京パラリンピックやり投げ日本代表・山﨑晃裕氏が語り尽くす>
その後の人生を決定づけた打席で
2013年7月16日。上尾市民球場での3回戦。相手は深谷商業。この試合が、僕のその後の人生を決定づけることになります。
試合は序盤から点の取り合いになり、5回まで6-2でリードしていたものの、6回表に2年生エースが打ち込まれ一挙に5失点。1点ビハインドとなりましたが、その後、ピッチャーを交代してなんとか流れを食い止めた7回裏。2アウト満塁という場面を迎えます。
「山﨑!」
序盤からベンチ裏で代打に備えてバットを振っていた僕に監督から声がかかりました。それだけで、出番がやって来たことを察知しました。監督の中では、もともと僕を代打に出すタイミングを決めていたみたいです。チャンスの場面でどの選手に打席が回ってきたら山﨑を代打に出す、と。ちょうどそのタイミングがこの場面でやって来たんです。今思えば、運命に導かれて用意されたような舞台でした。
自分でも落ち着いているのが分かりました。審判に急かされるくらいにゆっくり打席に入っていったと思います。吹奏楽部が応援に来てくれていましたが、音はいっさい耳にはいってきませんでした。
目指していた3年の夏で迎えた勝負どころ。自分にとっては究極の場面。なのに、なぜ落ち着いていられたのか。
その時考えていたのは、緊張などは超越して“絶対にやらなければいけない、男として結果を出す場面だ”ということ。“よく野球の神様がいるというけど、本当にいるならば絶対に結果が出る”。それだけ自分がやってきた過去に自信があったんです。
深谷商業の右ピッチャーが投じた第1球はワンバウンドになるストレート。2球目がスライダーでストライク。1-1のカウントからきた3球目は外角のストレートでした。
余計なことは考えず、これまでやってきた自分を信じて思い切って振り抜いた瞬間、
「あ、やばい。打ち取られた」
と感じました。打球はファーストの後方へのフライになります。しかし、一塁に向かって走っているうちにファーストコーチャーの
「あ、落ちる!」
という声に頼もしさをおぼえ激走。打球はファースト後方、ライト線際にポトリと落ち、逆転2点タイムリー2ベースに。
セカンドベース上で腕がぶっ飛ぶくらいガッツポーズをしました。そして、山村国際が入っていた3塁側ベンチで大坂監督が返してくれた小さいガッツポーズ。3年間で初めて監督にガッツポーズしてもらったあの瞬間の光景を、今も鮮明に覚えています。
実はその後レフトの守備に入って、一度だけライナーが飛んできたんです。たまたま正面ですっぽりグローブに入ったので事なきを得たのも強烈な思い出です。が、やはり7回裏の場面で僕を代打に送り出してくださった監督の勇気、そして代打として出してもらえる権利を獲得した自分のこれまでの努力。あの1打席、一振りに3年間の全てが凝縮されていました。
試合はそのまま8-7で勝利。山村国際は4回戦に進みました。試合後の反響はとても大きいものでした。「片腕の高校球児が決勝タイムリー」みたいな見出しの記事が拡散され、ツイッターでは5000~6000リツイートくらいされていました。その後、東京国際大学に進学してからも、「あの時の子だよね」ってよく言われました。野球を続けてきて多くの方に注目され、評価を受けたのは、これが生まれて初めての経験だったんです。
今やっていることが正しいと思える強さ
僕たちの最後の夏は4回戦で終わりました。川越東に0-9の5回コールド負け。この試合で自分が代打で出るタイミングは訪れませんでした。
ちなみに、共に最後の夏を目標に切磋琢磨してきた同期2人ですが、ベンチ入りはしたものの試合に出ることはありませんでした。
飯塚はキャプテンとして周囲を和ませることに長けていたので、ベンチから伝令に出る際、「わざとコケる」ことを考えていました。でも川越東戦で訪れた伝令の際、ロボットのようにギクシャクと行ってなにもせず戻って来るという失態を演じ、いまだにイジられます(笑)。
菊地は控えに回っていました。ただ、最後の川越東戦でイニング間にキャッチャーが防具を装着している間にピッチャーのボールを受ける機会がありました。ちょうど地元テレビ局に中継されていて、そのことで緊張が増したのか、ピッチャーにまともにボールを返せず。本人は「親指がつった」と弁明していましたが、これも僕達の間で今に至るまでの語り草になっています(笑)。
目標としていた最後の夏を、ほかの2人がどう感じたのかは分かりません。でも、今になっても色褪せない素晴らしい思い出となっていることは確かで、かけがえのない仲間であり続けていることに違いはありません。
4回戦でコールド負けを喫した後、戸宮グラウンドに戻って最後のミーティングをしたのですが、不思議と涙は出てきませんでした。
別に目標としていた最後の夏に活躍できたからいい、といった充実感があったわけではなく、
「アスリートとしての自分はここで終わりじゃない。また新しい目標に向かおう」
とすぐに切り換えている自分がいたんです。
その後、大学に進学した年にタイミングよく身体障害者野球のWBCが行われることを知った僕は、すぐに挑戦することになります。日の丸を背負って戦い、優勝&MVP。しかし反響は、深谷商業戦の時と比べればびっくりするくらいありませんでした。
かつてアボットから与えてもらった可能性と勇気を、今度は自分が同じように与えたい。そのためにはたくさんの人の注目を集めなければならない。いろいろな縁やタイミングがありつつ、そういう思いを抱いてパラリンピック競技の陸上男子やり投げの世界に身を投じることにしました。
ただ、自分の心を覗くと、やはりあの最後の夏の1打席で見た光景を追い求めているんだと思います。もしあの時の打球がファーストフライで終わっていたら、その先の人生は違っていたはずです。
自分が今やっていることが本当に正しいことなのか。それは結果で証明されるまで分かりません。不安や迷いに襲われる中、それでも努力を怠らなければ必ず結果は出る。その可能性を信じさせてくれた高校野球はなによりも大きな財産です。
高校時代と違って、パラアスリートとしての今は競技も生活の一部になっています。さらにパラリンピック東京大会という自国開催のプレッシャーもあり、出場権を争っている間は怖さもあり、車を運転中も考え事をしたり、夜眠れない時期もあったりしました。
でも、自分を信じ続けることができたから東京パラリンピックの舞台に辿り着くことができた。7位入賞という結果よりも、まずは自分の成長が感じられた達成感のほうが強く残っています。ただ、まだ道はなかばで、勝負はここからです。高校3年の夏の体験をもう一度味わうべく、次のパリパラリンピックを目指していきます。野球、スポーツ、いや人生において神様はいる。この確信を持ってパリで証明してきます。
- 取材・文:伊藤亮