勇退を決めた星稜・林和成監督「葛藤を乗り越えて」 | FRIDAYデジタル

勇退を決めた星稜・林和成監督「葛藤を乗り越えて」

「22年センバツ」インサイド・レポート

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〈22年センバツ準々決勝、国学院久我山相手に2−4で惜しくも敗れた。11年間、星稜高校で指揮を執ってきた林和成が勇退する。山下元監督の言葉、松井秀喜5連続敬遠の経験、波乱に満ちた監督人生は、「野球しかない男」だから経験できたことだった。その男がいま、ユニフォームを脱ぐ〉

センバツ、準々決勝の国学院久我山戦、厳しい目をする林和成監督(撮影・小池義弘)

「おもしろいことになってきたぞ!」

劣勢だった。センバツの準々決勝で国学院久我山(東京)と対戦した星稜(石川)は、2点差を追って9回の攻撃を迎える。それでも星稜・林和成監督は、円陣で選手にこう声をかけた。

「おもしろいことになってきたぞ。オマエたちの逆転する姿を見たい。ひっくり返してこい

おもしろいことになってきた。現チームのキーワードである。1月中旬、校内にコロナ陽性者が出て、練習を自粛しなくてはならなくなったとき。林監督がナインにLINEで語りかけた言葉。逆境からどう巻き返すかが力の見せどころ、というわけだ。マイナスの要素をあえてポジティブにとらえる、選手掌握術だろう。

甲子園でもそれは続いた。天理(奈良)との1回戦。リードした終盤に追いつかれ、延長にもつれると「おもしろいことになってきたぞ」。結局11回、2点を勝ち越した星稜が、強豪との対決を制している。実は天理は30年前の大会、準々決勝で敗れた相手。林”選手”は1学年上の松井秀喜と三遊間を組み、その試合に出ていたからなかなかドラマチックだ。

まだ46歳、勇退には早すぎるという声も(撮影・小池義弘)

波乱に富んだ監督人生

林和成監督。2011年、母校の監督就任以来、春は今回を含めて4回(中止の20年を含む)、夏は5回の甲子園出場があり、大会前まで通算11勝8敗。19年夏には、奥川恭伸(現ヤクルト)をエースに頂点まであと一歩の準優勝を果たしたほか、14年夏の石川大会決勝では、9回裏に8点差をひっくり返しての奇跡的な勝利がある。

現チームのエース・マーガード真偉輝キアン、四番の若狭遼之助ら、その試合を知って県外から星稜に進んだ選手も多い。18年夏には、タイブレークの延長13回、史上初めての逆転満塁サヨナラ本塁打で済美(愛媛)に敗れたり、かと思うと19年センバツでは相手校のサイン盗み疑惑を指摘したりと、なかなかに波乱に富んだ監督人生である。

その林和成監督が、今年度限りで勇退する。

星稜高校時代、1年からベンチ入りを果たし、1991年夏の甲子園ではベスト4。この年、初出場で優勝する大阪桐蔭に敗れた準決勝に、代打で1打席だけ出場している。翌92年の春夏も聖地の土を踏み、進学した日大では準硬式でプレーした。キャプテンを務めた4年時には、全国大会を含むすべての大会に優勝する五冠を達成。卒業後は、関東で就職するか、家業の建設業を継ごうと考えていたという。

だが当時の星稜の野球部長から、「コーチとして戻ってこい」と声をかけられた。悩んだ。指導者という選択肢は、まったく考えていなかったからだ。すると家族会議で姉から、「ここまできたんだから、野球を頑張りなさいよ」と涙ながらに説得された。

「野球好きの父の影響で野球を始め、両親は小さいころから野球をする私につきっきりです。姉は親にあまり面倒を見てもらえず、おそらく野球は嫌いだったでしょう。そういう姉の後押しが大きく、それなら、と肚をくくりました。大きな転機でした」

「グラウンドに寝るようになったら、お前も本物だな」

98年、母校でコーチとなると、恩師・山下智茂監督(現名誉監督)の指導法を学ぶかたわら、系列大学の定時制に通い教員免許を取得。04年から野球部長、監督になったのは11年のことだ。36歳になる年だった。

当時の星稜は、やや元気がなかった。県内では金沢や、新興勢力の遊学館が力を伸ばし、05年夏の山下監督勇退後の星稜は07年夏に甲子園に出たが、それも初戦で敗れている。林の就任直後、12年春の県大会には優勝し、夏も石川大会の決勝まで進出したが、遊学館に0対6の完敗――。林監督は言う。

「負けるたびに、もう監督を代わったほうがいいのではと思っていたし、このときは試合が終わったあと、学校のグラウンド脇で寝ていたんです。家に帰ったら、翌日から絶対に練習に出てこられないと思うくらい、負けを引きずりましたから。ただそのときに、山下先生がお見えになったんです」

山下元監督は、いわば甲子園のレジェンドである。79年夏、箕島との延長18回はずっと語り継がれる珠玉のドラマだし、95年夏には2年生エース・山本省吾(元近鉄ほか)で準優勝も遂げている名将。

「ふだんはあまり会話することもないんですが、そのときは1時間くらいお話しくださって。そして最後に、グラウンドに寝るようになったら、お前も本物だな。オレもそうやって寝たものだよと。うれしかったですね。結局その日は、山下先生に帰れと諭されて家に帰りましたけど」

林・星稜が初めて甲子園に出場するのはそれから1年後の13年夏。石川大会決勝で、前年敗れた遊学館に勝利してのことである。以来、星稜は、毎年のように大舞台にコマを進めてきた。なかでも17年秋から19年秋まで、石川県大会35連勝の7連覇は圧巻だ。

「松井5敬遠」馬淵監督の采配を振り返って

指導者としての基礎には、大きな経験がある。92年夏の甲子園。初戦を突破した星稜は、2回戦で明徳義塾(高知)と対戦した。2年生の林は、春同様、松井と三遊間を組み、二番・ショートで出場。敵失で出塁した3回1死一、三塁で松井が歩かされ、次打者のスクイズで生還した。

5回には先頭打者としてヒットで出ると、1死後四番松井はまたも四球。林はここでも2死からのタイムリーでホームを踏んでいる。松井は、7回にも2死無走者から四球。さらに9回、2死三塁からも四球……そう、いわゆる「松井5敬遠」である。

「私は、スタンドのお客さんほどには異様だとは感じず、戦術のひとつだと思っていました。さすがに7回の2死無走者では、そこまで徹底するのかと感じましたけど……9回の5個目の四球のあと、スタンドからさまざまなものがグラウンドに投げ入れられましたよね。そのとき私は三塁側ベンチにいましたから、投げ入れられたメガホンなどを拾いに走ったのをよく覚えています」

結局、星稜は、2対3で屈した。星稜の2点は、いずれも林がホームを踏んだものだ。1点差。林が「どこかの場面で勝負してくれていたら、たぶん松井さんは打っていますよ」と話すように、明徳・馬淵史郎監督の采配が的中したと言える。

「私が監督になったのは、このときの馬淵さんとほぼ同年齢です。じゃあ私にあれができるか? あそこまで勝ちに徹底できるか? と考えると、到底できそうもありません。馬淵さんにはあそこまでの信念があったから、のちに日本一になれたのでは……指導者になって改めて振り返ると、とても大きな試合ですね」

10年で一区切りと考えていた林監督が、選手たちに辞意を伝えたのは昨年の9月。そこから「できるだけ長く林先生と野球をやろう」と結束したチームは、「おそらく下級生が入ってきたら誰もレギュラーになれない」という林監督の想定をよそに、ほぼ上級生を中心に秋の石川県大会から北信越、そしてこのセンバツと13試合を戦い抜いた。

「私はできるだけ長く……”などとは考えてくれるな、と伝えましたが、選手の気持ちは嬉しいです。10年と言いつつ、丸11年。1年分はコロナでおまけしてください()

選手を見る眼は優しさに満ちている(撮影・小池義弘)

センバツの舞台で大阪桐蔭と戦えたら……

凛々しい表情で甲子園を後にした(撮影・小池義弘)

国学院久我山を相手に2点を追う星稜は9回、無死一、二塁のチャンスをつくりながら、後続が打ち取られて敗れた。2対4。21試合を指揮した甲子園を去る前、「景色を目に焼きつけた」という林監督は、次の試合のため同じ三塁側ベンチに来た大阪桐蔭・西谷浩一監督と固く握手を交わした。

これは想像だが、「お互い、勝ち上がって戦いたかったですね」などと言葉を交わしたんじゃないか。大阪桐蔭はベスト4進出を果たしたから、もしそれが実現していたら、高校時代の林監督が甲子園デビューした相手との対戦はそれこそ、「おもしろくなってきた」のだが。

星稜は今後、中高一貫校の星稜中を強豪に育て上げた田中辰治監督が率いる。林監督は勇退後、「一教師、一野球ファンとして応援するつもり」なのだとか。ただ、ずっと試合や練習に追われていた土日が、すっかり手持ち無沙汰にならないか、それが心配なのだけれど。

  • 取材・文楊順行

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