出場決定は開幕前日…近江のベテラン監督・多賀が流した涙の理由 | FRIDAYデジタル

出場決定は開幕前日…近江のベテラン監督・多賀が流した涙の理由

「22年センバツ」インサイド・レポート

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〈京都国際の無念の辞退により、出場が決まったのは開幕前日。突然の切符の終着駅は決勝戦。いちばん長い道のりだった。監督、ケガを乗り越えて投げたエースで四番で主将、そして扇の要――。記録にも、記憶にも残る近江の春を振り返る〉

近江高・多賀章仁監督

「降板させる決断は私にしかできません」

近江(滋賀)・多賀章仁監督の涙が止まらない。

浦和学院(埼玉)との準決勝。1対2と競った場面の5回裏、エース・山田陽翔が左足かかと付近に死球を受けた。歩くのも痛そうなアクシデントに、交代も頭をよぎった。だが、

「自分がチームの軸だという自覚があります。もしマウンドを降りてしまえば、そのままずるずる行きかねない。降りてはいけない、という決意で”行かせてください”とお願いしました」

アイシングとテーピングを施し、続投を直訴した山田。6回以降は、おそらくかなり痛む足を引きずりながら、むしろそれまで以上の投球で三塁さえ踏ませない。それでも多賀監督には、葛藤があった。

「将来のある子です。本人が”行く”といっている以上、降板させる決断は私にしかできません。代えるべきか……」。ためらいつつも、痛みをこらえて踏ん張るマウンドの山田を見ているうちに、試合中なのに涙が止まらなくなった。

「死球のあと、1球1球にこもる魂がすごかった。金光大阪との準々決勝は、勝ちはしましたが走塁や守備に凡ミスが多すぎました。ですから、”準決勝の浦和学院は、実力では(相手が)一枚も二枚も上。覚悟を持ってやろう”とカツを入れたんです。山田の投球には、それこそ覚悟を感じましたね。強い男です。今日ほど、それを感じたことはない。甲子園という舞台が、彼をそうさせてくれたのか……」

力投する山田陽翔

エースで、四番で、主将。もっとも信頼するからこそ、山田には大黒柱以上の重責を託している。関係者に新型コロナ陽性者が出た京都国際の出場辞退を受け、急きょ繰り上げ出場が決まったときも、5試合とも、お前で行く」と告げたほどだ。その信頼をも超越する山田の姿に感情の抑揚が収まらず、続投させた理由について多賀自身整理できない様子だ。だがおそらく、「デッドボールのあとの山田君は、ギアが上がった。いやもう、気迫が違いました」と敵将・森大監督さえ激賞した”魂”が、交代という選択を多賀の頭から消したのだろう。

愛情のあるキャッチング

涙の理由はまだ、ある。7回に追いつき、2対2で延長に入った11回1死一、二塁。2回戦、準々決勝、そしてこの試合と11打席ノーヒットだった捕手の大橋大翔が、サヨナラ3ランを左翼席に叩き込むのだ。八番打者による、史上22人目の劇的弾。多賀監督は明かす。

準決勝・浦和学院戦、11回にサヨナラ3ランを放った捕手・大橋大翔

「大橋はそこまでヒットがなくても、キャッチングの素晴らしさで山田を助けてくれていたんです。落ちる変化球もしっかりと、なんというか、愛情を持って捕ってくれる。それが、まさかのあの一発につながったのかなと思います」

愛情のあるキャッチング、とはなんともイキな表現だ。

思い出したことがある。

多賀監督は、生粋の彦根育ちである。近江高校の所在地。生家は、琵琶湖べりに建つ浄土真宗本願寺派の賢学寺で、龍谷大で学んだ自身も、僧侶の資格を持つ。小学校2年で野球を始め、彦根南中野球部では、おもに遊撃。3年のときに巨人・長嶋茂雄が引退し、セレモニーを見ながら「次の長嶋になるのは僕や」。腕に自信があったから、甲子園に出場してプロで活躍するのが夢だった。

ただし当時の滋賀は、高校球界では弱小県だ。多賀が中学を終えるまで、センバツでは3勝しているものの、8回出場している夏は未勝利。だからお隣・京都の平安(現龍谷大平安)への進学を志した。毎年のように甲子園に出場し、全国制覇もある強豪で、実家・賢学寺の属する本願寺系の学校でもある。

だが、いざ入学してみると、先輩たちのレベルはまるで別世界。練習は厳しく、くじけそうにもなった。だが、親の反対を押し切っての進学だから、シッポを巻くわけにはいかない。意地だけで食らいつく。5月中旬、レギュラーバッティングのチャンスを得ると3打数3安打。一塁手兼捕手としてメンバーに定着していった。

“三本の矢”を揃えて挑んだ指導者としての「節目」

3年夏の3回戦進出が最高で甲子園には縁がなく、龍谷大に進むころには、プロへの夢はとうにあきらめた。指導者という進路が頭に浮かんだのは大学4年のころ。卒業後は、大学のコーチを務めながら聴講生として授業を受け、教員免許を取得し、近江のコーチになるのは1983年のことだ。

81年夏に甲子園初出場を果たした田中鉄也監督のもと、6年間コーチを務め、監督就任は89年。92年夏には、3年続けて敗れた八幡商を準決勝で破るなどして、自身初めての甲子園出場を果たす。そのときは初戦で樹徳(群馬)に敗れたものの、さらに春1回、夏3回の出場を重ねて迎えた2001年夏が、「ひとつの節目」(多賀)だ。竹内和也(元西武)、島脇信也(元オリックス)、清水信之介という“三本の矢”を投手陣にそろえ、滋賀県勢として初めて決勝に進出した年である。

このときに大きかったのは、扇の要として“三本の矢”を支えた捕手・小森博之の存在だと多賀は振り返る。中学時代、県大会の優勝投手だった小森は、高校で捕手に転向。新チームでは主将になり、捕球やリードに苦労する姿に、「キャプテンを辞めてキャッチャーに専念したらどうや?」と説得するが、最後は必ず「僕に主将をやらせてください」となる。山田が続投を志願した浦和学院戦のように、このときも折れたのは多賀のほうだった。

「主将を続けた小森は、捕手としての技術も成長しました。たとえば竹内のスライダーは、引っかかると大きく外に逃げていくし、左腕の島脇の縦のスライダーも、かなり落差があるんです。小森は、そういう暴れん坊のタマでも(笑)、包み込むようになんとか止めていた。包容力があるいうんか、われわれは“愛情キャッチング”と呼んでいました。あのときの小森は、県大会から甲子園を通じて、捕逸はひとつもないはずです」

決勝で大阪桐蔭に大敗。山田は夏のリベンジを誓う

その愛情キャッチングは、大橋にも脈々と受け継がれていた、ということか。大橋は、リードでも「信頼している。ミットを目がけて投げるだけ」という山田をうまく支えた。「デッドボールのあと、(踏み込む)左足が踏ん張れなくて、球が高めに行き始めた。なのでスライダーを増やし、ゴロを打たせるようにしたんです」。それが11回170球という、魂の完投を導くわけだ。

記録にも記憶にも残る「近江の春」

それにしても……あわただしく、充実した2週間だった。近畿の補欠1位として、京都国際に代わって出場が決まったのは、開幕前日の3月17日。雨のため一日順延したが、20日の初戦までに宿舎の手配が間に合わず、初戦は学校からバス移動での甲子園入りだった。そこで長崎日大に延長13回、タイブレークで勝利すると、さらに3勝を積み重ねて決勝まで。そこではさすがに、限界に達した山田が自ら降板し、前年夏に勝っている大阪桐蔭に大敗を喫したが、多賀監督はしみじみと語った。

「準決勝は、運命的な勝ち方でした。近年は、私でも驚くような試合をしてくれます」

滋賀県勢、そして補欠校として大会史上初めて果たした決勝進出。記録にも、記憶にも残る近江の春だった。

  • 取材・文楊順行撮影小池義弘

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