小浜高校野球部監督・溝田澄夫「34年前の忘れ物を取りに」 | FRIDAYデジタル

小浜高校野球部監督・溝田澄夫「34年前の忘れ物を取りに」

時を超える「昭和の高校野球」②

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〈令和を迎え、戦術や練習法、トレーニング法など、劇的な進化を遂げている高校野球。その中にあって、“昭和の高校野球”にこだわり続ける名将たちがいる。一見、時代錯誤のように見える彼らの考えには、現代にも通じる確固たる信念があった〉

長崎県立小浜高校野球部監督・溝田澄夫

半世紀以上グラウンドに立ち続ける男

2021年夏の甲子園が準決勝に差し掛かったその日、春夏通算3度の優勝を誇る帝京の前田三夫監督の勇退が明るみになった。1972年の就任から50年目という節目での花道だった。

希代の名将の勇退を耳にして、あるひとりの大ベテラン監督の名が脳裏をかすめた。長崎県立小浜高校の溝田澄夫監督だ。〝昭和最後の長崎県代表〟として小浜を甲子園に導いた実績を持つ溝田監督は、1946(昭和21)年10月14日生まれの74歳。大学を卒業した1970(昭和45)年の3月26日から監督として小浜のグラウンドに立ち続けているから、現時点でなんと53年目のシーズンを迎えている。全国的にも極めて珍しい〝半世紀監督〟のひとりだ。

大垣日大の阪口慶三監督が1967年の東邦監督就任から数えて通算55シーズン目に突入、一昨年亡くなった木内幸男監督も取手二、常総学院を率いて通算50シーズン、2015年に勇退した横浜の渡辺元智監督が45シーズン、歴代1位の甲子園68勝を挙げた智弁和歌山の高嶋仁監督が智弁学園時代との合算で46シーズンの監督歴を誇る。

40年超でも充分に長期政権といっていいが、やはり半世紀も監督として現場に立ち続けているのは異例中の異例である。53年目を迎えた今なお、同一校で一度も監督の座を退いていない溝田監督は〝超人的〟と言わざるを得ない。

昭和最後の長崎県代表として夏の甲子園へ

この溝田監督、まず経歴が面白い。福岡の西南学院大を卒業してすぐ、自ら「監督をやらせてもらえませんか」と小浜高校に売り込み、念願だった高校野球の監督となった。島原半島の千々石町(ちぢわちょう)という小さな町(2005年から雲仙市)で、1929年(昭和4)年創業の衣料品店を営みながらの外部監督として現在に至る。当時は軟式野球部で、最初の部員はわずかに3名。しかも、大学を出たばかりの溝田監督は普通自動車免許を持たず、最初の1年は路線バスでグラウンドに通っていたという。

1974年秋、チームは晴れて硬式野球部に。これも溝田監督が「雲仙から甲子園を目指す為に」と近隣住民に署名を募り、自ら職員会議に提出して学校側を動かした。それから14年が経った1988年、小浜は昭和最後の長崎県代表として第70回夏の甲子園に出場。多くの県民が「無理だ」と諦めていた「島原半島から甲子園、雲仙から甲子園」という悲願を、溝田監督は成し遂げたのである。

時代遅れと言われても

21年春、県準優勝を果たした小浜ナイン

そして2021年春、小浜はわずか16人の精鋭で県準優勝と躍進した。創成館、長崎日大と強豪私学を次々に撃破し、1988年夏以来の県制覇へあと一歩まで迫ったのだった。その戦いぶりにおいても、大ベテランらしい堅実かつ再現性の高い野球をひたすら繰り返した。走者が出れば有無を言わせぬ教科書通りの正対バントで次の塁へと送り、まずは1点を取りにいく。展開に関係なく、ビッグイニング狙いの強攻は極力避けていく。

「時代遅れと言われますが、確率の高い方法を選んでやっている以上、どうしても基本に忠実な野球になってしまうのは仕方ありません」

春の県大会準優勝後の表彰式では「普段から言っている“足りないものは補い合いなさい”という言葉を、生徒たちが見事に体現してくれました。高校野球の素晴らしさ、魅力を体現してくれました」と目を細めた。かと思うと、悔し涙を流す選手には「みっともない!“泣くな、笑うな、はしゃぐな”がウチのモットーだろ!」と雷を落とす。〝半世紀監督〟は、高校生の感情表現についても持論を曲げようとはしない。

「あの王貞治さんが著書の中で『甲子園のマウンドでガッツポーズをしたら、お兄さんにこっぴどく叱られた』という話を書いておられた。まずは相手を敬うこと。私たちの時代は、ガッツポーズをするという発想すらなかった。その点、感情を爆発させがちな現代っ子の思いとは逆行するかもしれませんが、この点に関しては私のわがままを聞いてもらおうと思っております」

球数制限への考え方

熱血指導は健在

投手の肩、肘への障害を守る健康上の理由から、一昨年から採用された「1週間500球ルール」が何かと騒がれている。そんな中、2021年の小浜のエース・中野拳志郎(専修大)は春の大会で全6試合を完投したのだ。どこを切り取っても1週間で500球に抵触していないのだからルール上は何ら問題がない。しかし、年々風当たりを増す世論に対してはどうなのか。ここでも、溝田監督はどこまでも腹を括っている。

「もちろん複数の投手がいることが理想です。左がいればなお良いですね。ただ、ウチのように部員の少ないチームでは、普段は二遊間を守りながら、状況に応じてショートリリーフできる存在がいることが理想。ただ、そういう選手がいなかったら仕方がありません。1週間500球ルールも、当然あったほうがいい。しかし、ウチのように小さな野球部では、先を見越した戦い方がしたくてもできないのです」

溝田監督はここまで言い切っている。

「高校野球の良さは、ひとつ負けたら終わりというドラマ性にある。となると、どうしても“この試合を絶対に勝ちたい”という気持ちになってしまうのは仕方がありません。少なくとも私が監督をやっている以上は、そういう戦い方になる」

一見、時代に逆行しているかのような意見だが、さすがに50年以上、高校野球に携わってきた人物だけあって、発言が的を射ている部分も少なくはない。

指導者たる者、選手と一緒に歩きなさい

「学生野球には変わってはいけない部分がある」と、溝田監督は言う。だがそれは、「指導者こそブレてはいけない」ということを意味しているのかもしれない。

「学生野球の指導者たる者は、選手と一緒に歩きなさい」

大学時代に授かったというこの言葉の意味を、指導生活50年を過ぎた今になって、ようやく受け止められるようになったそうだ。

「選手より前を行き過ぎてもダメ。遅れすぎてもダメ。もちろん時代によって歩幅や歩くペースが変わってくることがある。私の指導経験から、その変化する周期は15年ぐらいでやってくると実感しております。その都度、私自身が行き詰まりを感じて悩むのですが、肩を並べて歩いていれば、決して無理な指導にはならないのです。過去には私の歩調が明らかに先行し過ぎてしまったがために、3年生部員8名が私の店に退部届を置いて帰っていったこともありました。もう少し生徒の後ろから尻を叩いてあげられるような歩き方も、時には必要だったかなと思います」

今夏の甲子園出場を目指す溝田監督と小浜ナイン

34年前の忘れ物を手にするために

小浜史上唯一の甲子園となった1988年夏は、1回戦で常総学院に1対19という大敗を喫している。あれから34年の月日が流れたが、溝田監督の中には今もひとつの後悔が燻って消えない。

「甲子園は打ち上げ花火。それ以外の高校野球は線香花火なんです。もちろん大きな花火は綺麗で、一度に多くの人により大きな感動を与えることができます。一方で、小さな範囲で少人数に深い味わいと感動を与えるのが線香花火。小浜のように細々とやっている地方の高校は、まさに線香花火。もちろん、『もう一度、甲子園で打ち上げ花火を』と思ってやっています。

ただ、34年前の夏は私自身が甲子園のあまりのスケールの大きさに、完全に飲み込まれてしまいました。監督がしっかりしていないと大変なことになる。甲子園への出場が決まると、半端じゃない数の人の波が押し寄せ、今まででは想像もつかない出会いの広がりもある。

そんな状況で果たして生徒を掌握できるのだろうか。出発前から疲れ果ててしまい『もう甲子園には行かなくていい。長崎県優勝だけで充分だ』という気持ちになってしまいました。甲子園に行った時点で、私自身が完全に疲れ果ててしまっていたのです。もし、もう一度チャンスが与えられるのなら、今度は堂々とその巨大な打ち上げ花火と正面から向かい合ってみたいもんです」

指導者生活50年を過ぎた今なお、老将の闘志は衰える気配を見せない。昭和最後の夏に置いてきた忘れ物を、いつか手にするその日まで。溝田澄夫の夢は、年々大きくなっていく一方だ。

  • 取材・文加来慶祐

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