池田小、秋葉原…大量殺害を起こした「犯人たちの戦慄肉声」 | FRIDAYデジタル

池田小、秋葉原…大量殺害を起こした「犯人たちの戦慄肉声」

ノンフィクション作家・石井光太が凶悪事件の深層に迫る。

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01年6月、大阪地検へ送検される宅間守

「俺もあんな事件を起こして死刑になりたかった。反省はしていない」

ある殺人者の証言である。

日本で数年おきに起きている無差別殺人は、個別に発生しているのではなく、数珠つなぎに連鎖しているともいえる。

個別に見れば、犯人が抱える精神疾患や障害などが大きく影響しているケースが多いが、彼らは過去に起きた事件に触発され、模倣するかのように刃物を手にして街や駅や学校に向かい、無差別に切りつけて命を奪っている側面もある。

日本で起きている無差別殺人は、それぞれどのような影響を及ぼし、いかなる事件を引き起こしているのだろうか。

「むかついた! ぶっ殺す!」

平成以降に起きた無差別殺人で強烈な印象を残したのが、99年9月に起きた「池袋通り魔事件」だ。

加害者の造田博(事件当時23、年齢は以下同)が犯行の地として選んだのは、池袋の中でも特ににぎわう東急ハンズの入り口付近だった。彼は包丁を握りしめ、「うぉ! むかついた! ぶっ殺す!」などと叫びながら、通りかかる人々に襲い掛かったのである。

最初に襲われたのは60代と70代の夫婦、次に襲われたのが20代の女性だった。さらに造田は高校生3名、中年の男女にも切りつけていく。そして男性数名に押さえつけられるまでに、2名の命を奪い、6名を負傷させたのだ。

この事件が人々に与えたもう一つの衝撃は、逮捕後に造田が述べた犯行動機だった。

「真面目な人がさらに苦しむ一方で、遊んで楽をしていられる身分の人たちがいることに嫌気がさした」

造田は父親の借金のせいで若い頃から借金取りに苦しめられつづけ、大学進学をあきらめた後は、ひもじい生活をしながら転職をくり返す。そんな中でだんだんと社会に恨みを募らせ、それを爆発させるかのごとく事件を引き起こしたのである。

当時の日本は、「失われた20年」と呼ばれる時代の渦中にあり、社会全体が劇的に変化していた。グローバル化が進み、能力主義が顕著になって格差が拡大した。その中で不利な状況にある人々が、より不利益を被る構造ができあがり、社会からこぼれ落ちるケースが増加していたのだ。「ひきこもり」や「非正規雇用」といった言葉が広がったのもこの頃だ。

奇しくも、造田が語った犯行動機は、社会からこぼれ落ちた人々の悲痛な叫びを代弁するものだった。それゆえ、彼の凶行は社会的な物議を醸し、一部の人たちの間でゆがんだ共感が生まれたのである。

この事件からわずか3週間後、造田に影響を受けた一人の人物が新たな無差別殺人を引き起こす。上部康明(35)の「下関通り魔殺人事件」である。

上部は名門の九州大学を卒業したものの、対人恐怖症からうまく人付き合いができず、就職に失敗し、複数の仕事を転々としていた。やがて借金をして個人運送の事業をはじめたが、これもうまくいかず、妻からは離婚を突きつけられる。

自己否定感が膨らんだ上部の脳裏に過ったのは自殺だった。だが、それは社会に対する怒りを含んだ希死念慮だった。彼はこう考えた。

「ただでは死ねない。社会に対し強烈なダメージを与え、恨みや憎しみを晴らしてやろう」

エリートの自分がまともに生きていけないのは社会のせいだと憎悪を膨らましたのである。

彼はレンタカーを借り、下関駅のドアを突破して駅構内に侵入。そのままレンタカーで7名を跳ね飛ばすと、運転席から飛び出し、手にした包丁で人々に切りつけた。死者5名、負傷者10名を出す事件となった。

上部が抱えていた心の病理は、造田のそれとは異なっていたが、社会が自分を貶めたという被害妄想を無差別殺人によって晴らすという点では共通していた。そしてこれがそれ以降の無差別殺人のモデルの一つとなっていくのだ。

宅間の獄中手記。奇妙な絵とともに鬱屈した思いがつづられていた

2つの事件から3年後、兵庫県で日本の無差別殺人史上の中でも類を見ないほどの残虐な事件が起こる。01年に起きた「付属池田小事件」である。

父親による虐待家庭で育った宅間守(37)は、幼少期の頃から異常な言動が多々見られた。動物虐待、同級生等への痴漢行為、さらには暴力性も際立っており、高校時代は教師への暴行によって中退を余儀なくされている。

成人になった後も、宅間は精神科に通いながら、付き合っている女性をはじめとした様々な人間に対して暴力沙汰を起こした。病理については『宅間守 精神鑑定書』(精神鑑定を行った岡江晃氏による著書)を参照してほしいが、その凶暴さは事件までに10以上の前科がついていたことからも明らかだ。そして彼は自身が抱える生きづらさから、だんだんと社会への恨みや死にたいという思いを募らせていく。

宅間が進学校として知られていた付属池田小に乗り込んだのは、6月の午前10時頃だった。彼は出刃包丁を手にし、教室で授業を受けていた生徒や教員に切りかかっていったのだ。死者は小学生8名、負傷者は教員も合わせて15名に上った。

「インテリの子を殺せば死刑になる」

宅間の獄中手記。奇妙な絵とともに鬱屈した思いがつづられていた

逮捕後の取り調べで、彼は次のように供述した。

「エリートでインテリの子をたくさん殺せば、確実に死刑になると思った」

彼の目には、付属池田小の子供たちが自分とはまったく異なるエリート街道を歩んでいる人間に映ったのだろう。そうした子供たちを殺害することによって社会に復讐をし、死刑になってこの世から去りたいと一方的に考えたのだ。こうした行為は「拡大自殺」と呼ばれるようになった。

このプロセスは池袋通り魔事件や下関通り魔殺人事件にも通じるものがあるが、2つの点から大きなインパクトを社会に与えた。1つ目が、大人への無差別殺人ではなく、進学校の小学生に対して行われたという点。2つ目が、自分が死ぬために起こした殺人事件だという点だ。

それまでは社会からこぼれ落ちた人間が、ゆがんだ怒りを社会にぶつけるのが無差別殺人だった。それが、付属池田小事件からは、死刑になるため(あるいは、刑務所で生きたいため)に起こすものになっていくのである。

この宅間守の事件に影響を受けて起きたのが、08年の「土浦連続殺傷事件」だ。

加害者の金川真大(24)は、外務省に勤務する父親の下で育った。もともとの能力は高かったようだが、後に「自己愛性パーソナリティ障害」と診断されるように、なかなか学校生活や人間関係に溶け込むことができなかった。

彼は高校3年の時に突如として進学希望を取り消し、就職を試みるものの失敗。それが大きな心の傷となった。その後は、自宅でゲームに明け暮れながら、たまにバイトをして稼ぐという生活をはじめる。袋小路に迷い込んだ自分の人生に、金川は絶望し、自殺願望を膨らましていく。

――もう死んでしまいたい。

そう思った彼が影響を受けたのが、付属池田小事件だった。宅間のように無差別殺人を起こしてこの世を去りたいという妄想にとりつかれるのだ。

彼が最初に起こした事件は3月19日だった。宅間の真似をするように、自身が卒業した小学校を襲うことを決意したのだ。

だが、犯行当日は卒業式で学校に大勢の人がいたために諦めることに。その後、彼は標的を変え、民家のインターフォンを押し、そこに住んでいた70代男性を包丁で刺殺した。さらに4日後の23日には荒川沖駅へ侵入し、そこにいた人々8名を無差別に殺傷した。合計で死者2名、負傷者7名を出す大惨事となった。

取り調べの中で、金川はこう語っている。

「死刑になるために事件を起こした」

事件直後、警察などに取り押さえられた加藤智大

同じ年、宅間守の影響はより大きな無差別事件となって社会を震撼させる。6月に起きた「秋葉原通り魔事件」である。時に「秋葉事件」とも呼ばれる惨劇の加害者は、加藤智大(25)だった。

加藤は母親の虐待とも呼べるようなスパルタ指導を受けて育った。必死になって勉強したが、心は崩壊していたようだ。なんとか県内有数の進学校に進んだものの、優秀な同級生の中で成績は振るわず落ちこぼれてしまう。これが彼にとって大きな挫折になったことは想像に難くない。

高校卒業後、短大に進学したが、そこでもいろんなことがうまくいかなかった。仕事もつづかない。加藤が少年時代に思い描いていた将来と、この時の現実は180度異なっていただろう。

加藤は希死念慮を膨らまし、複数回にわたって自殺を試みる中で、ネットに様々な書き込みをするようになる。

〈県内トップの進学校に入って、あとはずっとビリ。高校出てから8年、負けっぱなしの人生〉

〈友達ほしい。でもできない なんでかな〉

〈人と関わりすぎると怨恨で殺すし、孤独だと無差別に殺すし、難しいね〉

ネットへ戦慄の書き込み

県内有数の進学校に通っていた高校時代の加藤

明らかな殺人願望や殺人予告のような書き込みもするが、相手にされることはほとんどなかった。それによって加藤はさらに被害妄想を膨らましていく。そして次のように考えるようになる。逮捕後の供述である。

「現実の世界でもネットの世界でも孤独になった。ネットの世界の人間に自分の存在を気付かせてやろうと事件を考えた」

事件を起こした当日の早朝、彼はこんな書き込みをネット上にする。

〈秋葉原で人を殺します 車でつっこんで、車が使えなくなったらナイフを使います みんなさようなら〉

そして借りてきた2トントラックに乗り込み秋葉原に向かう。加藤は、路上を歩いていた人々を次々と跳ね飛ばしたと思うと、運転席を下りて、パニックになっている人ごみへと走っていき、刃物で次々と切りつけていったのである。事件の犠牲者は、死亡者7名、負傷者10名に上った。

加藤が、付属池田小事件や土浦連続殺傷事件に影響を受けたのは明らかだ。逆にすでに逮捕されていた金川も、秋葉原通り魔事件を知って動揺したようだ。彼はまるで加藤に嫉妬するかのようにこう述べたという。

「あいつは、俺よりも大勢を殺した」

自分は殺害したのが2名だったため、7名を殺害した加藤に負けたという忸怩たる思いを抱いたのかもしれない。

このように、無差別殺人は単発で起こるのではなく、何かしらの影響を受けながら起きている。

秋葉原通り魔事件の後も、今度はこれに影響されるように似たような事件が起きている。代表的なものだけでいえば、次のような事件だ。

・10年「マツダ本社工場連続殺傷事件」(死者1名、負傷者11名)

・16年「イオンモール釧路昭和通り魔事件」(死者1名、負傷者3名)

・16年「相模原障害者施設殺傷事件」(死者19名、負傷者26名)

・18年「東海道新幹線車内殺傷事件」(死者1名、負傷者2名)

・19年「川崎市登戸通り魔事件」(死者2名、負傷者18名)

こうした事件が起こるたびに、メディアは犯人の「心の闇」を探ろうと必死になり、ネットでは犯人に対するバッシングが飛び交い、お年寄りは「物騒な世の中になったものだ」と身震いする。

私はこの種の事件をいくつも取材したことがあるが、彼らに共通するのは、人生のどこかの段階で社会の「ブラックボックス」に入り込んでしまっている点だ。

事件が起きて取材に行っても、友人どころか家族までも「最近の彼を知らない」「ここ数年は音信不通」と証言する。写真も小学校や中学校の卒業アルバムくらいしかないということも珍しくない。何年か社会から消えたと思ったら、突然無差別殺人という形で世の中に表出するのだ。

考えなくてはならないのは、社会のブラックボックスには今も大勢の人々がいるという事実だ。むろん、彼らの中でも事件を起こすのはごく一握りだ。しかし、わずかな数の人であっても、過去の無差別事件に影響を受け、似たような思考に陥っている可能性があるとすれば、決して放置していい問題ではない。

ブラックボックスのすべてに光を当てて解決をするのはほぼ不可能だろう。だが、無差別殺人の連鎖と呼ぶべきものがあるのだとしたら、メディアの報道の仕方、事件の捉え方、有識者のコメントの仕方など考えるべき点はいくつもあるはずだ。

※文中敬称略

宅間の獄中手記。鬱屈した内面がつづられている
事件直後、血だらけで警察に身柄を拘束される加藤
加藤は学生時代テニスに興じていた
  • 取材・文石井光太

    77年、東京都生まれ。ノンフィクション作家。日本大学芸術学部卒業。国内外の文化、歴史、医療などをテーマに取材、執筆活動を行っている。著書に『「鬼畜」の家ーーわが子を殺す親たち』『43回の殺意 川崎中1男子生徒殺害事件の深層』『絶対貧困』『レンタルチャイルド』『浮浪児1945-』などがある。

  • 撮影小松寛之 郡山総一郎 加藤 慶

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