「三元号勝利を目指す」クラーク記念国際監督・佐々木啓司の覚悟 | FRIDAYデジタル

「三元号勝利を目指す」クラーク記念国際監督・佐々木啓司の覚悟

時を超える「昭和の高校野球」①

  • Facebook シェアボタン
  • Twitter シェアボタン
  • LINE シェアボタン
  • はてなブックマーク シェアボタン

〈令和を迎え、戦術や練習法、トレーニング法など、劇的な進化を遂げている高校野球。その中にあって、“昭和の高校野球”にこだわり続ける名将たちがいる。一見、時代錯誤のように見える彼らの考えには、現代にも通じる確固たる信念があった〉

センバツ初戦・九州国際大付戦で指揮を執る佐々木啓司監督

青年監督とツッパリキャプテン

「長く野球をさせてもらえたからこそ、感じていること、理解できたことがたくさんある。やっぱり、長くやってダメになることもあるけど、長くやらないとわからないこともあるんだよね」

クラーク記念国際高校野球部監督・佐々木啓司の言葉だ。

高校野球の指導者として45年目のシーズンを迎えた闘将はすでに夏に向けて動き出している。「ヒグマ打線」で知られた駒大岩見沢で35年、深川市に本校がある広域通信制のクラーク記念国際ではまもなく8年になる。昭和3勝、平成6勝。27歳で挙げた甲子園初勝利から39年が過ぎた。

「駒澤大学時代、帰省するたび母校の駒大岩見沢で練習を手伝っていたのに、監督に就任した瞬間、選手にとって先輩から敵になった(笑)。当時の私は人間的にも未熟で指導力もないから当然選手たちから反発されましたね。伝手を辿って関東第一高へ勉強に行きましたよ。当時はまだ珍しかったウエートトレーニングを取り入れて、徹底的に打ち込む日々。選手たちは反抗的でしたが、言い換えれば反骨心があった。心も体も強かったかな」

青年監督は選手とともに汗を流しながら成長し、就任5年目、1982年の秋季北海道大会で初優勝を飾り初の甲子園出場を確実にした。

就任以来、毎年体力測定をしても、この甲子園初出場時の数値を超えたことがないという自慢のチームは、1983年のセンバツで今治西(愛媛)、久留米商(福岡)を破って北海道勢18年ぶりとなる8強入り。夏は箕島(和歌山)に3対5で敗れたが吉井理人(元近鉄ほか)に11安打を浴びせて最終回に猛追。「ヒグマ打線」は一躍全国区となった。

センバツでは初戦敗退。すでに夏に向けてチームは動き出している

「たしかにみんな運動能力が高かったけれど、一番大きかったのがキャプテンの佐藤一也君の存在ですよ。彼は地元・岩見沢の〝番長〟でいわゆるツッパリ君(笑)。彼の周囲にはなぜか人が集まるし、統率力がある。ギラギラしたエネルギーがすごい。彼をキャプテンにしてそのエネルギーを野球に向けさせ、選手たちの目を彼に向けさせようと思ったら、佐藤君も意気に感じてくれた。漢気のあるキャプテンとして引っ張ってくれたんだよね」

20代の若き熱血指導者によるがむしゃらな練習にツッパリキャプテン。佐々木監督が築いた「昭和の高校野球」が濃密な人間関係と信頼関係を拠り所にしたものだとしたなら、今の時代に最も必要なことのようにも思える。

「まずやってみろ」が通じなくなった

いかつい風貌の青年監督がベンチから大きな声で吠え、喜怒哀楽を表現する姿からいつしか「ヒグマ打線」と親しまれ、佐々木監督を慕って選手が集まり始めると学校からの期待も大きくなった。

「当初から寮で選手と共に生活していてね。一緒に生活することで選手の内面がわかるし、そうすることで自分の指導スタイルも明確になった。高校生って指導者の言うことを聞かないから。もちろん『ハイ!』とは言うけれどまず聞いていない。でも先輩の話なら聞く。だから先輩から「監督はオマエにこうなってほしいから言っているんだぞ」と後輩に伝えてもらう。そのあたりは『阿吽の呼吸』かな。部内にそんな風土ができてくると、放っておいてもいいチームになった」

佐々木の指導が結実したのが1993年(平成5年)センバツ。大府(愛知)、世田谷学園(東京)、八幡商(滋賀)を撃破して北海道勢30年ぶりの4強入り。北海道が沸きに沸いた。

半面、この頃から綻びも見え隠れし始める。

「先輩からの厳しい言葉が逆効果になったりすることが目立つようになり、寮内の問題も増えてきた。『絶対にこの学校で甲子園へ行きたい』という中学生が少なくなり、義理人情、情熱が伝わらない悔しさを何度も味わった。野球そのものは変わらなくてもトレーニングが進化して情報は過多。『まずやってみろ』が通じない。平成の中盤以降は高校野球も過渡期だったと思う」

地獄だった寮生活が一変した

佐々木監督は積極的に新しいことを取り入れるアイデアマンとしても知られている。帽子のマークを「K」1文字から横書きの「KOMAZAWA」にしたり、遠征用のバスに「ヒグマ」のイラストをラッピングするなど率先してチームの雰囲気を盛り上げてきた。頑なに続けた寮生活もその一つ。これは駒大岩見沢が2014年3月に閉校し、同年4月創部のクラーク記念国際監督就任時にも強く希望、現在も廃校になった中学校の校舎を改築した寮で40数名の部員と寝食を共にする。

「寮での生活面では昔と違ってまったく心配ない。こちらが驚くほどに先輩後輩問わず仲が良くて、普段から楽しそう。そこに少し不満もあるけどね(笑)。昭和から平成の寮生活って地獄だったはずでしょ。指導者が常にいる。先輩の目もある。寝ている間にライバルはバットを振っているかも、といった焦り。それが見えてこないね。

今の寮の周囲には何もなく、週に数回の買い出しが楽しみな程度の生活環境。その一方、Wi-Fi完備でスマートフォンもある。情報に触れるのも簡単だから人に聞かなくてもわかった気になる。なんとなく自分たちはやれるのではないか、勝てるのではないか、と思っちゃうんだよね」

2013年、駒大岩見沢野球部最後の試合を終えて

正直で何ごとも赤裸々に話してしまう昭和の匂いが漂う親分肌。人生を捧げた母校の野球部をなくした傷は深い。今の選手たちにはクラーク記念国際野球部の伝統を作ってほしいと願う。

21年秋季大会でセンバツ出場を確実にした選手たちにメダルを授与

今春のセンバツは強豪相手に延長戦の末サヨナラ負け

「昨年夏の7月18日に3年生が負けて、新チーム発足時、久しぶりにバントの型を『手取り足取り』徹底的に指導したんだよね。手の位置、バットの方向、膝の使い方など。以前なら先輩が指導したり、見よう見まねで全員が普通にできたことですよ。確率的にバントじゃなくて強攻の方がいい、そんな風潮も確かに一理ある。それでもこの秋、しつこく送って粘って優勝できた。高校野球は効率の良さや確率、技術だけでは勝てないことを改めて感じたね」

クラーク記念国際としては初めて、佐々木監督にとっては14年ぶり9度目のセンバツは初戦、強豪・九州国際大付を相手に延長戦の末に2-3でサヨナラ負け。だが、確実に2つの犠打を決めた。「勝ったと同じくらい、いい試合でした。北海道に帰ってまた鍛えます」

駒大岩見沢での監督経験が、クラーク記念国際に活かされている

最後に聞いてみたいことがあった。

昭和58年、甲子園初出場のチームを今の佐々木監督が指導していたなら、どんなチームになったのだろうか。

「実はそれをよく考えるんだよ。当時、徹底的にダウンスイングさせたけど、レベルスイングで少し下からフルスイングさせていたら、とんでもないチームになったんじゃないか、とね。でも、当時の彼らなら、66歳の私の言うことなど聞かないでしょ(笑)。うるさいわ、って。

当時26歳の佐々木啓司と選手たちの関係性だったから、あのような結果が出たのかもしれないし、彼らをもっと勝たせたかった、という懺悔の気持ちが私自身の力にもなった。今の私だったらなぁ、と彼らに詫びて、悔やむくらいがちょうどいいんじゃないかな(笑)」

佐々木は、監督としての三元号勝利を目指して夏に向けて吠え続けている。

  • 取材・文長壁明

Photo Gallery5

Photo Selection

あなたへのおすすめ記事を写真から

関連記事