京都共栄学園野球部監督・神前俊彦「40年ぶり2度目の夢舞台へ」 | FRIDAYデジタル

京都共栄学園野球部監督・神前俊彦「40年ぶり2度目の夢舞台へ」

時を超える「昭和の高校野球」③

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〈令和を迎え、戦術や練習法、トレーニング法など、劇的な進化を遂げている高校野球。その中にあって、昭和の高校野球にこだわり続ける名将たちがいる。一見、時代錯誤のように見える彼らの考えには、現代にも通じる確固たる信念があった〉

京都共栄学園野球部監督・神前俊彦

PLを破った「サラリーマン監督」

“時の人”となったのは今から40年前の1982年、昭和で言えば57年夏のことだ。

榎田健一郎(のち阪急ドラフト1位)らを擁して春夏連覇を目指した絶対王者・PL学園を大阪大会準々決勝で破り、公立校・春日丘を全国屈指の激戦区から甲子園へ導いた。

当時26歳にして、普段はサラリーマン。しかも、勤務先が誰もが知る大手航空会社とあり、メディアの注目を一身に集めた。その青年監督は今、戦いの場を京都へ移し、府内最年長監督として変わらぬ挑みを続けている。

京都共栄学園野球部監督、神前(かみまえ)俊彦。学校に隣接するグラウンドと2LDKのアパートを行き来する単身生活は今春、7年目に入った。

仕事場であるグラウンドは小高い丘の上にあり右翼が狭く約50メートルほど。通常のバッティング練習はできない。前任校時代も他部と共用のグラウンドで練習時間は1時間半前後。「公立高校はヒト、モノ、カネのないないづくしを、いかにあるあるづくしに変えていくか」とよく語っていたが“あるある”と思っていた私学もそうではなかった。

今も週2回は近隣の球場を借りてこそいるが、赴任当初はピッチングマシンもないところからのスタート。しかし、だからこそ神前が培ってきたノウハウが存分に生きた。

大谷翔平が愛用していたマシン

大谷翔平が愛用していたピッチングマシン

グラウンドの風景は訪れるたび、変わっていた。今回は、ホームベースを通常より前へ出し、バックネット前に出来たスペースに打撃練習用の“オープン鳥かご”が3ヵ所常設されていた。折り畳み式の鳥かごをフル稼働させればグラウンド内で9ヵ所同時に打撃練習を行うことができる。神前はバックネット前に並ぶ3台のピッチングマシンに目をやりながら「これは大谷翔平が愛用していたマシンでね」と一言。日本ハムへ機器を納入している千葉県の業者から中古で購入したそうで、かつては大谷も打ち込んでいたマシンだ、と。

「あの大谷が打っていた、と聞いたら選手の気分も上がるでしょ」

ブルペンには球速を3ヵ所同時に測定でき、投げている本人がひと目で数字を確認できるスピードガンも設置されていた。ベンチ裏から一塁側にかけたスペースにはトレーニング器具がファウルグラウンドに並んでいるのは以前からだが、この日は一塁側ファウルグラウンドに設置されていた屋根付き通路の継ぎ足し作業が行われていた。

手作り感溢れるブルペンの前に立つ神前監督

「屋根があるだけで雨の日に70人全員がバックネット裏で練習できる。今は生徒を平等に扱って、満足感を与えないといけない時代。分け隔てなく、いつでも誰でも練習ができる環境を作ることが私の一つの任務と思ってやってたら、どんどんこんなことになってね。選手たちにとっては野球が目いっぱいできる、さしずめ野球の園、〝野球園〟ですよ」

「グラウンドにはお金で買えないものがある」

それにしても――。ところどころで学校の協力も仰ぎながら、とはいえ、自身の持ち出しも少なくない。心配する周囲の声が時折届くが、神前は軽く笑い飛ばす。

「食費だって『業務スーパー』あたりで買いだめすれば、単身なら月3万円もあればお釣りがくる。同世代の者がゴルフをやって、いい車やマンションを買ってる代わりに、中古のマシンやトレーニング器具にスピードガン……。何よりグラウンドにはお金で買えないものがありますから。そう考えんとね」

現役時代、春日丘から進んだ関西学院大では、教員の道を志した時期もあったがサラリーマンの世界へ。初の勤務地、大阪空港では、乗客の搭乗、荷物の積載などを確認する仕事についた。3交代制で早番は14時に終了。朝に強い神前は他の社員から遅番との交代を頼まれることが多く、午後の時間を持て余すようになった。そんなある時、運動がてら母校の練習を見に行ったことが人生の行方を決めた。

当時、春日丘の野球部は顧問も監督も不在に近く、当時の主将から「試合でサインを出してほしい」と熱心に頼まれた。当初は、仕事をしながらできるわけない、と断っていたが、やがて選手たちの熱に押される。直属の上司に相談すると、「仕事に支障を来さない」、「ケガをしない」、「お金を貰わない」の3点を条件に許可が下り、1980年8月、サラリーマン監督が誕生。甲子園出場はそれから2年での快挙だった。

生徒への指導に熱が入る

まさかの監督交代劇

ところが、熱狂の夏からわずか8ヵ月、神前はひっそりと春日丘を去る。あまりの反響の大きさに、「部活の指導は教員で」といった声が校内で強まったのか、当時の校長からアッサリ監督交代を告げられたのだ。

それからは大阪、京都の支店で働き、29歳からは成田空港勤務。マネージャーとしてチェックインカウンターに立ち、外国人相手の接客もこなした。結婚もし、成田に家も買った。仕事も私生活も順調に流れる中、野球は見ない、語らない、と決めていた。触れてしまえば”寝ている子“を起こすことになってしまうことがわかっていたからだ。ところが、いくら遠ざけても、やがて思いが抑えきれなくなり、ある時からは、甲子園で采配をしたり、ノックを打っている夢を頻繁に見るようになった。

「会社の仕事を全うすると決めて、その中に子供たちとグラウンドで得た感激以上のものがある、とあがき、もがいたんやけどね。結局、あれ以上のものはどこを探してもないということに気づいてしまったんよ」

それからは一切の我慢をやめ、時間を見つけては球場のスタンドへ足を運び、プロアマ問わず野球を観まくった。

再び二足の草鞋を履いて

40歳の春、転勤辞令を受け、単身大阪へ。すると7月、在阪のテレビ局から依頼を受け、大阪大会のPL学園と大阪桐蔭の一戦を解説した。どうにもグラウンドへの思いが抑えられなくなった翌1997年春、周囲の導きもあり、母校・春日丘の監督として現場復帰。再び二足の草鞋を履くことになった。

その後、岡山転勤という大ピンチもあったが、金曜夜の新幹線で大阪入りし、土、日に指導。日曜夜に岡山へ戻るという強行軍を1年半続け、乗り切った。もちろん、経費はすべて自己負担。何があっても、自分から野球は手離さないと、心に誓っていた。

一方で神前の目的はグラウンドへ立ち続けることではなく、勝負に勝つ、あの夏の再現。生徒にも熱く語り続けた。

「君たちが甲子園に出たら何年ぶり2回目の出場と言われるだけで、勝つことは奇跡でもなんでもない。それが一度出たことのある学校なんよ」

2009年夏の大阪大会では前年優勝の大阪桐蔭を8回表終了時まで10対8とリード。あとアウト6つまで追い詰めるなど、要所で見せ場を作った。しかし、再登板から18年が過ぎた2014年の暮れ、再び春日丘を離れる日がやってくる。

生徒たちの野球ノート

60歳での再出発

もちろん、この時も神前が望んだものではなかったが、移り変わる時代の中でやはり外部監督の難しさを感じさせる交代劇だった。すでに早期退職で会社を離れており、残りの人生を高校野球の監督1本で過ごす決意を決めた矢先のこと。さすがに気持ちは沈んだが、すぐに前を向いて、母校である関学大の野球部や、指導者と交流のあった鳥取県の倉吉総合産業高校にも週3回ペースで通った。ボランティアで練習を手伝いながら、監督としてグラウンドへ戻ることを信じ、野球に関わり続けた。

その思いが叶ったのが2016年春。京都北部、福知山にある京都共栄学園の監督に就任。打倒私学に賭けてきた男が私学の専任監督として60歳での再出発。そこから丸6年。指導方針は当初から変わっていない。

子供たちに求める最たるものは、「その気になること」だ。

「勝つためにどうしたらいいか、と言えば、まずは何をおいても勝てると思うこと。勝負は勝てると思えば勝てるし、負けると思えば負ける。思ったら次は言葉にする。『甲子園に行きたい、行けたらいいな』じゃなく『絶対甲子園に行きます』。宣言をしなかったら乗れる電車にも乗れんのやからね。そして、生徒にそこまで思わせるには指導者が勝つことを信じて疑わないこと。ここがないと始まらない」

春日丘時代は生徒たちの試験期間中に有給休暇を充て、興味を持った全国の高校を訪ね歩いた。駒大苫小牧、佐賀北、清峰、興南、八重山商工……。他にもNPB球団のキャンプどころか、米国に渡りレンタカーに乗ってアリゾナ、フロリダのメジャーキャンプ地で一気に15球団を巡ったこともあった。そして現地では気になった練習をビデオカメラで撮影。後日、子供たちと確認し、使えそうなものはどんどんメニューに取り込んでいった。

「真似事じゃないかという人もいるけど、ここまでやれますか? ここまでネタを仕入れられますか? という思いはある。2つなら真似事でも、3つやったらオリジナルというのが私の持論です」

『チア・ダン』でモチベーションアップ

ここ数年は2月になるとCS放送で終日テレビ中継されているプロ各球団のキャンプ風景を携帯電話のカメラで動画撮影。夜にLINEで選手へ送っている。

「バッテリーのグループLINEにはピッチングや捕手のワンバン捕球の映像を送ったり、野手にはノックやティーバッティングの映像。夜も再放送で5球団くらいやってるからテレビの前で忙しくチャンネルを替えながら、スマホを構えてね、キャンプ地を歩いてるようなもんですよ。まあ、こっちの思いが生徒たちにどこまで伝わってるかはわからんけどね」

チームの結束、モチベーションアップのため、2017年に映画化(のちテレビでもドラマ化)された『チア・ダン』のDVDを毎年、選手全員で観ている。福井県立福井商業高等学校のチアリーダー部が本場アメリカのチアダンス選手権で優勝を飾った実話を元にした感動の物語だ。

「指導者役の天海祐希がやってきて『世界一を目指すよ!』とやるところから始まるんやけど、生徒にしたら福井でも勝てないのに何が世界一や、てなもんで不平不満の嵐。そこから5年連続世界一になっていくというサクセスストーリーをどこまで自分たちに置き換えて見られるか。今年も雪の日にみんなで観ましたよ」

まさに手を替え、品を替え……。あの夏の快挙もバット5本、10数個の破れかけのボールを使い、野球ごっこを楽しんでいた子供たちが、やればできる、と信じ込んだことが初めの一歩だった。

京都国際に惜敗した理由

実戦指導の中では「負けにくい野球」「できることをきっちりやる」が2本柱。なかでもこだわり続けてきたのは6つのミス「シックスエラー」をなくすことだ。

「よく選手には『入場資格をクリアしなさい』と言うけど、特にフォアボール、エラー、走塁ミス、バントミス、サインミス、盗塁を許す、この6つをしている間はいつまでたっても甲子園からの招待状は届かないんだ、と。甲子園を目指せるかどうかは、当たり前のことを当たり前にできるようになってからです」

昨秋の京都大会では、センバツ出場(生徒のコロナ感染により出場辞退)の京都国際に2対4で敗れたが、4失点のうち3点はエラーで失ったものだ。

「当たり前のレベルをどこまで上げていけるか。ノーミスで進めていければ相手が勝手にこけてくれたり、試合後半の一か八かの勝負どころがわかってくる。そのレベルに達したら次は、ミスが出た時にどうするのか。打って返すのか、次の1点をいかにして防ぐのか、という段階にも入っていける。でも、この2年はシックスエラーの中でも失策、与四球、バントミスの3つに絞って、この3つが出ない試合をしようと練習試合からやってきたけど、まだ1度も達成されてない。この壁がなかなか越えられんのよなあ」

野球部監督として雇われての専任生活。大会スケジュールを睨みながら会社に有給休暇届を出すような手間はなくなったが、ひと際の重圧と、時折の虚しさに襲われながらの日々が続く。

頼もしい相棒が加わった

子供たちとの関係も、感情をストレートにぶつけ合い、彼らの兄貴分として付き合えた時代は遠い昔。子供の気質も変わり、甲子園の意義も、勝負への考え方も変わる中で、思いが届かず、虚しさを覚えることも増えた。

「選手がこっちの思いについてきてない、俺は1人で何をやってるんや…と、ぼやきたくなることもしょっちゅう。ただ、いやなら辞めたらいいじゃないか、という思いは常にある。食べていくために働く人が大半の世の中で、好きなことを仕事にできてるわけやからね。監督をやってなかったら夜にキャンプ中継なんか絶対に見ない。語る相手がいるから、うまくしてやりたいと思う相手がいるから見るんであってね。そう思ったら彼らに感謝なんですよ。

伝える場がある、伝える相手がいるということがどれだけ幸せなことか。最近はつくづくそう思うようになってね。だから、好きな野球ができるうちは、夢と希望を持ち続けてやらんとバチが当たると思ってやってますよ、今までではなく今からが大事」

6年間の最高成績は2019年夏の京都府大会ベスト4。その戦いを見て、その気を持って進んできたのが今の新3年生たちだ。大きなうねりの始まりを予感させる中、4月からは神前にとって頼もしい相棒もチームに加わった。兵庫の公立・西脇工業で長らく指揮を執っていた木谷忠弘氏が野球部長に就いたのだ。2人は毎年、練習試合を行い、たっぷりと野球談議も重ねてきた間柄。木谷もまた2013年の夏に、やはり激戦区を制し、チームを甲子園へ導いている。「兵庫と大阪の公立を率いて1勝1敗の監督2人が京都の私学で甲子園を目指すことになるとはね」と神前はニヤリと笑う。

京都共栄学園にとって初の、神前にとっては40年ぶり2度目の夢舞台へ。物語はこの夏に向け、静かに、そして確かに、動き始めている。

  • 取材・文谷上史朗

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