アカデミー賞期待!でもちょっとモヤモヤ『ドライブ・マイ・カー』 | FRIDAYデジタル

アカデミー賞期待!でもちょっとモヤモヤ『ドライブ・マイ・カー』

ノンフィクションライター・亀山早苗レポート

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<米アカデミー賞に4部門でノミネートされている『ドライブ・マイ・カー』。28日(日本時間)の授賞式を前に期待が高まる。国内外で高い評価を受けるこの映画…「おもしろかったですか?」…映画評論家ではなく「芝居好き」のノンフィクションライター、亀山早苗氏が観た『ドライブ・マイ・カー』は>

国内外で高い評価を受ける濱口竜介監督。ニューヨーク映画批評家協会賞授賞式では、レディー・ガガとの2ショットも見られた 写真:REX/アフロ
国内外で高い評価を受ける濱口竜介監督。ニューヨーク映画批評家協会賞授賞式では、レディー・ガガとの2ショットも見られた 写真:REX/アフロ

「今」と「個性」をこれでもかと詰め込んだ

アカデミー賞4部門にノミネートされている映画『ドライブ・マイ・カー』(原作・村上春樹、監督・濱口竜介)。演出家兼俳優の家福(西島秀俊)が、無口な女性ドライバーみさき(三浦透子)と出会い、未必の故意に近いような心の傷が互いに通底していると感じ合うことで、ある種の癒やしと希望を見いだすというドラマ。

3時間という長尺、劇中で繰り広げられる多言語劇、演劇世界における革命家と言われるチェーホフへのオマージュ、フランスの映画監督ジャン・ルノワールの演技法への敬意、そして多様性……。さまざまな「時代としての今」と「監督としての嗜好と個性」をこれでもかと詰め込んだ作品となっている。アカデミー賞、狙いにいってるでしょという感じである。

絶賛されている作品ではあるし、私は映画評論家でも映画通でもないので批評はしない。ただ、素人の素朴な疑問と、「芝居好き」としての「モヤモヤ」が残る。

濱口監督の「棒読み」手法が排除したもの

役者のオーディションから本読みに至るまでの過程が、家福の過去と意識、妻との20年にわたる関係とともに進んでいくのだが、これは、実際に濱口監督が映画撮影の際に行っている手法だという。感情を排除し、ただただ台詞を読む。感情が乗らない棒読みでかまわない。実際、映画の中でも棒読み俳優が若干いる。それは「芝居」としてどうなのかという疑問。さらに作品内の台詞の多さは「映像」という特権をも排除していないのだろうかという疑問がわく。

役者は肉体を通して魂を賭けた芝居をするものだと個人的には考えている。ひたすら感情を排して台詞を読み続けた結果、体の中に台詞は入るかもしれないが、役者の試行錯誤のありかがわからなくなる。観客からそれが見えなくなるのだ。だから体から台詞が出ていても魂から出ているように聞こえない。

それゆえ最後に家福とみさきが、それぞれ心の奥底にもつ「傷」を開示しても、それが薄く聞こえてしまうのだ。あくまでも個人の感想ではあるが。

「自己と向き合う」ことは必要なの?

そもそも、あれほどの苦悩を長年抱え込んでいる人間が、数ヶ月一緒に過ごしただけの『他人』にあんなに簡単に伝えることができるものなのだろうか。もちろん、他人だからこそ何かをきっかけに一気に「自身の心の奥底にあるどす黒い塊」を見せてしまうことはあり得る。ただ、そこに至った経緯に説得力があるとは思えない。

これは一般論だが、人はそれほど「自己と向き合う」ことが必要なのだろうか。「つらかったらつらいと言えばいい、助けてほしければ助けてと言えばいい」は正論である。だが、それができないから一生抱え込むこともある。他者がどう感じるかを気にしているというわけではなく、その事実を心の奥から引っ張りだすことで自分が崩れるのを自覚しているからだ。そんな傷に「正面から向き合う」べきなのだろうかと個人的には思う。蓋をしたまま生きていけるなら、曖昧なまま落とし所を見つけられるなら、それでもいいではないか、と。

岡田将生がひとり放った「色気と狂気」

役者が色気か狂気、あるいはその両方を内包するのは必須かもしれない。この映画の中で際立っていたのが、高槻役の岡田将生だった。中盤のシーンで、自分を抑えられない衝動にかられ、一瞬、その場からいなくなった高槻。彼はある男を追いかけて殴ってきたらしいのだが、戻ってきたときの岡田将生の体の動きがすごかった。腰が浮いているのである。

武者震いして人を殴って戻ってきて、平静を装いながら立っているのに腰が浮く。これは彼の魂の演技ではなかったか。彼の体からはどんなに抑えていても、色気と狂気がにじみ出ていた。

同じ濱口監督の『偶然と想像』、三話オムニバスからなる作品も観てみた。ここでも役者たちの感情の抑揚が台詞に乗らず、いわゆる棒読み状態になっている。それがゆえに観客に想像を呼び起こす側面もあるのかもしれないが、「芝居」を堪能することはできない。ストーリーに埋没もできない。台詞が棒読みなのに、表情や身体表現が秀逸ということも、ほぼあり得ない。

観客である私は、少なくとも「役者の演技」によって心を震わせたい、ドラマの世界で酔わせてほしいと感じているので、この棒読み多用には多少困惑した。

歌舞伎の演技、魂を賭けるということ

『ドライブ・マイ・カー』を観た翌日、歌舞伎座で片岡仁左衛門の『義経千本桜~渡海屋・大物浦』を観た。歌舞伎には型がある。だが、今を生きる役者は、代々続いてきたその『型』に自らの魂を吹き込むのである。何度同じ役をやっても、今を意識し、リアリティをもたせる工夫を怠らない。だから歌舞伎は時代とともに400年以上も、続いてきたのだ。仁左衛門が演じた平知盛の、恨みを通り越した静謐の境地に客は涙する。

台詞の妙、ちょっとした眼差しにもこもる深く豊かな感情表現、そしてひとりの役者から醸し出される人物の味わい。演技とはそういうものなのだと思う。「確かにあのとき、舞台には『知盛』がいた」と観客は感じたのだ。役者の気迫と技に観客は吸い込まれていく。

芝居におけるリアリティとは何なのか、役者にとって台詞とは何なのか、役者が魂を賭けるというのは、どういうことなのか。個人的には常に役者や物語に入り込める喜びを求めるが、俯瞰できる楽しみというものもあるのだろうか。

『ドライブ・マイ・カー』を観てから、私はずっとそのことを考えている。

  • 取材・文亀山早苗写真REX/アフロ

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