うつで引退まで考えたGK権田修一が代表守護神に昇り詰めるまで | FRIDAYデジタル

うつで引退まで考えたGK権田修一が代表守護神に昇り詰めるまで

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豪州代表戦の試合後。この海外遠征に帯同していた日本代表GKの面々でW杯出場の喜びを分かち合った。左から谷晃生、権田修一、川島永嗣、シュミットダニエル(写真:アフロ)

サッカー日本代表は3月24日、アウェーで豪州代表を2-0で下し、7大会連続のワールドカップ(W杯)出場を決めた。昨年9月にはじまったアジア最終予選で全試合先発フル出場したGK権田修一(清水エスパルス)は「ある種のうつ病」(本人談)との壮絶な戦いを乗り越えて代表に復帰。7年前には現役引退を考えるほどどん底にいた権田が劇的な復活劇を語った。

「当時を振り返ると、今、こうしてプレーできているのも信じられないというか…。現役を続けることが難しいという以前に、何もしたくなかった。もう無気力でしたね。

当時所属していたFC東京が公表した『オーバートレーニング症候群』は人によって症状は違います。僕の場合はある種のうつ病でした。とにかく寝られない。それなのに、起きられない。中学の先輩に焼肉屋の経営者の方がいるのですが、練習をすることさえ難しい時期に『もし現役を続けられなくなったら僕を雇ってもらえませんか』と相談したこともありました」

権田はアジア最終予選で9試合、日本のゴールマウスを守りつづけた。ゴール前の決定的な場面でも、ギリギリまで相手選手の動きを観察し、好判断で体に当ててゴールを許さない陰のファインプレーを重ね、最終予選9試合で3失点はB組の中で現時点では最小失点だ。そんな権田は7年前、先が見えない「暗闇」の中で、人知れず見えない敵と戦っていた。

高校在学中の16歳でFC東京のトップチームに帯同し、19歳でJリーグデビュー。20歳で日本代表にも選出された。2012年にはロンドン五輪日本代表の正GKとしてベスト4進出に貢献し、25歳で2014年ブラジルW杯のメンバーにも選ばれた。「日々成長することが人生のテーマ」とストイックな権田は、周囲の評価と自己評価のギャップに悩んだ。

「ブラジルW杯の頃は正直、『まだ自分は日本代表に入っちゃダメなレベルでしょ』と思っていました。たとえばブラジルW杯のGK川島永嗣選手はベルギーでプレーし、西川周作選手は毎年優勝争いする浦和レッズの正GKでした。僕はFC東京で試合には出ていましたが、チームは10、11位と低迷していました。日本代表で試合に出られるようになるには、チームの順位が上がっていく中で自分もいいプレーができなければ、と感じていたんです」

W杯からチームに戻ると、権田は思い描く理想に近づく。2015年、FC東京は前半戦、好調をキープ。6月末まででチームは浦和レッズに続いて2位につけ、失点数も17試合で18点とリーグ全体で3番目に少なかった。ようやく実力が伴ってきた、という手ごたえを得られた矢先、大きな転機が訪れる。Jリーグの合間に行われた6月17日のシンガポール代表戦で日本代表を指揮していたハリルホジッチ監督は、通常より1人多い4人のGKを招集。しかし試合当日、権田だけベンチにも入れなかった。

「う~ん、僕の中でいまだに人生で一番つらかったできごとです。シンガポール戦の試合後、夜の11時ごろだったと思いますが、帰りの車の中で当時お願いしていたトレーナーさんに「明日、朝イチでトレーニングお願いします」と電話しましたね。『もう駄目、やばい。もう終わる』みたいな感じで、精神的に追い込まれちゃっていました」

本来であれば気分転換をかねて少し休んだほうがよかったのだろう。ただ、権田は練習をさらに積むことで自信を取り戻そうとした。そこで心身のアンバランスが生じた。それがのちに「ある種のうつ」を発症する引き金となった。

決戦前日3月23日の練習の模様。余裕を感じさせる権田の笑顔がチームに安心感を与えている(写真:アフロ)

再起を促したのは長男の「寝顔」だった…

そのような心理状態になってからは、練習をしていても楽しくなくなった。
「この練習をやっていて意味あるのかな」「もう全て、間違いなんじゃないか」

FC東京に戻り、その後Jリーグの7試合は何とか出場を続けたが、7月29日の仙台戦を終え、Jリーグの中断期に入ったころに権田の心身は完全に悲鳴をあげた。権田は東アジア選手権の日本代表に選ばれていたが代表を辞退し、前述の「オーバートレーニング症候群」の公表につながった。

心身のバランスが大きく崩れ、生活の中心だったはずのサッカーをやりたい、とも思わなくなったとき、権田の再起を促したきっかけは、日常の何気ない一コマだった。

「病気が公表された後、まる2日間、ベッドから起き上がれなかったのですが、ふと隣を見たら、当時2歳だった息子が昼寝をしていました。その寝顔が『かわいいな』と思って、息子が目が覚めたタイミングで一緒に起きたんです。
『この息子と公園に行く時間が楽しい』と思えて外に出られるようにもなりましたし、心配をかけた妻の支えのおかげと同時に、息子の存在も僕には大きかったです」

FC東京の全体練習から一時的に離れ、すべてを一新したい、という思いからお世話になっていたジムも解約し、新しいジムに通うことを決断した。そのジムを紹介したのが冒頭にも触れた、焼き肉屋を経営する中学の先輩だった。自らのツテを使って元アメリカンフットボール日本代表、河口正史氏が経営するジムを紹介。外国人が発揮する爆発力を日本人の体型でどうしたら発揮できるのか。その体の動かし方を研究しているジムで、権田はその考え方に共鳴した。

フィーリングが合った権田は、休息に入ってから3カ月後の2015年11月に練習試合に復帰できるまで回復したが、体が回復しても、心が戻り切っていなかった。FC東京の練習場に向かう、慣れ親しんだ道の風景を見ることすらつらくなり、自分を育ててくれたクラブを離れる苦渋の決断をした。

ブラジルW杯で中心的存在だった本田圭佑(背番号4)とベンチから戦況を見つめる権田(右から7番目)。権田の復活の陰に本田がいた(写真:アフロ)

「ゴンちゃんの力を貸してほしい」

そこで声をかけてくれたのが、ブラジルW杯で日本代表として一緒に戦った本田圭佑だった。ACミランでプレーを続けていた本田のマネジメント会社がオランダ3部リーグのSVホルンの経営に参画。そのつながりで、権田が万全とは程遠い状態であることを知りながら、「ゴンちゃんの力を貸してほしい。今までの経験を若い選手に伝えてほしい」と声をかけた。

当時のホルンのレベルはJ2~J3相当。それでも、権田はかねてから欧州でプレーしてみたい願望があり、体調の回復のために環境を変える必要があったため、渡りに船だった。

「海外に行っていい意味で割り切ることを覚えたと思います。病気になる前は自分の中に余裕や落ち着きがなかった。当時の自分を振り返るとなぜハリルホジッチ監督から外されたのか、という理由も納得できる。結局は自惚れていたんです。

日本はすべてが用意されていて、そんな恵まれた環境にいながら守備をさぼってしまうような選手を見ると、当時の僕は許せなくて、ストレートにその選手に気持ちをぶつけ、衝突することもありました。

でもオーストリア3部に行けば、アウェーの試合でも試合前の軽食を移動途中のパーキングで済ませることもありました。『諦めるしかない』環境に身を置いたことで、それまでの自分にはなかった余裕をもつことにつながったのだと思います」

ホルンで1シーズンプレーした後、2017年からJリーグの鳥栖に移籍。2019年にポルトガル1部のポルティモネンセに移籍し、2020年12月から清水でプレーする。「サッカー王国」にいるようになってから、新型コロナウイルスが蔓延。清水の選手でも感染してしまう人はいたが、その選手の気持ちが落ちないよう、積極的にコミュニケーションを図っている。

「コロナ禍になって感じるのは、きちんと感染対策をしていて、かつ外的要因に対しても自分に置き換えて考えられる人ほど、感染したときに抱え込んでしまうのではないかと……。心が閉ざされてしまうと、健康な時に感じられるささやかな幸せが、見えなくなってしまう。でもちょっとした喜びを見出すことで心の扉が開くこともあります。僕自身、息子の寝顔によって救われた経験もありますから」

豪州・シドニーの会場でも「GONDA」(権田)の大きな横断幕がひときわ目立った。こういう人たちの存在が権田の戦う糧になっていた(写真:アフロ)

W杯日本代表GKで2大会ぶりに返り咲いた選手はいない

権田の気配りは、日本代表でも生きた。今年1月、中国戦とオマーン戦は守備の要で精神的な支柱でもある主将の吉田麻也(イタリア・サンプドリア)、冨安健洋(アーセナル)がともに負傷で代表に合流できず。板倉滉(シャルケ)、谷口彰吾(川崎F)と代表では先発経験の浅い2人が最終ラインを担った。頼れる不動のメンバーを欠いても、焦りはなかった。

「コロナ禍では、試合前日に出場を予定していた選手が離脱することもあり得るので、日本代表で紅白戦をやる時は自分のチームの選手だけでなく、相手の選手がどんなプレーをするかをずっと見るようにしてきたんです。所属クラブでどんなことにトライしているかも興味があるので、ほかの選手のプレーを普段から見ています」

結果的に1月の2試合は無失点。様々な経験を経て人としての器が大きくなり、深みもました権田は、あらゆる可能性を想定して備えることができるようになった。そのことが、チームにピンチをピンチと感じさせない安心感を生み出す要因となった。

「今は、これまでお世話になった人への恩返しの気持ちを持ってプレーしています。妻や息子、中学の先輩、本田さん、育成年代の指導者の方、誰かひとりでも欠けていたら、今の自分があったかどうか…。僕を見いだしてくれたFC東京の育成のスタッフの方たちに対しては、僕が元気にプレーしているところを見せることが、その方たちの成果につながるかもしれない、という気持ちもあります。

ブラジルW杯ではチームに何の貢献もできなかった。今回、もしW杯に出られたら、日本代表が結果を残すために何が必要か、というところから逆算して、毎日のエスパルスの練習に取り組みたいです」

過去6度のW杯に出場した日本代表のGKの中で、2大会ぶりに大舞台に戻ってきた選手は一人もいない。若い頃に光り輝く舞台に立ち、一度暗闇に突き落とされながら、一筋の希望の光を頼りに這い上がってきた権田は、いるだけで安心感を与える守護神になるであろう。

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