「離島・大島高校の挑戦」彼らにはきっと夏が待っている | FRIDAYデジタル

「離島・大島高校の挑戦」彼らにはきっと夏が待っている

「22年センバツ」インサイド・レポート

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8年ぶりの挑戦、前回は21世紀枠、今回は実力で出場権を勝ち取った。秋季九州大会準優勝の実力を引っ提げ臨んだセンバツ。離島のハンデを乗り越えた戦い。ただ、現実は甘くなかった。奄美大島、そして大島高校の野球はそれでも進化を続けている〉

8回169球を投げ切ったエース大野稼頭央(撮影・小池義弘)
8回169球を投げ切ったエース大野稼頭央(撮影・小池義弘)

離島ゆえの制約、それを乗り越えて

高まる手拍子、そしてメガホンの音。緑一色に染まった一塁側アルプスが、一番の盛り上がりを見せる。91死一、二塁から大野稼頭央が四球を選んで満塁。大島(鹿児島)が、初めて走者を三塁まで進めた場面だ。

2014年、センバツに初出場した奄美大島の大島高校。前年秋の県大会ベスト4による、21世紀枠での選出だった。今回は、昨秋の鹿児島大会を県内の離島の高校として初めて優勝し、コマを進めた九州大会でも準優勝と堂々の一般枠での選出である。21世紀枠で甲子園に出場したチームが、ふたたび春夏どちらかの甲子園に戻るのは8校目のことになる。

原動力は、左腕エースの大野稼頭央だ。松井稼頭央ファンの父による命名。奄美大島の龍南中では、3年の夏に龍郷選抜チームで離島甲子園に出場したほか、陸上競技でも三段跳びや駅伝で県大会に出場したというから、身体能力は抜群だ。当然、島外の数多の強豪校から誘われる。

大島ナインに指示を出す塗木監督(撮影・小池義弘)
大島ナインに指示を出す塗木監督(撮影・小池義弘)

離島で高校野球をするには、さまざまな制約がある。まず、海を隔てた都道府県庁所在地までの、距離的・金銭的負担。21世紀枠で出場したときの取材では、「鹿児島市で公式戦があるとしたら、フェリーで片道12時間かかる。勝ち進めば宿泊費もよけいにかかるから、運賃の高い空路などもってのほか」と聞いた。さらに部員不足、練習相手不足。なにより、そういった制約から自由になるため、有望な選手ほど島から出ていくケースが多い。だが、144月に赴任し、副部長を経て167月に就任した塗木(ぬるき)哲哉監督は、

21世紀枠でのセンバツ出場から、流れが変わってきました」

と話す。もともと島の子は、幼いころから豊かな自然を駆け回り、カルシウム豊富な魚をよく食べるからか、身体能力が高い。だから中学野球のレベルも高く、選抜メンバーで結成したクラブチーム・オール奄美は08年、九州で準優勝し、横浜スタジアムでの全国大会でも8強に進出している。

そのときのメンバーが多くいた10年夏の大島は、シード校の鹿屋中央を下すなど、ベスト16まで進出。これが「奄美から全国へ」という機運を盛り上げ、有望な中学生たちが、少しずつではあるが島にとどまるようになった。

主将の武田涼雅は、「大野や、捕手の西田心太朗は、100パーセント島を出ると思っていた」が、14年のセンバツを大島野球部OBの父とアルプススタンドで観戦した大野は、

「かっこよかった。自分も大高(大島高校の愛称)でやりたいと思いました。本土からの誘いもありましたが、島のみんなも大高で甲子園へ行こうと誘ってくれるし、島から甲子園に行けば達成感も違うと思いました」

と、島に残った理由を明かす。19年の離島甲子園という中学生の大会で、奄美から選抜された2チームが準決勝に残ったことも大きい」と言うのは、昨秋の公式戦で打率.408という強打の捕手・西田だ。

試合後半、本来の調子を取り戻したエース大野(撮影・小池義弘)
試合後半、本来の調子を取り戻したエース大野(撮影・小池義弘)

離島ゆえの強みを活かして

見方を変えれば、制約ばかりじゃなく、温暖な南の島ならではのアドバンテージもある。奄美市は1994年からスポーツアイランド構想を掲げ、施設の整備が進むとともに、プロ野球選手が自主トレの地に選ぶようになった。10年には、横浜DeNAが秋季キャンプを実施。さらにそれ以前から、春季キャンプを張る社会人の強豪チームも多い。そこで開かれる野球教室は選手に、そして指導者にも絶好の機会となり、レベルアップにつながっていく。アマチュア最高峰のプレーを目の当たりにし、指導を受ける機会は、内地のチームにはそうそう望めない。

力をつけた奄美の野球。かくして、昨秋の公式戦の防御率1.21と奪三振率9.91(1試合あたり)32校のエース中いずれもベスト10という大野を中心に、大島は2度目のセンバツに乗り込んできたわけだ。

初戦の相手は、明秀日立(茨城)。大野は、秋の関東大会を制した強力打線に初回、1安打を許しながら3奪三振と上々の立ち上がりだ。これには、「狙い球を絞らせないクレバーな投手」と相手の金沢成奉監督も警戒を強めたが、アウトになるにしても球数を投げさせる明秀打線のしつこさが、大野に少しずつ重圧をかけていく。2回には押し出しの四球のあと、足を滑らせた外野手が追いつけなかったフライがヒットになるなど計3失点。34回には、いずれも2死走者なしから不運な当たりもあってさらに失点を重ねる。塗木監督は、

「ふだんなら捕れるフライを捕れない外野手のミス(記録はヒット)は、甲子園練習ができず、特性を体感していなかった不慣れもあります。それをしっかり点に結びつけるのが明秀日立さんの強さ。対してこちらは、なかなか三塁も踏めない。もっと打力を鍛えないといけません。ただ大野は5回以降、自分のピッチングを取り戻してよく投げてくれました」

結果的に、大野が4回までに8点を失い、08で敗れた大島だが、それはまあ、いい。5回以降「自分の投球ができるようになった」大野は1安打無失点に抑え、クロウト筋が「62本塁打し、150キロを投げた明豊高校時代の今宮健太みたい」という天性のきらめきを見せている。大野は、こう振り返った。

緑一色に染まった大島応援団の前で夏への思いを決意する大島ナイン(撮影・小池義弘)
緑一色に染まった大島応援団の前で夏への思いを決意する大島ナイン(撮影・小池義弘)

「後半はローボールを集めることができましたが、序盤は気持ちも、ボールも高めに浮いて、自分のピッチングができなかったのが心残りです。ただ、島の人たちの応援が自分たちの力になりました。甲子園のマウンドは、もう一度戻ってきたくなる場所ですね。応援してくれた奄美の人のためにも……

「この青い空は、甲子園とつながっている」

とは、離島訪問活動の一環で、奄美市の大島を訪れた086月に、当時の脇村春夫・日本高野連会長が残したメッセージである。大島が敗れたこの日の甲子園は曇り空。真夏、青空の広がる甲子園に、君たちはもう一度戻ってこい。

  • 取材・文楊順行

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